shinichi Post author18/06/2013 at 9:50 am レトリック感覚 by 佐藤信夫 第2章 隠喩 葦名の目の色がかすかにうごいて、笑のさざなみをふくんだやうであった。 隠喩はあることがらに似ている別のことを表現するために流用する「あだ名」といえる。また文章全体が隠喩として別の状況を連続,展開して表現しているさいには諷喩という。 近代の修辞(表現法)理論を研究したフランスのピエール・フォンタニエによれば、平叙表現でつかわれるべき語句に別の語句を代入することで文章全体に臨時の意味が生まれると隠喩を説明した(代入理論)。この代入理論にはふたつの批判がある。ひとつは、言葉がもつ意味の多義性が、ことばの置き換え(代入)によって臨時の意味だけに還元され、意味の一元化を招く説明であること。ふたつめには代入の語句だけが注目され、その語句が選択された文脈、前後の言葉との緊張関係を見失いかねないことがある。 フォンタニエは隠喩を縮約された直喩や一語に還元された直喩と述べている。だから隠喩は直喩に比べて誤解されやすい。それはまた読者に結論を委ねる割合が大きく、比喩を発見させることで読者に驚きを与える機能をもつともいえる。つまり隠喩は直喩より簡潔で気が利いている。たとえばシェイクスピアは「思い知らせてやろう、君の恋募っている白鳥のように上品で美しい娘が烏のようなただの下品でみにくい娘だったと」とは言わずに「思い知らせてやろう,君の白鳥がただの烏だったと」と表現する。このように19世紀後半から古典レトリックが人々の興味を引かなくなった後も隠喩は実践としていきつづけた。 しかし「直喩は隠喩の幼稚な変形である」という古典レトリックの「常識」は修正を加えられるべきである。なぜなら直喩と隠喩は連続性があり、個別に論じられることではないということである。たとえば「ジャックはろばのように愚かだ」「ジャックはろばのようだ」「ジャックはろばだ」「ろばだ!」という4つの比喩がある。この両端がそれぞれ直喩と隠喩である了解は得られるだろう。しかしそれ以外の比喩のあいだに共通の線引きはできない。これまでレトリックの研究者は直喩と隠喩を別個の比喩表現としてとらえ、書き換えることで変換が可能だと考えてきたが、それは適切ではない。直喩と隠喩は本来分かちがたいことをふたように表現したことであり、ふたつの比喩を使い分ける状況を書き手と話し手がそれぞれ独自に判断して用いているのである。 ではどのように使い分けられているのか。直喩は比喩に説明的なことばをつけくわえることである認識の共有をめざすことを目的にする場合につかわれる。それに対し、隠喩はあらかじめ相手がある直感を共有していることを話し手が前提としたときに、感性的なことばの表現を目指してつかわれるのである。 隠喩が類似しているということは表現のなかに説明的なことばがないために必ずしも認識を共有しているとはいえない。隠喩が成功するためには、共感を呼ぶ性質があるからであり、それはステレオタイプ化しやすい性質だとも言える。またこうした比喩はひとつの言葉で新しいイメージを一気に掴めるという便利さによってどれだけよくつかわれるかどうかが決まる。 隠喩は新しい思考を引き出し、従来の常識と古い辞書の認識方法に異議を唱えるのである。しかしその思考の成果である比喩は、仮に成功して広く活用されることとなったとしても、それはやがて慣用表現という常識の体系に組み込まれていく。このようにかつては比喩であった表現が今では完全にステレオタイプ化した比喩を転化表現(カタクレーズ)と呼ぶ。また新しい思考である比喩は名詞だけを対象としているのではない。動詞、形容詞、副詞なども対象であるし、文法的な拘束を受けずに広がる可能性をもっている。隠喩は直喩のように類似性を創造できないが、隠れている類似性を掘り起こして再確認する働きをもっているのである。 佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社,1992)の紹介掲載 by 高田一樹 立命館大学大学院 先端総合学術研究科 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9200sn.htm#rhetoric03 Reply ↓
shinichi Post author18/06/2013 at 2:19 pm 修辞法の分類 by 雨宮俊彦 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~ame/word/Rhetor.html 2.意味の拡張(認知意味論的レトリック) ○隠喩(metaphor) 「月見うどん」、「白雪姫」、「甘い生活」、「堅物」、「熱い議論」、「腹を割って話す」、「壁につきあたる」、「社会の歯車」、「わたしはかつて心に次のような問いをおこしたとき、ほとんど自分自身の問いによって窒息しそうになったのである。「なに?生はこの賎民をも必要とするのか」毒でけがされた泉が必要物なのか。悪臭を放つ火が。きたならしい夢が。生のパンのなかのうじ虫が。」(ニーチェ「ツァラツァストラはこう語った」) Reply ↓
