笠井潔

戦後日本の右翼や保守派や改憲再軍備派もまた、世界戦争の時代としての二十世紀という歴史意識を欠いていた。冷戦期であろうと、ポスト冷戦の時代であろうと、改憲も再軍備も日本帝国の復活になど通じない。アメリカの便利な駒として、日本が使い捨てられる結果にしかならないという認識もない。徹底した敗戦さえできないまま、曖昧な「終戦」に流れこんだ日本の支配層には、根本的な無知と無自覚があった。つまりこういう立場だ。
「外見はともあれ日本は真の意味で敗北していない。日中戦争も日米戦争も自衛戦争だったし、第二次大戦は東亜解放の「聖戦」だった。やむなくポツダム宣言は受諾したが、じきに日本芸国は復活しうるだろう」
政治的には自民党右派に体現されてきた、改憲再軍備派の本音がここにある。二十世紀の世界構造を理解しえない、無知と無自覚の産物としかいえない。

戦争を深く反省したと称する護憲非武装派のほうはどうか。護憲派が死守しようとする憲法第九条だが、第二項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」は、パリ不戦条約の引き写しで理念的な画期性は見あたらない。
不戦条約による交戦権の非合法化が、犯罪者としての敵国にたいする「自衛戦争」という異様な観念をもたらし、それが原爆投下で極限化する戦争の残忍さを正当化したという認識が、護憲派にはまったくない。

7 thoughts on “笠井潔

  1. shinichi Post author

    8・15と3・11 戦後史の死角
    破局はなぜ繰り返されるのか?
    この国の宿命的病理を暴く笠井史観の集大成!
    by 笠井潔

    左右ともに無知だった

    Reply
  2. shinichi Post author

    NHK出版

    3・11は戦後史の必然的な帰結である! 丸山真男から三島由紀夫までの戦後思想を再検討し、60年代安保から高度成長、バブル崩壊までの戦後史を捉えなおす。8・15を真に反省できなかった日本人が、「安定と繁栄」の戦後社会に災厄の種をまいたことを明らかにする。この国の宿命的な病理を暴き、克服すべき真の課題を考察するスリリングな論考。

    Reply
  3. shinichi Post author

    戦争犠牲者の怨霊・御霊であるゴジラは、8・15という破局を象徴する。同時に、8・15以降も無反省に生き伸びたニッポンイデロギーの破壊者として、一九五四年の東京を蹂躙した。

    たとえば東京湾に上陸したゴジラは、銀座方面から都心に向かい国会議事堂を踏み潰したあと、隅田川方向に進路を変える。戦死者の怨霊といえども皇居を破壊することは躊躇した、戦後になっても日本人は天皇制に呪縛されていた。これがゴジラの方向転換の意味だという川本解釈にたいし、赤坂憲雄は「『ゴジラ』はなぜ皇居を踏めないか?」で異説を唱えている。

    天皇に会おうとして、戦死者の亡霊であるゴジラは祖国に帰還した。しかし自分たちを戦地に赴かせた大元帥としての天皇はもう存在しない。皇居に住んでいるのは現人神ならぬ人間天皇にすぎない。こうして、失望したゴジラは踵を返したのだろうと赤坂は解釈する。

    Reply
  4. shinichi Post author

    空気」に支配された日本人の共同性は、原理的に歴史意識をもちえない。長期的視野を欠いた当面の利益への固執、不決断と問題の先送り、相互もたれあいの人間関係、あとは野となれ式の無責任などなど、8・15と3・11に共通する思考と行動の特異な様式は、ニッポン・イデオロギーの産物にほかならない。

    ___

    日本のNPT(核拡散防止条約)加盟には、近年まで政府が隠蔽してきた「極秘」の事情がある。原子力の平和利用を名分として原子力発電の導入を推進したのは、中曽根康弘や小山倉之助など改進党再軍備派、のちの自民党右派である。日本の原子力平和利用は、軍事利用の可能性を担保するものとして出発している。

    中曽根や正力のバックにいたのが自民党右派総帥の岸信介だが、首相時代の岸は国会答弁で、当面のところ核武装の意思はないと繰り返した。しかし、これは建前にすぎない。自民党の改憲再軍備派は最高権力の座に着くと、対米従属の必然性に足をさらわれ、建前と本音を引き裂かれることになる。こうした自己分裂は岸から中曽根、さらに安倍晋三で続いた自民党右派勢力の宿命だった。

    岸時代の秘められた野心を実効化したのは、実弟の佐藤栄作だった。沖縄返還交渉の過程で佐藤首相は、極秘のうちに日本の核兵器製造と核武装化の検討を命じる。日本が核武装する可能性を取引材料として、佐藤はアメリカに沖縄返還を求めた。非核三原則を国会で決議し、NPTに加盟することで当面の核武装はないと安心させ、その代わりに核抜き沖縄返還をアメリカに迫る。

    核武装カードを使った佐藤外交によって沖縄返還は実現されるが、有事の核持ち込みを容認するとの密約で、非核三原則は最初から空文化していた。また米軍基地撤去という沖縄民衆の切実な要求も、返還の時点から裏切られる運命にあった。

    ___

    佐藤内閣による核武装の検討は長く秘匿されていたが、冷戦の終結以降しだいに表に出はじめる。今日では、たとえば佐藤首相が任命した外交政策企画委員会による極秘文書「わが国の外交政策大綱」(1969年)の公開などによって、その概要を知ることができる。

    マスコミによるスクープや政府文書の公開から明らかにされてきたのは、日本を「潜在的核保有」国家とすることが政府中枢の意思決定による“国策”だった事実だ。1950年代、60年代には憲法解釈などの抽象論として論じられてきた日本の核武装だが、非核三原則の国会決議以降、あるいはNPT加盟以降の1970年代には、すでに現実の問題となっていた。

