ネトウヨなどに代表される、最近先鋭化している保守勢力というのは、完全にグローバル化への抵抗の発露であると思われる。つまり、日本におけるこうした新保守主義と言うのは、日本という先進国に生まれたという優位性のみに依拠している人々が、最近の新興国の経済成長に伴った収入増などで、それまで見下してきた人々のほうが生活水準が上がり、むしろ自分たちよりも良く見えるような状態になってプライドがズタズタになってしまっているという状況をなんとか打破したいという動きなのだと思う。
。。。 つまり、自分たちの優位性を維持するためには戦争や鎖国的な動きも辞さないというくらいの自爆テロ的な行動なのである。
言うまでもないことだが、グローバル化の流れは止められない。 。。。 本来はグローバル化に対応して努力していくしかないのだが、その努力に背を向けている単なる後ろ向きの行動なのである。 。。。 そもそもグローバル化で国民国家という概念すら、希薄化しようとしている。その国家というものにしがみつくというのは間違いとしか言いようがない。しかし、マスメディアもその国家から免許を受けて特権的立場を維持しようとしているので、政権の監視という本来の存在意義すら果たさず、彼らの間違った行動を促進する方向性なのは困ったものである。また、近視眼的な視聴率を追い求めて、安易な番組に時間を割き、本来多くの人が進むべき方向を見誤らせているのはおかしいとしか言いようがない。
新保守層の自爆テロが問題だ
by 堀江貴文
文藝春秋 2014 年 6 月号
(sk)
堀江貴文の批判は当たっているが、批判してもなんにもならない。「問題だ」と言いつのってもなにも変わらないのだ。
多くの国が情報戦争を戦っているなか、日本人のあいだには情報戦争の認識すらない。個人個人の情報リテラシー、民度、そして知性を高めていくしか方法はないのだが、それは難しい。
マスメディアに過大の期待をしたり、マスメディアのせいにしたりするのは、間違っている。マスメディアは社会の鏡でしかない。
堀江貴文の言う通り、国民国家という概念はもう古い。「日本が」とか「日本人が」とか言ってみても、せんないだけだということを、思い知るべきだと思う。
それぞれの人間の「自分」への興味が膨張しすぎた今、みんなの興味は「自分の健康」、「自分の幸福」、「自分の成功」、「自分の収入」、「自分の容姿」、「自分の家族」、「自分の愛情」、「自分の満足」なのであって、国家や社会ではもう興味の内にない。
自分さえ良ければいいのだという人たちが集まって、弱者への分配すら拒むようになれば、そんな集団はそう遠くないうちに、潰える。