園田和洋

近くの日向大神宮で参拝を済ませた遮那王と金売吉次は、前方から馬に乗って猛スピードで近づいてくる数人の武士とすれ違う。平家の武士、美濃国の関原与一ら9人である。「見破られたのか?」と道の脇で顔を伏せてかわそうとしたが、どうやらそうでもなさそうな雰囲気。内心ホッとする。
でも、それも束の間。悪いことに馬が蹴り上げてはねた泥水が服にかかってしまった。だが、謝ることなく過ぎ去ろうとした関原たち。ついカッとなった遮那王は「無礼なやつ!!」と叫ぶなり、一瞬のうちに9人を切り捨てたのだ。また、関原だけ耳鼻をそいで逃したという話も残るが、いずれにせよ旅の吉兆と喜んだ2人だった。
遮那王は都を出た日の夜、近江国の鏡の宿で、自から髻を結うと烏帽子をかぶって元服し、名を源義経と改めたという。

2 thoughts on “園田和洋

  1. shinichi Post author

    (sk)

    今なら、その日のうちに逮捕。裁判では「何ら落ち度のない被害者たちの命を奪った残虐で非人間的な犯行で、その刑事責任はあまりにも重大で死刑を是認せざるをえない」とされ、また「被告は犯行当時犯行当時、京都を本拠に全国に勢力をふるう広域暴力団『平家組』から逃れ、自分たちの勢力を立て直すために平泉に向かう途中であったというが、酌むべき事情を十分考慮しても刑事責任はあまりにも重大」、「冷酷、残虐で非人間的な犯行」などと批判され、「遺族の処罰感情は峻烈を極めている」とも言われ、死刑が確定。新聞や週刊誌で悪者にされたあげく、1年もしないうちに忘れられるだろう。

    1174年の出来事とはいえ、これを美談にして語り継ぐのは、もういい加減やめたらどうか。こんな行いが英雄視されるなかから次の「英雄」が現れたとしても、なんの不思議もない。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *