瀬尾佳美

一円も掛け金を払わずに、年金を受け取る人がいる。三号被保険者、つまり、サラリーマン世帯の専業主婦である。

(ニートをやっている若者は)主婦型ライフのまねをしてニートをしているのではないか。働かないことにインセンティブを与えるような社会で育った子供がこれはオトクと思ってしまうことはけっして不思議ではない。イタリアでは将来なにになりたい?ときかれた子供の何人かは「失業者。だっていつも家にいられて楽だもの」と答えるそうだ。

2 thoughts on “瀬尾佳美

  1. shinichi Post author

    三号被保険者制度の早期撤廃を
    ―いくらなんでも不公平!!-

    by 瀬尾佳美

    http://okame21.web.fc2.com/topics/shufu1.htm

    国民年金が空洞化してきている。社会保険庁が8日発表した2000年度の社会保険事業概況によると、2001年度の未納率は史上最悪で27%であった。国の年金制度に対する、現役世代の不信感は強い。払っても払わなくても、どうせもらえはしない、と考えている人は私の世代では多数派ではなかろうか。

    年金崩壊の予感はセールストークにまで利用されている。先日も不動産屋が電話をしてきて、都内にワンルームマンションを買え、という。国の年金制度は当てにならない。今のうちに老後の収入を確保しろ、ということだ(注:マンションは古くなったら価値がなくなりますので、こんなセールストークに乗ってはいけません)。

    マンションを買うかどうかは別にして、年金崩壊の予感は現役世代の消費に重大な影響を及ぼしていると実感する。今、日本は、デフレだ、経済危機だといわれる。しかし、個人消費が伸びないのは、個人がお金を持っていないからというより、お金が回っていないことにより大きな原因があるように思われる。個人の貯蓄率は相変わらず高い。莫大な貯蓄で老後に備えているのである。将来年金がもらえなくなるという危機感は、どうしても現在の消費を鈍らせる。インフレのリスクが感じられない以上、将来に備えるにはお金で持っているに越したことはない。デフレに拍車がかかれば、ますますお金で持っているほうが有利である。なかなか景気が回復しないわけだ。

     国民年金は掛け金を払わなければ、将来の受け取り額が少なくなる、またはもらえなくなることもある。が、どうせ崩壊するのなら、払わないで、預金に回した方が賢い、と考える人が増えているのか、年金空洞化は進む一方である。本当に崩壊してしまえば、払わなかった者勝ちである。ところで、掛け金を払わなければ受け取れない、というのは国民年金の原則である。たとえば、任意加入だった時期に保険料を払っていなかったため、年金をもらえず、困窮している障害者がいるが、この方々に対する国のスタンスは「年金は保険料を払った人がもらえる。払っていない人に出すと、制度の根幹にかかわる」というものである(朝日,1999)。しかし、一方に、一円も掛け金を払わずに、年金を受け取る人がいる。三号被保険者、つまり、サラリーマン世帯の専業主婦である。

    専業主婦(三号被保険者)の国民年金は、配偶者が代わりに払っているわけではない。ここのところを勘違いしている人はかなり多い(大学教授にすらこういう輩がいる。学生諸君、要注意)。既婚、未婚にかかわらず、支払う保険料は同じである。専業主婦の年金は、シングルや共稼ぎ世帯などの支払った掛け金で賄いわれているのだ、と言ってしまうと必ずしも正確ではないが、そういう不公平感が存在するのは当然といえる。しかも、その数がまた多い。三号被保険者は国民の実に10人に一人、1千 200万人も存在しているのである。一号被保険者(国民年金の加入者で支払い義務のある人)が2千万人程度で、その7割が実際支払っているとして、1千 400万人、厚生年金の加入者が3千万人台であることを思えは、1千200万人の主婦の存在はいかにも重い荷物といえる。前述の障害者のケースとは桁が何桁も違う。これが「制度の根幹にかかわる」問題でなければ、制度の根幹にかかわる問題など存在しない。