葦手
by 石川淳
レトリック感覚
by 佐藤信夫
第2章 隠喩
葦名の目の色がかすかにうごいて、笑のさざなみをふくんだやうであった。
隠喩はあることがらに似ている別のことを表現するために流用する「あだ名」といえる。また文章全体が隠喩として別の状況を連続,展開して表現しているさいには諷喩という。
近代の修辞(表現法)理論を研究したフランスのピエール・フォンタニエによれば、平叙表現でつかわれるべき語句に別の語句を代入することで文章全体に臨時の意味が生まれると隠喩を説明した(代入理論)。この代入理論にはふたつの批判がある。ひとつは、言葉がもつ意味の多義性が、ことばの置き換え(代入)によって臨時の意味だけに還元され、意味の一元化を招く説明であること。ふたつめには代入の語句だけが注目され、その語句が選択された文脈、前後の言葉との緊張関係を見失いかねないことがある。
フォンタニエは隠喩を縮約された直喩や一語に還元された直喩と述べている。だから隠喩は直喩に比べて誤解されやすい。それはまた読者に結論を委ねる割合が大きく、比喩を発見させることで読者に驚きを与える機能をもつともいえる。つまり隠喩は直喩より簡潔で気が利いている。たとえばシェイクスピアは「思い知らせてやろう、君の恋募っている白鳥のように上品で美しい娘が烏のようなただの下品でみにくい娘だったと」とは言わずに「思い知らせてやろう,君の白鳥がただの烏だったと」と表現する。このように19世紀後半から古典レトリックが人々の興味を引かなくなった後も隠喩は実践としていきつづけた。
しかし「直喩は隠喩の幼稚な変形である」という古典レトリックの「常識」は修正を加えられるべきである。なぜなら直喩と隠喩は連続性があり、個別に論じられることではないということである。たとえば「ジャックはろばのように愚かだ」「ジャックはろばのようだ」「ジャックはろばだ」「ろばだ!」という4つの比喩がある。この両端がそれぞれ直喩と隠喩である了解は得られるだろう。しかしそれ以外の比喩のあいだに共通の線引きはできない。これまでレトリックの研究者は直喩と隠喩を別個の比喩表現としてとらえ、書き換えることで変換が可能だと考えてきたが、それは適切ではない。直喩と隠喩は本来分かちがたいことをふたように表現したことであり、ふたつの比喩を使い分ける状況を書き手と話し手がそれぞれ独自に判断して用いているのである。
ではどのように使い分けられているのか。直喩は比喩に説明的なことばをつけくわえることである認識の共有をめざすことを目的にする場合につかわれる。それに対し、隠喩はあらかじめ相手がある直感を共有していることを話し手が前提としたときに、感性的なことばの表現を目指してつかわれるのである。
隠喩が類似しているということは表現のなかに説明的なことばがないために必ずしも認識を共有しているとはいえない。隠喩が成功するためには、共感を呼ぶ性質があるからであり、それはステレオタイプ化しやすい性質だとも言える。またこうした比喩はひとつの言葉で新しいイメージを一気に掴めるという便利さによってどれだけよくつかわれるかどうかが決まる。
隠喩は新しい思考を引き出し、従来の常識と古い辞書の認識方法に異議を唱えるのである。しかしその思考の成果である比喩は、仮に成功して広く活用されることとなったとしても、それはやがて慣用表現という常識の体系に組み込まれていく。このようにかつては比喩であった表現が今では完全にステレオタイプ化した比喩を転化表現(カタクレーズ)と呼ぶ。また新しい思考である比喩は名詞だけを対象としているのではない。動詞、形容詞、副詞なども対象であるし、文法的な拘束を受けずに広がる可能性をもっている。隠喩は直喩のように類似性を創造できないが、隠れている類似性を掘り起こして再確認する働きをもっているのである。
佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社,1992)の紹介掲載
by 高田一樹
立命館大学大学院 先端総合学術研究科
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9200sn.htm#rhetoric03
修辞法の分類
by 雨宮俊彦
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~ame/word/Rhetor.html
2.意味の拡張(認知意味論的レトリック)
○隠喩(metaphor)
「月見うどん」、「白雪姫」、「甘い生活」、「堅物」、「熱い議論」、「腹を割って話す」、「壁につきあたる」、「社会の歯車」、「わたしはかつて心に次のような問いをおこしたとき、ほとんど自分自身の問いによって窒息しそうになったのである。「なに?生はこの賎民をも必要とするのか」毒でけがされた泉が必要物なのか。悪臭を放つ火が。きたならしい夢が。生のパンのなかのうじ虫が。」(ニーチェ「ツァラツァストラはこう語った」)