(徒然草 序段)
つれづれなるまゝに、日暮らし、硯に向ひて、心に移り行くよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂ほしけれ。
(徒然草 第四十段)
因幡の國に、何の入道とかやいふものの女、かたちよしと聞きて、人あまたいひわたりけれども、この娘、ただ栗をのみ食ひて、更に米のたぐひを食はざりければ、「かゝる異樣のもの、人に見ゆべきにあらず」とて、親ゆるさざりけり。
(徒然草 第二百三十五段)
主ある家には、すゞろなる人、心の儘に入り來る事なし。主なき所には、道行人みだりに立ち入り、狐・梟やうの者も、人氣にせかれねば、所得顔に入り住み、木精など云ふ、けしからぬ形もあらはるゝものなり。
また、鏡には色・形なき故に、よろづの影きたりてうつる。鏡に色・形あらましかば、うつらざらまし。
虚空よくものを容る。われらが心に、念々のほしきまゝに来たり浮ぶも、心といふものの無きにやあらん。心にぬしあらましかば、胸のうちに若干のことは入りきたらざらまし。
原文『徒然草』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/turezure_zen.html
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原文『徒然草』訳注
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/turezure_chu.html
序段
日暮らし 朝から晩まで、一日中。
心に移り行くよしなしごと 次々と思いついたどうでもよいつまらないこと。
そこはかとなく どうということもない。「そこはか」は「はっきり」という意味。
第二百三十五段
すゞろなる人 用のない人。
【号外】やまねこ新聞社:
【228】「徒然草」吉田兼好/「無常という事」「徒然草」小林秀雄さん
by やまねこ編集長
http://blog.livedoor.jp/yamaneko0516/archives/52396501.html
『徒然なる心がどんなにたくさんのことを感じ、どんなにたくさんなことを我慢したか。』
(小林秀雄「徒然草」最終行)
(sk)
徒然草の第二百三十五段が、今から800年近く前、鎌倉時代に書かれたというのは驚きだ。
バーチャルとはなにか? 心とはなにか? Jean Baudrillard が考えたようなことが、簡潔に書かれている。
住む人のいない家には、怪しいものが入り込む。空っぽのところには、いろいろなものが入り込む。
心も同じ。心がからっぽなために、というよりはむしろ心というものがないために、様々な考えや想いが入り込んでしまう。
鏡には、心の中のことも、頭の中のことも、起こったことも、なにも映らない。心が虚であれば、そこにはなにも映らない。それでも、いろいろなことが入り込み、心は千々に乱れる。