    しかし、三号被保険者制度の撤廃については意見百出でなかなか先へ進めないのが現状である。この制度存続を支持する人が持ち出す典型的な議論がいくつかあるので、ここではその一つ一つについて考えてみる。

    まず、“専業主婦は、子育てや地域の活性化など、ちゃんと役に立つ仕事をしている。”というものがある。これは主婦自身がよく持ち出す、最も稚拙な議論である。 “役に立つ仕事をしている”のが、仮に事実だったとして、だから払わなくてもよい、という理屈はどこから出てくるのか。年金の掛け金を払っている人は、 “役に立たない仕事”をしているからペナルティーで支払っているわけではない。“掛け金は役に立たない人が払うものだ”、という理屈がない以上、“役に立っている!”と強弁することには何の意味もない。少なくとも、払わなくて貰えるという現行制度を正当化する役には全くたたないのである*。

    *「三号被保険者は掛金を払わないのに年金を受け取る」これは単純な事実である。にもかかわらず、この事実を指摘されただけでなぜか怒り出し、賤業主婦は子育てをしている!などと言い出す人がいるのには困ったものだ (子育てなんか専業の特許じゃないけどね)。たとえば飲食店で食べるだけ食べて代金を払わずに店をでることを無銭飲食という。これは単なる事実。そこに「無銭飲食をしている人は子育てや役に立つ仕事をしているんです!」なんていったって無銭飲食は無銭飲食だ。こういった意味不明の屁理屈こそ石原里紗が指摘している専業主婦の特徴なのだと思う。ちはみにこの本は、このサイトの読者(男性・既婚)が面白いからと教えてくれたもの(*下にアマゾンのリンクをはりました)。

    似たようなものに、“専業主婦は子育てをしている。子供はいずれ社会貢献をする”というものがある。これは先のものよりは若干説得力があるかもしれない。(個人的には最も嫌い。主婦はすぐ子供を武器にして戦おうとする。しかも子供を守るためではなく、自分の存在を正当化するための戦いだ。)しかし、子育てをしているから払わなくてもよいのであれば、共稼ぎで子供を育てている人(専業主婦の何倍も苦労しているだろう)は払わなくてよい、としなければ理屈に合わない。逆に、専業主婦で子供のいない人、あるいは事故や病気で結果として子供を失ってしまった人には、払ってもらわなければならない。もっと言えば、例えば、3人の男の子がいずれも、年金をキチンと支払う大人になったというお母さんと、一人娘がまたまた専業主婦になってしまったというお母さんでは、年金制度に対する貢献度はずいぶん違うと言わざるを得ないではないか。そもそも、ある人の社会的貢献度を別の人(夫であれ、子供であれ)で計るのは妥当とはいえない。税金であれ年金であれ、夫婦や世帯単位ではなく、あくまで個人を基礎として考えるべきなのだ。

    同様に無意味なものに、厚生労働省の「女性と年金検討会」の堀岡弘嗣氏(東芝人事勤労部労政担当部長)の「価値観は多様で、家庭に入りたい女性もいる」という主張がある。これは問題のすり替えである。いま持ち上がっているのは、女性が家庭に入るのが正しいかどうかという問題ではない。そのたった一つの選択肢(価値観が多様であるにもかかわらず!)に国が経済的インセンティブを与えていることが問題なのだ。また、その女性の選択によって発生したコストを他の人に押し付けている現状が問題なのである。家庭に入りたい女性がいるのはかまわない。でも、自らの選択のコストは、自ら負担すべきであろう。