    ただし、即座に核兵器を開発し保有しようというわけではない。「わが国の外交政策大綱」では、次のように述べられている。

    核兵器については、NPTに参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともに、これに対する掣肘をうけないよう配慮する。又核兵器一般についての政策は国際政治・経済的な利害損失の計算に基づくものであるとの趣旨を国民に啓発する・・・・・・。

    アイゼンハワー大統領の国連演説からも明らかであるように、もともと軍事利用のために開発された原子炉の機能を逆転し平和利用するものとして、原子力発電は出発している。

    この論理をさらに再逆転し、平和利用の名目で建設される原発を、潜在的に軍事利用すること。発電用原子炉の核廃棄物を再処理してプルトニウムを抽出し、高速増殖炉の燃料にするという核燃料サイクルは、核の軍事利用に平和利用という糖衣を着せたものにすぎない。

    Reply
  5. shinichi Post author

    国会事故調が福島原発事故の「人災」性として列挙した、権威を疑問視しない反射的な従順性、集団主義、島国的閉鎖性など。あるいは目先の必要に目を奪われた泥縄式の発想、あとは野となれ式の無責任などを、本書ではニッポン・イデオロギーとして批判していくだろう。

    ___

    もしも8・15と3・11を超える契機として、日本人の宗教意識を再評価するのであれば、頽落したアニマとしての「神道の神々」ではなく、親鸞の絶対他力思想にこそ注目しなければならない。

    Reply
  6. shinichi Post author

    8・15」と「3・11」の共通点  笠井潔さん新刊

    by 樋口大二

     作家で文芸評論家の笠井潔さんが新著「8・15と3・11 戦後史の死角」(NHK出版新書、816円)を出した。原発事故が象徴する日本の危機を乗り越える手がかりとして、親鸞と金沢出身の禅思想家鈴木大拙に注目している。

     笠井さんは、勝算のないまま無謀な戦争に突入し、破局を迎えた「8・15」と原発事故の「3・11」に、共通点を見る。

     ともに「最悪の事態を想定しての必要な準備ができず、危機管理能力を致命的に欠いて」、頑張ればきっとなんとかなると信じ、結果どうにもならなければヤケを起こして暴発、という「日本的心性」が破滅を必然的に招いたという。

     しかし、日本の思想伝統の中には、そんな心性を根源的に否定したものもあった。大拙は神道を「日本民族の原始的習俗の固定化したもの」として退け、浄土真宗を、禅と並んで「日本人の心に食い入る力を持っている」「霊性の扉はここで開ける」と評価した。

     笠井さんは、「他力救済」という親鸞の思想が、宗教改革をもたらしたジャン・カルバンのプロテスタンティズムとも共通する強力な変革の原動力となりえた、と指摘する。

     大拙は神秘思想にも接近し、神智学教会の日本支部長も務めた。笠井さんは「大逆事件で処刑された幸徳秋水も在米中に神智学教会に出入りしていた。大拙との接点もあったのでは」と話す。

     大逆事件後、日本の社会主義は宗教とのつながりを失う。笠井さんは「その後の大量転向は、天皇という宗教的権威への抵抗力を失ったことが起源」として、社会運動と宗教的な霊性の関係を重視すべきではないか、としている。

    Reply
  7. shinichi Post author

    (sk)

    19世紀的な、国家と国家の、ユニフォームを身に纏った正規軍同士の国民戦争。
    これはまるでサッカーの国際試合のような戦争で、兵士は国のために戦う。
    日本は日清戦争・日露戦争とこの19世紀的な戦争をなんとか戦い、それに関して不思議な自信を持ち続けてきた。

    20世紀的な、平和主義者と非平和主義者の、民間人を巻き込んだ、覇権獲得戦争。
    サッカーのワールドカップのように、覇権を握ることができるのは一か国だけだ。
    日本は世界大戦という20世紀的な戦争の中でも19世紀的な戦争を戦い、アメリカの覇権獲得を助け続けてきた。

    21世紀的な、戦争請負会社・テロリスト・無人兵器等による、バーチャルな世界内戦。
    これはサッカーのクラブ選手権のような戦争で、所属や帰属は曖昧で、流動的だ。
    世界中がこの21世紀的な情報戦争を戦っている中、日本だけが19世紀的な戦争を想定し、議論したり準備したりしている。

    シリアの戦争ひとつとっても、サウジアラビア政府が契約した戦争請負業者にカネで雇われた反政府軍の兵士たちと、リビアで反カダフィの戦争を勝ち抜いたアルカイダの戦士たち、それに亡命シリア人のなかの金持ちたちから支援を受けた傭兵たちが、シリア国内で反政府を掲げるいくつものグループと複雑に絡み合い、空にも陸にも無人兵器が飛び交っている。なにもかもが曖昧で、しかもバーチャルな、なにがなんだかわからない戦争をしている。この戦争に巻き込まれたシリアの国民こそいい迷惑だが、そんな状態を招いたのはシリア人たちなのだから、仕方がないといえば仕方がない。唯一かわいそうだと思うのは、シリア人のなかに、「21世紀的な世界内戦という側面を持った情報戦争」を理解している人が少なかったことだ。

    日本の状況は、シリアよりも厳しい。21世紀的な戦争を理解している人はもちろん、20世紀的な戦争を理解している人すらいないのだ。憲法を死守しようと、憲法を改正しようと、みんなが19世紀的な国家観しか持ちえない国に、21世紀的な戦争を戦う術はない。せめてというかなんというか、21世紀的な戦争の被害者にならないことを祈るばかりだ。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *