佐伯啓思

戦後日本は、個人の「自由」と経済的な「豊かさ」を最大限に獲得すべく、ともかくも経済成長を達成しました。
富は蓄積したものの、あらゆることを金銭尺度に還元してしまう拝金主義や利己主義へ流され、しかもその肝心の経済成長もうまくいかなくなったのです。経済が成長できなくなると、ますます人は利害損失、つまりは損得勘定で動いてしまいます。この損得勘定は必ずしも金銭的利益だけではなく、あいつに恩をうっておけば将来いいことがあるだろう、といった具合で、人間関係全般に及んできます。
こうなると、戦後日本はいったい何をしてきたのか、あるいは、われわれの幸福とはいったい何なのか、という気がしてきても不思議ではありません。

「個人の自由」は拡大すれば拡大するほどよい、「経済的な富」も拡大すれば拡大するほどよい、という戦後日本の、もしくは近代主義の価値観に大きな錯誤があったのではなでしょうか。
考えてみれば、日本の伝統的な価値観は、決して個人の自由礼賛や富の称賛をしてきたわけではありません。それどころか、「個人の自由」や「経済的な富」に対しては随分と警戒的だったのです。その意味では、日本の価値観の根本には、近代主義とはどうしてもなじまないところがあります。戦後日本の価値とは対立しあう面があるのです。
それに代わってわれわれがもともともっていたものは、独特の人生観であり、死生観であり、自然観だったのです。国民の価値とは、本来、人生観、死生観、自然観、それに歴史観によって組み立てられます。ところが、この人生観や死生観、自然観が戦後日本ではすっかり忘れさられてしまいました。自由や富はいくら積み上げても人生観や死生観の代わりにはならないのです。もっといえば、人生観や死生観や自然観を見失ったために、どれだけ自由を求めても、経済を成長させても、幸せ感がなかなか得られないのではないでしょうか

この世で「生」をえて「縁」をもつことはあくまで一時的は現象、常ならざるもの、すなわち「無常」なのです。「死」が「無常」なのではない。「死」を常態と考えられるから「生」が「無常」になるのです。この世の他者との接触はすべて一時の「夢まぼろし」となるのです。諸行は無常で、生者は必滅となる。

3 thoughts on “佐伯啓思

  1. shinichi Post author

    神々の敗北とは、こうしたすべての崩壊でした。人は畏怖するものを失い、畏怖と貼り合わせになった安心できる場所を失い、「ふるさと」を失ったのです。その結果、人々は個人的な欲望を解放し、道徳心を利己心に譲り渡したのです。さすらいだしたのは神だけではなく、欲望や利己を求める心でした。そして「欲望」と「利益」の集積である (とみなされた)都会へと人々がさすらいでることが経済成長をもたらしたのです。

    とにかく「縁」や「しがらみ」という面倒なものを断ち切ろうとしたのが戦後日本だったのではないでしょうか。戦後の民主主義にせよ、個人主義にせよ、都市化にせよ、あるいは、近代主義者や進歩的知識人たちがしたり顔で唱えた「近代市民社会」なるもののしごく当然の結果が「無縁社会」なのではないでしょうか。

    われわれの生きている近代社会の原則は、みなが平等に幸福になる権利をもっている、というところにあります。この「みなが平等に幸福になる権利」という観念はたいへんにやっかいなものです。そのおかげで、誰もが「自分は人並みに幸福でなければならない」と思い込んでいる。だから幸福の基準がいつも他人になってしまう。

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  2. shinichi Post author

    日本の伝統的精神のなかには、人の幸福などはかないものだ、という考えがありました。むしろ幸福であることを否定するようなところがありました。少なくとも、現世的で世俗的で利己的な幸福を捨てるところに真の幸せがある、というような思考がありました。

    今日の日本は「個人主義の国」でもなければ「集団主義の国」でもなくなってしまったように見えます。あえていえば今日の日本は「個人主義の国」でも「集団主義の国」でもなく、ただ「虚無主義の国」であるかのように思われるのです。
    アメリカでは、まだしもかろうじて「コミュニティ」が存在し、その上に個人主義が乗っかっているのに対して、現代の日本では、家族にせよ地域にせよ、その「コミュニティ」らしきものが崩壊してしまったために、まともな意味での集団主義にもならず個人主義にもならず、その両者の間を揺れ動きつつも身動きが取れない。これも煎じつめれば、「個人」であれ「集団」であれ、何らかの価値というものに信を置くことができなくなってしまったという「虚無」に浸されていることのあらわれと解するほかありません。

    折口は、「すさのを」や「おほくにぬし」といった「古事記」に登場する名のある神々を引いていますが、もともと日本人の自然観には、自然の中に神々が宿るというアニミズム的な信仰がありました。ことに山には独特の霊性があり、山岳信仰のように山そのものが神性をもった場所として信仰の対象にもなったのです。吉野や熊野のような山岳信仰ではなくとも、田畑に囲まれた片田舎の小さな山々もそれなりに畏怖され、どこか霊性を帯びたものだとみなされてきた。柳田國男が「山の人生」で描き出したように、山に住む鬼によって人さらいにあったり、神隠しにあったり、山にはどうやら不思議な霊力が働いていると思われていたようです。