    ところで、同じように「家庭に入る」選択をした人でも、夫が自営業者の場合(一号被保険者)の場合は、妻も一号被保険者となり、国民年金の掛け金を支払わなければならない。つまり、三号被保険者制度は、「サラリーマンの」専業主婦限定の特別優遇措置なのである。なぜ、同じ専業主婦でも自営業者の妻は支払わなければ無年金になり、サラリーマンの妻は支払わなくても年金がもらえるのか。上でみた、3 つの議論はいずれも、この矛盾を説明してくれない。サラリーマンの主婦と自営業の主婦の差は、三号被保険者制度が生み出している不公平感のなかでも最大のものといってよい。もっとも、この差は、三号被保険者制度を自営業者の専業主婦にも拡大すれば解消する。しかし、この案は年金制度崩壊に大手をかけてしまうためか、全く検討の対象になっていない。

    最も説得力があるのは、「払えないんだから仕方がないじゃん」というもの。社会保障なんだから、能力に応じて支払い、必要に応じて受け取ればよい、という考え方である。これはこれで一つの考え方である。が、これは先の「制度の根幹」を考え直す覚悟が必要である(まさに、資本主義から社会主義への大転換)。くりかえすが、払えない(=収入がない)、からという理由で払わなくても受け取れるのは、現行では、サラリーマンの主婦の場合だけである。自営業の主婦の場合は先に述べたが、サラリーマンの夫がリストラにあい、二号被保険者の資格を失うと、妻は自動的に三号の資格を失うことになる。つまり、失業で前よりもっと払いにくい状態になると、なぜか支払い義務が発生するのである。これは矛盾である。また、同じく収入がなくても、学生には支払い義務があり、未払いの期間が長くなれば、年金額が減らされる。また、夫以外の人、例えば、老親や子の世話になっている、という人も、三号のような優遇はうけられない。相互扶助として年金を位置づけ、矛盾なく運営するつもりなら、あらゆる理由で保険金を支払えない人にも、優遇措置を拡大しなければならない。サラリーマンの主婦だけ、というのではいかにも不平等である(しかも人数からみて“例外”とはいえない)。

    最後に、有力な反論のようでぜんぜん有力ではない意見を紹介する。発信元は上智大法学部教授の堀勝洋氏(引用は朝日、1999)。 曰く、「夫が月給四十万円、妻が専業主婦の場合、“夫の四十万円分の保険料+妻の保険料”、夫婦二十万円ずつの収入なら“夫婦で計四十万円分の保険料”。年金の受給額は同じなのに不公平」。よくこんなことを言うものだ。こういう制度には未だなっていないので、“年金の受給額は同じ”というくだりがどこから出てくるのか分からない。改革する際に保険料に応じて受給できるようにしておけばすむことだ。つまり、“夫の四十万円分の保険料+妻の保険料”を払ったペアは“夫の四十万円分の年金+妻年金”、“夫婦で計四十万円分の保険料”を払ったペアは“夫婦で四十万円分の年金”とすれば問題はない。繰り返すが、未だない制度なので、確かなことは言えないが、仮に堀氏のいう不公平があったとしても、金額的にみて、現行の不公平の比とは到底思われない。改革後にごく小さな不公平が生じる可能性があるから、現行の巨大な不公平は温存されるべきだとはお粗末な議論ではないか。 引用:朝日 くらしのあした(平成11年6月7日) 2002/2/10

    Reply
  2. shinichi Post author

    専業主婦、家事手伝い、ニート、無職 。。。

    _________________________

    働かないことにインセンティブを与える社会
    ―ニートはオトコのセンギョーか-

    by 瀬尾佳美

    http://okame21.web.fc2.com/topics/neet.htm

    大学のブログで「ニートは男のセンギョーか」という議論をしていて、このサイトへのお便りにあっ上記のタイトルを思い出した。詳くはリンクのブログを直接見てほしいのだが、要は専業主婦とニートと呼ばれる若者とどちらが社会的な負担が大きいか、という話である。通常、若者の失業問題やニートの問題が語られるとき、専業主婦の話が持ち出されることはない。この話はあるブログに「ニートは問題だというけれど、カジテツ(家事手伝:瀬尾注)とかセンギョー(専業主婦:瀬尾注)だって似た様なものではないか」という記述があり議論になったものだ。

