太宰治

 私は本屋にはいって、或る有名なユダヤ人の戯曲集を一冊買い、それをふところに入れて、ふと入口のほうを見ると、若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のような感じで立って私を見ていた。口を小さくあけているが、まだ言葉を発しない。
 吉か凶か。
 昔、追いまわした事があるが、今では少しもそのひとを好きでない、そんな女のひとと逢うのは最大の凶である。そうして私には、そんな女がたくさんあるのだ。いや、そんな女ばかりと言ってよい。
 新宿の、あれ、……あれは困る、しかし、あれかな?
「笠井さん。」女のひとは呟くように私の名を言い、踵をおろして幽かなお辞儀をした。
 緑色の帽子をかぶり、帽子の紐を顎で結び、真赤なレンコオトを着ている。見る見るそのひとは若くなって、まるで十二、三の少女になり、私の思い出の中の或る影像とぴったり重って来た。
「シズエ子ちゃん。」
 吉だ。

3 thoughts on “太宰治

  1. shinichi Post author

    レトリック感覚
    by 佐藤信夫

    第1章 直喩
    ふと入口のはうを見ると,若い女のひとが鳥の飛び立つ一瞬前のやうな感じで立つて私を見てゐた。

     自分の経験や心の動きを一般的な単語(標準的なものの見方を表現するための言葉の部分品)で表現することが難しいと感じることはよくあるだろう。つまり共有している言語表現にぴたりとくることばがないときに、喩えによって意味の共有をしようとする。そうした表現の工夫、ことばのあやで最も基本的なものを比喩または明喩と呼ぶ。これは文章を飾る付加的な表現手段ではなく、固有な事柄を表現するための認識の手段である。また科学的な正確さではなく、印象的な正確さとしてたとえる認識の型である。  
     言語は現実を忠実に記述するために便利な道具では必ずしもない。書き手は表現に工夫を凝らし、読み手は理解するために努める。しかし、書き手と読み手との関係は基本的な信頼関係がなければ成り立たず、表現と理解を取り持つ確証がないことのほうが多い。  
     レトリックでは喩える事柄と喩えられる事柄の類似性を前提としている。しかしその前提は書き手の前提であり、読み手の前提ではない。読み手がそれを受け容れるかどうかは保証されていない。仮に読み手がそれを受け容れない場合、むしろその直喩は対象間に類似性があることの提案となる。そして読者ははそれがわからなくても、まず受け入れてみるということが認識の共有のために協力の一歩目となる。  
     ふたつ以上の概念の両極(相違と同一)のあいだに類似性があると考えることができる。一般に直喩は類似性を取り出す上でいかに同一に近いことがらなのかを問題にする。だが直喩は同時に喩えることと喩えられることのあいだがどれだけ相違に近いのか(類似していないのか)を浮かび上がらせるということもできる。  
     ベルギー・リエージュ大学のグループμという研究グループは、レトリックはつねに「いつわりの」ものであるという。「いつわりの」比較とは、もともと比較するべき類似性が期待されていないところに意外性のある類似を見出すことである。つまり類似性が当然視され、期待されている比較とはレトリックではなく,平叙文であるというのである。このように直喩を巡っても諸説あるが、レトリックとは表現内容や対象を基準として比喩の形式化ができるないことは確かなことであろう。

    佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社,1992)の紹介掲載
    by 高田一樹
    立命館大学大学院 先端総合学術研究科
    http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9200sn.htm#rhetoric03

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  2. shinichi Post author

    修辞法の分類
    by 雨宮俊彦
    http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~ame/word/Rhetor.html

    2.意味の拡張(認知意味論的レトリック)
    ○直喩(simile)
    「法王ボニファキオ八世は、狐のようにその地位につき、獅子のようにその職務をおこない、犬のように死んだという。」(モンテーニュ「エッセー」)、「ふと入り口のはうを見ると、若い女のひとが、鳥の飛び立つ一瞬前のやうな感じで立って私を見ていた。」(太宰治「メリイクリスマス」)、「(覆された宝石)のような朝/何人か戸口にて誰かとささやく/それは神の誕生の日」(西脇順三郎「ギリシャ的叙情詩・天気」)

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