Jerry Minchinton

I refuse to feel bad just to make others feel better.

_________________________________________

Once you grasp that all your actions need not be perfect, you will eliminate a substantial amount of stress and discomfort from your life. Guilt is a combination of feelings;

Anger, because you have behaved below your standards;
Shame, because you believe you have done something that is beneath you; and
Embarrassment, because of what you think others think.

Guilt is the wish that you could undo something you have done.

4 thoughts on “Jerry Minchinton

  1. shinichi Post author

    生まれつき
    価値のある存在なのだから

    自分の価値を
    他人に証明する必要はない。

    周りの人たちの話し方を
    まねながら
    話すのを覚えたのと同じように

    私たちは
    周りの人たちの行動をまねながら
    感情的反応を身につけたにすぎない。

    銃を持っているからといって、
    発砲しなければならない
    というわけではない。

    私たちが怒るのは、
    怒らなければならないからではなく、
    怒ることを選ぶからである。

    不幸な気持ちになるのは、
    不幸が避けられないからではなく、
    不幸な気持ちになることを
    選ぶからである。

    私たちが他人に向かって、
    「あなたのせいですごく腹が立つ」
    と言うとき、

    実質的には
    「あなたのせいで
    私はすごく気分が悪いのだから、
    あなたは変わる必要がある」
    と言っているのだ。

    しかし、たとえ他人が私たちの
    感情的な問題の責任を
    受け入れてくれても、
    満足のいく解決策にはならない。

    症状を取り除いても
    原因がそのままである限り、
    同じような問題がまた発生するからだ。

    自分の気分が悪いことを
    他人のせいにすることは便利だが、
    他人にそんなに
    大きな力を与えてしまうと、
    自分の立場が弱くなるだけである。

    そうなると、私たちは他人が
    親切にしてくれるを期待しながら、
    生きていかなければならなくなるが、
    そんなことは
    実際に期待できるはずがない。

    自分の精神的苦痛を和らげるために、
    世の中とそこのすべての住人を
    変える必要はない。

    問題の根源は
    私たち自身にあるからだ。

    私の感情は
    完全に私の支配下にあるのだから

    私が経験する精神的苦痛の
    責任を負っているのは
    他人ではなく私である。

    かなりひどい過ちも含めて、
    過ちを犯すことは
    きわめて正常である。

    私が犯した過ちは、
    私の知性や人間としての
    価値とは関係ない。

    私たちはどんなに
    愚かな過ちを犯しても、
    それをすすんで認めるべきである。

    私たちは死ぬまでつねに
    過ちを犯しつづける存在なのだ。

    過ちを犯しつづけるかぎり、
    自分がまだ生きて
    学んでいることの証である。

    他人の好ましくない行動を
    根絶しようとするとき

    私たちは果てしなく豊かな
    創造性を発揮する。

    注目すべきことは、
    私たちが他人を変えようとして、
    様々なテクニックを
    駆使することではなく

    他人の不快な行動を変えさせるために
    私たち自身がかなり不快な行動を
    とっているという事実である。

    私たちは知性、善悪の判断、
    倫理、道徳、正義、善良さ、
    礼儀作法などの面において、
    自分が他人よりも優れている
    と思い込んでいる。

    自分のやり方こどが正しく、
    他人のやり方は間違っている
    というわけである。

    もしそう思い込んでいないなら、
    自分が他人を評価できる立場にあるという
    無神経で独善的な
    思い込みはしないはずだ。

    私たちは
    心の中で映画を上映している。

    どうせなら、楽しい映画を上映すれば、
    ポジティブな気持ちでいられる。

    自己中心的名人は
    称賛を求めるが、
    自尊心の高い人は称賛を求めない。

    自分の価値を信じているから、
    他人からの称賛など
    必要としないのである。

    利己的な人間は
    自分を愛しすぎているのではなく
    自分をほとんど愛していない。

    彼らの行動は
    過剰な自己愛の産物のように
    見えるかもしれないが
    実際は自信のなさに起因している。

    利己的な人が
    他人を愛していないのは事実だが
    それよりもずっと
    自分を愛していないことが
    問題なのだ。

    自尊心が高ければ
    問題を引き起こす行動に気付いて
    それを取り除くことが容易になる。

    自分で問題をつくり出すのではなく、
    心の平和を享受する。

    人生が苦しみではなく楽しみになる。
    人生とは楽しいものなのだ。

    私たちに秘められた可能性は、
    無限だ。

    私たちはあるがままの自分を
    愛されたことが
    めったになかったので、
    自分が基本的に
    愛されない存在だと
    思い込むようになった。