    世間一般にはニートは問題であるが、専業主婦は同じような意味で問題であると考える人は少ないと思う。だがそれはなぜだろうか、というのが瀬尾の疑問である。一般的にいえば、ニートは税金も(たいして)納めないし、将来(生活保護など)社会福祉のお世話になる確率が高い、だから問題だ、と考えられている。だがそういった社会的コストがかかるのは、現状では専業主婦だって同じことだろう。いや、年金制度や夫の税金からの主婦控除の存在(これはつまり「所得税がマイナス」だということを意味する)、離婚などのさいの寡婦控除やなんたらかんたら考えると、他人の納めた税金を食っている、あるいはその可能性の度合いで比較すれば明らかに専業主婦のほうが重い。ではなぜ社会がニートをより問題視するかといえば - これは瀬尾のGUESSであるが、ニートのほうが期待の裏切り度が大きいからではないのかと思う。つまり「ニートは(本人がその気にさえなれば)優秀な労働になりうる人材であり、潜在的な高額納税者である。この力が引き出せないのは社会的な損失である。しかし、主婦の方はもともと労働者としては期待されておらず、それどころか下手に労働市場に出てこられてはかえって手間も金もかかるから、家でぶらぶらしていてもらうにこしたことはない」、くらいに思われているのではないかと感じるのだ。つまり非常に根の深い差別を感じるのである。

    ただし、ニートをやっている若者本人にはこうした差別意識は感じられない。だからこそ、主婦型ライフのまねをしてニートをしているのではないかと気がかりなのだ。対象が主婦であれなんであれ、働かないことにインセンティブを与えるようなバラマキ型福祉社会で育った子供がこれはオトクと思ってしまうことはけっして不思議ではない。イタリアでは将来なにになりたい?ときかれた子供の何人かは「失業者。だっていつも家にいられて楽だもの」と答えるそうだ。これに対して働く者(単身者や共稼ぎ世帯)には懲罰のように重い税負担や年金負担が課せられる。結果として特に働く女性が、必ずしも働く喜びを感じることも、若い世代にそれを伝えることもできなくなってきているのことはとても残念だ。シューマッハが述べているように、人というのは、本来は働くことを通じて鍛えられ、成長していくものだからだ。(家族でなく)他人様からお金を貰うということは厳しく大変なことだ。だが自分のなした仕事がどんなに小さくとも人に必要とされたり人のためになったりすること、そしてその結果としてお金を頂いてキチンと所得税も払い、自分の力で生活し、また納税を通じて社会を支えていると自覚できる喜びは大きい。これこそが大人としての喜びであり人としての誇りというものだろう。ヤマトの会長の小倉氏が「経営とはなんのためにするか。経営とは働く喜びをともに分かち合うためにするものだ」みたいなことをおっしゃっていたが、より多くの人々に働かないインセンティブを与え続けている役人につめの垢を煎じてやってほしいものだと思う。

    (余談だが政府の役人には、働く人から金を取ってきて、それを働かない人にばら撒くインセンティブがある。そうすることで、自分の腹が痛むわけでもないのに、温情的と感謝されたりするからだ)。増田悦左というやや過激なエコノミストは「今の日本経済にはこんなに巨額の保護を毎年ばら撒きつづける余力はない。それより何より、保護を受けている人たちは、保護によって自分の能力を最大限に発揮する可能性を奪われていることを自覚すべきだ」といっているが、(これは地方交付税や米農家のことを言っているのだと思われるのだが)内容はもっと一般的で、主婦を含めてあらゆるセーフティーネットの上にいる人に当てはまる真理だと思うのだ。ちなみに、小倉氏のお言葉は、知的障害者のためのパン屋さんの経営に私財を投じた理由を聞かれたときのものだったと記憶している。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *