2 thoughts on “みんなでつくる横濱写真アルバム

  1. shinichi Post author

    レンズから見えるハマの歴史と街の息遣い 第1章

    本牧編~芝生の向こうはアメリカ~

    http://www.yokohama-album.jp/special/post_80.php

    本牧の歴史は戦後からだ。進駐軍の住宅群が広がり、そこには青い芝生、おしゃれな広い家、大きな外車があり、当たり前だが英語が飛び交っていた。本牧の向こうにはアメリカが見えた。ハマを代表するGSバンドのザ・ゴールデン・カップスもここから羽ばたいていった。米軍からの返還後は、すっかり落ち着いた住宅街になったが、本牧はちょっと背伸びしたくなるようなディープな空気を感じさせる街だった。

    現在の小港、山手警察署の通りを隔てた向かい側にあったPXや映画館。写真のあたりから、本牧の先まで米軍関係者の住宅地が広がっていた。間門に向かって右側がエリア1、左側がエリア2と呼ばれていた。
    PXとは一般に酒保(しゅほ)と訳される。基地内売店である。軍人、軍属やその関係者向けに酒をはじめ日用品、食料品などを販売していた。当時の日本人には垂涎の的であった洋モクや、コンビーフ、チョコレートなど珍しい品も安く手に入ったので、横流し品を入手して巧みに商売する人もいたようだ。

    本牧といえば、当時は”アメリカさん”の町。その象徴ともいえる野球を楽しんでいる。現在の本牧小学校校庭。中央奥に見えるのは教会。教会のある丘をNASUGBU BEACH(ナスブ・ビーチ)と呼んだのは、太平洋戦争時のフィリピンの激戦地の名に因んだもの。 奥に見える高台は、和田山。1982(昭和57)年に米軍から返還された。

    バスもいかにもアメリカンな雰囲気がいっぱい。本牧から横須賀の米軍基地まで、軍関係者を運ぶなどに使用されていた。

    ワシン坂あたりから本牧方面を望んだ風景か。昔はちょっと高台に上れば、意外なほど眺望が開けこんな写真も簡単に撮れた。横浜はもともと坂の町だが、いまではこんな眺めはなかなか難しいのではないか。

    小港付近はチャブヤ街で、派手なネオンのホテル、バーなどが立ち並ぶ一角があった。 ところでチャブヤとは、横浜で生まれた言葉で、英語の「チョップ・ハウス」(簡単な手料理屋、簡易食堂)が語源。外人を運ぶ人力車夫(リキシャマン)が外人の発音する「チョップ、チョップ」を「チャブ、チャブ」と聞いたとする説が有力。
    時代が進み、食堂はホテル経営に変わり、1953(昭33)年に売春防止法が公布されるとともに消えていった。すると、写真にあるホテル・パナマというのは・・・?

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  2. shinichi Post author

    「みんなでつくる横濱写真アルバム-市民が記録した150年-」へようこそ!!

    http://www.yokohama-album.jp/

    「みんなでつくる横濱写真アルバム-市民が記録した150年」は、横浜開港150周年の関連事業として2009年3月に設置されました。横浜の歴史を記録した写真をデジタル化して、本WEBサイトに投稿、活用していただくものです。

    横浜市にお住まいの方はもちろんのこと、かつて横浜に住んでいた方、また観光などで横浜を訪れた方もご参加いただけます。皆さんがお持ちの横浜の暮らしや商いなど、開港から現在に至るまでの、「見せたい」「残したい」写真を投稿してください。

    「みんなでつくる横濱写真アルバム」は、歴史や文化、経済や産業振興、地域の発展、市民の生活文化など、横浜を語る「写真」を通して、魅力ある郷土の共有財産づくりに貢献することを目指しています。

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