その昔、中国は廬山というところに董奉という医師がいました。彼は人に尽くすために治療を行ってあえて治療代を受け取らず、その代わりに病気が治った人には、記念として杏の苗を植えてもらいました。
そうして、いつしか10万余株の杏の木がうっそうと茂る大きな林ができあがったといわれています。
この故事から後世良医のことを杏林と呼ぶようになりました。
この故事に因んで名付けた杏林大学は、専門的知識や技術にすぐれているだけでなく、立派な人格を持った良き医師など社会に貢献することのできる良き職業人を育成することを目指しています。
真 – 真実・真理に対して謙虚であるとともに、自ら進んで学ぶ。
善 – 思いやる心を持った人格を自ら築き上げ、人のために尽くす。
美 – 美しいものを美しいと感じる感性を磨き、美しい人間になる。
善 – 思いやる心を持った人格を自ら築き上げ、人のために尽くす。
美 – 美しいものを美しいと感じる感性を磨き、美しい人間になる。
杏林の由来
杏林大学
http://www.kyorin-u.ac.jp/univ/outline/history/
董奉(とうほう)
[三国]董奉2
http://d.hatena.ne.jp/mujin/20050829/p1
『太平広記』所収の『神仙伝』。この董奉の故事から、「杏林」といえば医学界を指す言葉になった。董奉は、華佗、張仲景と合わせて「建安の三神医」とも呼ばれている。
董奉は山で暮らしていたが畑仕事はせず、毎日、人々の病気治療にあたり、そこでも金銭を受け取らなかった。重病の患者が快癒したときは五株の杏の木を植えさせ、軽い病気なら一株を植えさせた。このようにして数年が経つと、およそ十万株あまりになり、鬱蒼たる杏の林ができあがった。山にすむ数多くの鳥や獣を杏林のなかで遊ばせたので、草は生えず、いつも草むしりをしたような状態になっていた。杏の実がたくさんなったとき、林のなかに藁で倉庫を作り、人々にそれを見せて「杏の実が欲しければ、わざわざ私に報告する必要はない。ただ食べ物を一皿、倉の中に置き、それから自分で一皿分の杏を取ってゆけばいい」と言った。あるとき、食べ物は少ししか持ってこないのに、杏の実をたくさん取ってゆく者があった。林のなかの虎たちが飛び出して、咆吼しながら追いかけてきた。その者はたいそう恐怖して、あわてて杏の器を拾い上げて逃げだした。道ばたに杏の実をこぼしていったので、家について杏の実を数えてみると、置いてきた食べ物とちょうど同じくらいになっていた。またあるとき、杏の実を盗んだ者があったが、虎がその者を家まで追いかけ、噛み付いて殺してしまった。家族の者は彼が盗みを働いたことを知り、杏の実を董奉に送り返し、土下座して謝罪した。董奉は彼らを家に帰し、かの者を生き返らせてやった。董奉は毎年、杏の実を売って食べ物に換えていたが、今度は施しをして貧困を救い、行き倒れの旅人を支援したりして、一年間に二万斛以上を使いはたした。
県令には娘がいて、魑魅魍魎に取り付かれて精神がおかしくなっていた。医療を施しても効果がなく、そこで董奉のもとへ行って治療を願い、「もし娘が快癒したら、嫁入り道具を持たせて娘を差し上げましょう」と持ちかけた。董奉は承知して、すぐさま体長が数丈もある一匹の白いワニを取り寄せ、陸路、病人の家へ行き、従者に命じてワニを斬らせると、娘の病気はその途端に快癒した。董奉はこうしてその娘を妻に迎えたのだが、ずっと子供に恵まれなかった。董奉が出かけるたび、妻は一人で残っているのが辛く、人にお願いして養女をもらった。その娘が十歳あまりになった、ある日、董奉はつま先立ちになると、雲の中へと潜って消えた。妻と娘はそれからも家に残っていて、杏の実を売って食べ物を得ていた。彼らをだまそうとする者があると、虎が出てきて追い払った。董奉は人間界にあること三百年あまり、去るときも顔形は三十歳くらいの人に見えた。
杏林伝説
キョーリン製薬
http://www.kyorin-pharm.co.jp/
古代中国―――。
貧しい患者からは治療費の代わりに杏の苗を受け取ったという伝説の名医・董奉。
日ごとに増える杏の木は、やがて大きな林となり、生命を慈しむ董奉の心も人々の間に広がっていきました。
「杏林」の名は、まさにこの心から生まれたものです。
人を救うのは人の力、人の心。
科学がどんなに進歩しても健康への願いが変わることはありません。
〈健康はキョーリンの願いです〉
(sk)
真善美というような絶対的な価値を掲げることは、相対的な価値を認められなくなる危険性を持つことになる。
相対的な価値を持たないということは、グローバルな世界ではハンディキャップでしかない。