尾崎一雄

もしも、誰かが、私という男を、私が毛虫を嫌う程度に厭がっているとしたら、――もしも私に対してそんな気持を持つ人間が一人でもこの世に居ることを知ったら、私はもう生きている気持を失うだろう。そんなにまで思われて、どうしておめおめ生きていることが出来るだろう。

3 thoughts on “尾崎一雄

  1. shinichi Post author

    レトリック感覚
    by 佐藤信夫

    第5章 誇張法
    もしも、誰かが、私という男を、私が毛虫を嫌う程度に厭がっているとしたら、-もしも私に対してそんな気持ちを有つ人間が一人でもこの世に居ることを知ったら,、私はもう生きている気持ちを失うだろう。そんなにまで思われて、どうしておめおめ生きていることが出来るだろう。

     千載一遇や一日千秋などの表現の誇張にわれわれはさして立腹も驚きも抱かない。古典レトリックの修辞理論では誇張法(イペルボール)は比喩に並ぶ表現技法として扱われていた。だが誇張法は長いあいだ肯定論と否定論の板ばさみにあってきた。
     誇張法は平常文では成り立つはずのない誇張された言葉で表現することである。多くの学者は誇張法が人を惑わせる働きを持つという共通見解をもっていた。そのうえで肯定派はうそは罪悪だが真実に近づくためには許容されるという立場をとった。また否定派は言語はうそをつくためにあるのではなく、言語にうそをつかせることをすべきではない。そしてうそをうそとわからせるように遣うことはうそへの反逆である。誇張法は二重の反逆であり、表現の否定であるという。
     ここで虚偽とうそを話し手の騙す意図があるか否かをもとに区別して考えてみる。こうして考えると古代レトリックで問題にされていた誇張法は虚偽であり、一読でそれが事実でないことがわかる修辞であった。言語という記号を支えるのは約束と信用である。うそは信用への裏切りであり、言語への脅威である。だがそれを脅威と考えるのは言語は本来的に虚偽を含み、うそをつくことが可能だということだ。
     自然の事実にうそがないのはうそをつかないのではなく、うそをつけないからなのである。うそであるレトリックを否定して平叙文のみからなる言語観は文化を擬似自然にするのではないか。誇張法によって事実と論理が崩れることが注目されがちである。しかし事実と論理に忠実な記述が結果的な誇張となってしまう表現もあるのだ。

    佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社,1992)の紹介掲載
    by 高田一樹
    立命館大学大学院 先端総合学術研究科
    http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9200sn.htm#rhetoric03

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  2. shinichi Post author

    修辞法の分類
    by 雨宮俊彦
    http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~ame/word/Rhetor.html

    3.伝達のひねり(語用論的レトリック)
    3.3.余計に強く言ってつたえる
    ○誇張法(hyperbole)
    「万力」、「千枚通し」、「万年筆」、「一日千秋」、「兎小屋」、「猫の額」、「死にそうに疲れている」、「支配人は総金歯をにゅっとむいて笑ったので、あたりが黄金色に目映く輝いた。」(井上ひさし「モンキンポット師の後始末」)、「こりゃ何という手だ。や、目の玉が抉られる。/大ネプチューンの大洋の水を皆使ったらこの血をば/きれいに洗い落とせるだろうか。いや、いや。おれのこの手は/却っておびただしい海の水を朱に染めて、/青をば赤一色にするだろう。」(シェイクスピア「マクベス」)

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