松原哲明

生まれない。生じない。心の中に一点の思いも、一筋の毛のような思いも生じない。それを「無心」というんですね。だから、「不毛の仏心」一筋の毛筋も生じない心を「無心」と言っているんですね。「無心」というと、何もしないでボッとしているようですけど、それじゃないんですね。
「無心」と「心を浄める」ということは、結論的には同じことを言っているわけですね。例えば心というのは姿がないし捉えようがないから、言葉では表せないんだけれども、敢えていうならば澄み切った鏡のような心をいうんだと。そういう綺麗なものにしていく。
心を綺麗にしてみると、花は花のありのままの美しさ、鳥は鳥のありのままの可愛らしさ、そういうのがありのままに見えてくる。それで十分だと思うんですけどね。真実を真実として見抜いていく。そういう力が禅にはあるんじゃないのかなと思うんですね。
清らかになってきて、不生の仏心ができてくると、イチョウの真っ黄色になって綺麗になってくると、花がもの凄く綺麗に見えてくる。それから自分では親切にものをいったり、言葉をかけてくると、口のところが綺麗になってくるわけでしょう。汚かったら怒鳴ったり、口汚くなるんですから、そうやってすべてを本来清浄にもっていける。本来清浄だから、いつもの通り平常なありのままで綺麗になるというんですね、ちょっと難しいけれども。花はありのままで綺麗ですよね。そういうふうに人間もありのままで垢がついていないようにしろと。それが禅のポイントだと思うんですよ。

2 thoughts on “松原哲明

  1. shinichi Post author

    「信心」とは、自分の内側にある、何も生じていない心を信じることであり、
    「信仰」とは、自分の外側に仏像をおいて祈り、拝み、願いを託すことである。
     ~松原哲明

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