    「神が敗れた」ということは、山里から神々もいなくなった、ということです。それは、必ずしも折口が述べたような、伊勢神宮や出雲大社に祭られた「古事記」の神々だけではなく、村々にいた土着の名もない神々の敗北でもあるのです。端的にいえば、「ふるさと」の敗北であり「都会」の勝利なのです。自然のうちに宿る神々によって守られてきた村々の敗北であり、都会の合理主義、近代主義の勝利なのです。

    都市化という形で近代化を目指したとき、われわれはこぞって「故郷喪失者」になろうとしたのです。いつまでも「故郷」などに縛られたくはない。都会ではばたかなければ幸福になどなれないと考えたのです。積極的に「故郷喪失者」であろうとしたのでした。それはまた「縁」を断ち切ることでした。われわれは「無法者」ではないにしても「無縁者」になろうとしたのでした。今頃になってまた「コミュニティ」が見直されたり、時には「絆」などといわれたりします。両方とも、「共同体」や「縁」とはあえて言わないのです。「共同体」や「縁」は「ムラ」や「イエ」を連想させてしまうからです。「絆」というのは、個人がある意味で自由に選びとり作り出すものです。それは偶然を引き受けようという「縁」とは似てはいるがまったく違った言葉です。

    じっさい、故郷喪失者とは「ホーム・レス」なのです。
    「家庭」という「縁」を失って、帰るべき「イエ」がない。
    「無縁者」といってもいいけれど「失縁者」といってもよいかもしれません。
    そして「ホーム・レス」を待っているのは「行旅死亡人」であるほかない。
    孤独死はなにも特異なことではありません。現代社会のひずみというようなものでもありません。それは近代化の帰結なのです。いささか極端にいえば「われわれは皆孤独死をすべき」なのです。「どうして無縁死が悪いのだ」というほかないのです。

    医者が「死」についてあまり関心をもたないのは、ひとつは、医者は死者を相手にするのではなく、あくまで「生」の側にいるからでしょう。職業柄「生かす」ことを考えるのでしょう。それともうひとつは、どうやら「生」も「死」もたかが生物体の個体が消滅するかどうかだけのことで、それも生物的現象だと思っているふしがあります。
    強いていえば現代の死生観なるものはそういうものなのです。いわば「死生観なき時代の死生観」といってもよいでしょう。

    この文明の最高度な段階で、われわれは「死とは、ただ個体としての生物体の消滅である」というあまりにあけすけで単純でむき出しの「死」という原点に復帰したというわけです。とすれば、ベッドにくくりつけられて死ぬのも、誰に知られることもなくひっそりと孤独死をするのも実は同じことなのではないでしょうか。どちらも、「死とは、ただ個体としての生物体の消滅である」という現代の原理からすれば、同じ考え方に基づいているのではないでしょうか。

    無縁死とは、もっとわかりやすい現代の姥捨てということになるでしょう。いわば自己責任原則による姥捨てのセルフサーヴィスのようなものなのです。そして結局、姥捨てにかわる別のやり方を現代の文明が発見したわけでもないのです。
    私は、何も無縁死を礼讃しようとしているわけではありません。
    ただ、姥捨てを悲惨だ、凄惨だ、人権無視だといって非難するほど、われわれが進歩したわけでもなんでもない、ということなのです。

    「死」とは、どうしても生物体としての個体の消滅です。「人間」が否応なく動物に戻る瞬間なのです。そこにどんな死に方がいいも悪いもありません。自然死としては、できるだけ荷物を軽くし、現世の縁をたち、誰にもさして迷惑をかけず(確かに死体処理者や遺品処理者にはかなり迷惑がかかりますが)、猫が自らの死期を悟ったとき姿を消すように、いつのまにかこっそりと孤独死するのが本当の姿なのです。

    実は家族こそが最大の「縁」です。だから「家族」が解体してゆくと、本当に「無縁社会」がでてきます。私は、本当に「家族」が解体するとは思いませんが、「家族の意味」が見えにくく、著しく希薄になっていることは間違いない。
    その先に待っているのは、「無縁社会」ということになる。家族から逃れて広い社会でもっとよい「縁」が作り出されるとも思えないからです。しかしそもそも本当に家族から逃れることはできるのでしょうか。夫婦は離婚することができます。しかし、子供とは簡単に縁を切ることはできません。それに、それよりも以前に、誰にも必ず親がいます。たとえ死んでいても親の記憶はあるし、場合によっては遺産も借金もある。「横軸」は破棄することができても、「縦軸」は破棄できないのです。

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