    愛はビジネスの取引のように
    何かと交換する商品だと勘違いした。

    私たちが一定の規則に従い、
    特定の条件を満たした場合にのみ、
    親は私たちに愛を与えてくれた。

    いい成績をとったとき、
    問題を起こさなかったとき、
    言いつけを守ったとき、
    自分の部屋をきれいに片づけたとき、
    頑張って勉強したとき、
    いい友達を選んだとき、
    親の様々な期待に応えたとき、
    などだ。

    けれども、私たちがそういった要求に
    応えられなかったとき、
    親は私たちを愛してくれなかった。

    何らかの点で自分より優れている人と
    比較されることによって、
    私たちは自分が劣っていると
    感じさせられてきた。

    例えば、こんな具合だ。
    「近所のあの子は勉強ができるのに、
    なぜあなたは勉強ができないの?」
    「なぜ隣の子のように
    いつもお行儀よくできないの?」
    「いとこは奨学金をもらったのに、
    なぜあなたは頑張ってしなかったの?」

    親は私たちの長所を褒めずに、
    短所ばかり強調した。

    だから、私たちは自分が
    深刻な問題を抱えていると
    思い込むようになった。

    多くの人は比較によって、
    自分が無知だ、邪悪だ、
    醜い、太ってる、みじめだ、
    間抜けだ、不注意だ、怠け者だ、
    愚か者だ、不器用だ、どうしようもない、
    というようなありとあらゆる痛烈な言葉で
    自分を表現するようになった。

    私たちはこうして自分に
    否定的なレッテルを数多く貼って育った。

    親から浴びせられた批判の言葉は
    あまりにも馴染み深くなり、
    私たちはとうとう自分で
    自分を罵倒するようになった。

    何かが真理であると思い込むと、
    それが実際に
    真理であるかどうかは関係ない。

    私たちはいったん思い込みにとらわれると、
    まるでそれが真理であるかのように
    ふるまうようになる。

    私たちが幸せな人生を
    送ることができないのは

    「ゴミ」のような考え方を
    心に植え付けているからである。

    私たちの課題は
    自分をより愛することではなく、
    自分をより嫌わないことだ。

    高い自尊心をつくり出す必要はない。
    高い自尊心は自然な状況なのだ。

    有害な間違った考え方を取り除けば、
    おのずと自分に好感が持てるようになる。

    低い自尊心の原因となっている
    間違った考え方を取り除けば
    自分を嫌う理由がなくなるから、
    私たちはおのずと自分が好きになる。

    自尊心を取り戻すことは、
    今まで毎月の家賃を
    払うお金に困っていたのに

    自分の銀行口座に
    百万ドルの預金があることを
    思い出したようなものだ。

    他人からどう見られているかを
    想像することほど、
    無駄なことはない。

    他人の意見は
    自分の意見よりも重要だろうか?

    もし他人の意見が
    自分の意見よりも重要だと思うなら、
    自分よりも他人を
    重視していることになる。

    他人から認められるためには、
    彼らが認めてくれるような
    行動をとらなければならない。

    その結果、他人によく思われたいと
    決意した瞬間に、
    私たちは思いどおりの
    生き方をする自由を失う。

    奇妙なように思えるかもしれないが、
    私たちが他人に認められようとするのは、
    自分で自分を認めていないからだ。

    私たちが他人のことをどう思おうと
    私たちの勝手であるのと同じように

    他人が私たちのことをどう思おうと
    他人の勝手である。

    内なる批判者は
    「過去」と「失敗」にこだわるが、

    あなたは「現在」と「成功」に
    意識を向けて生きていくべきだ。

    内なる批判者と仲よくしてはいけない。
    それは、あなたの最大の敵なのだ。

    ミスを犯した自分を
    厳しく責めるのではなく、
    そのミスから学ぶことを心がけよう。

    ミスを犯さない人がいるとすれば、
    それは何もしない人だけである。

    親切について
    心に銘記すべきことは何だろう?

    それは、
    「親切は連鎖する」ということだ。

    あなたが誰かに親切にすれば、
    その人も誰かに親切にしたくなる。
    こうして親切の輪が広がるのである。

    人がほめてくれたときは、
    寛大な気持ちでそれを受け入れ、
    心からお礼の言葉を述べよう。

    あなたはほめられるだけの
    価値があるのだから。

    現実を直視しよう。
    変えることの出来ない現実は、
    受け入れる以外に方法はない。

    内なる批判者は
    「過去」と「失敗」にこだわるが、

    あなたは
    「現在」と「成功」に
    意識を向けて生きていくべきだ。

    内なる批判者と
    仲よくしてはいけない。
    それは、あなたの最大の敵なのだ。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *