黒川伊保子

kurokawa早期英語教育は危険!!
      
脳とことばの関係から考える全くユニークな日本語論。
      
日本人がヨーロッパ由来のピやヴィなどの音を使い始めて 400 年余になるが、いまだにヨーロッパ由来音の P音や F音、V音が、日本人の本名に使われることはほとんどない。
      
(日本は)同じ土地で、似たような骨格の人々が、一つの系統の言語を何千年も培ってきたことになる。
      
日本語は希有な言語なのである。

4 thoughts on “黒川伊保子

  1. shinichi Post author

    日本語はなぜ美しいのか

    by 黒川伊保子

    「発音体感」つまり言葉の語感の大切さに着目した画期的な日本語論である。日本語はなぜ美しいのか。実は、母音を主体に音声認識する言語は、世界的にみても日本語とポリネシア語のみであり、その他の欧米及びアジア諸語は、すべて子音主体で音声を認識している。日本語は希有な言語なのである。本書は、この日本語の特殊性をふまえて、情緒の形成という観点から、ある個体の脳が最初に獲得する言語である母語の重要性と早期英語教育の危険性を説き、風土と言語の関わりから言葉の本質に迫っていく。

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  2. shinichi Post author

    母語獲得の最終工程

    さらに、言語脳が完成する八歳までは、パブリック(公共、社会)で使うことばと、ドメスティック(内的世界、家庭)で使うことばは、同じ言語であることが強く望ましい。理由は二つある。

    一つは、母語獲得の最終段階ば、言語の社会性を身につけることだからだ。母語を、公共の場で仕上げる必要があるのだ。そして、その母語の仕上げには、臨界期という問題がある。

    脳には、ある能力を身につけるにあたり、一定の年齢を超えると、その後その能力を獲得しようとしてどんなに努力しても、けっして同じ質では獲得できないという特徴がある。その年齢を臨界期という。言語脳は八歳の誕生日までにほぽ確立してしまうので、母語獲得の臨界期は八歳である。七歳までのうちに、さっさと仕上げておかないと、未完成な母語で生きていくことになる。

    母語獲得の最終工程に必要なのは、文字や書きことばの習得、音読、読書、作文や口頭で感じたことを人に伝える体験である。小学校低学年で、音読と作文を繰り返すわが国の国語教育は、脳科学的に、非常によくできていると思う。加えて、先生との会話、友達同士の会話、学級での発表など、さまざまなスタイルの会話体験を増やさなくてはならない。

    母語以外のことばを使う小学校に子どもを預ける場合、この母語獲得の最終工程がないがしろになってしまうことが多いのである。海外生活のためにやむなくそうなる場合は、もっと早い段階から、現地語の人たちと触れ合って混合母語というかたちで育てるか、家庭での日本語のフォローが不可欠である。

    母語喪失

    そして、最近、教育の現場で指摘されだした、もう一つの理由が、「母語喪失」である。それは、学校で使われることばが、両親ともに堪能でなかった場合に起こる、深刻な問題である。実は、パブリックという意識の場を確立する学童期に、外で使う言語が両親とも堪能でない場合、母語喪失という恐ろしい事態が起こりうるのだ。

    学童期、パブリックで起こることのさまざまな喜怒哀楽や情感を、心の中で反芻したり・親に話して解説してもらったりすることで、子どもは自我を確立し、社会性を身につけ、コミュニケーション能力を上げていく。この時期、子どもにとって親とは、内的世界(心の世界)の一部でもあり、心と外界をつなぐ、重要な案内人となる。

    それなのに、パブリックで使うことばを親がわからないとなると、パブリックでの出来事の微妙なニュァンスを、子どもは親に伝えられない。

    これは、単に、親との没交渉などという簡単な事件ではないのである。心の世界ができ上がらないので、子どもは自問自答しながら、目の前の事象に対処することができないままになるのだ。すなわち、「○○したい!とはいっても、いきなり、それは問題だろう。その前に、こっちを片づけなきゃなあ」のような心の中のひとり言が言えない、”気持ちの逡巡”という感情コントロール機能を獲得しないまま、次の発達段階に向かうことになる。極端な場合、コミュニケーション障害をきたし、一人前の社会人として機能することが難しくなることもある。

    発達途上の子どもの脳にとって、ことばは、意味上の語彙を増やしてやればいいというものではないのである。ことばの情感と社会性を、親(近しいおとな)という「案内人」を介して、複合的に獲得していかなければならない。ここにおいて、ことばの表層の意味なんて、たいして意味がないのである。

    このように、いったんドメスティックな環境で母語を確立したのに、社会性獲得の段階(学童期)で、心を表現する言語である母語を失うことを母語喪失と呼ぶ。

    この母語喪失は、元は、外国からの出稼ぎ家族たちに起こった間題である。親は日本語の能力が低いまま、朝早くから夜遅くまで働いている。学童期の子供は、親とほとんど触れ合えない環境で、学校で使う日本語に馴染んでいくうちに、ほんとうにふるさとのことばを忘れてしまうのである。

    気づいたときには、親と子の会話が通じない。子ども自身もさることながら、こういう子どもを抱えた、現場の教師たちのストレスは計り知れない。このため、外国人労働者が増えたパブル期以降の教育現場の問題提起として、母語喪失ということばがあった。

    しかし、母語喪失は対岸の火事ではない。親と子のことばが通じないという極端なケースでなくても、心を表現することばを失い、後にコミュニケーション障害を抱えてしまうケースは、帰国子女の中にも見られるのである。そして、今後は、日本に生まれ育ち、日本人の親に育てられているにもかかわらず、早期の外国語教育によって母語喪失を引き起こすケースが増えることも予測されている。

    統計的には、この母語喪失の増加が顕著であるかどうかはわからないが、「子どもを国際人にしたい」がために、外国語の小学校に通わせる親たちが増えているどいうニュースは、最近よく目にする。両親のどちらかがその言語を母語としているか、両親のどちらかあるいは本人が七歳以下で三年以上の現地体験があるか、今現在、家族で現地に住んでいて、両親のどちらかが高い言語能力で現地の仕事をこなしているか。そのいずれでもない場合で、やむなく外国語学校に通わせるときは、学校以外の場所でのいっそうの日本語教育をお勧めしたい。

    心を表現することばを失った子どもたちが、おとなになる社会を考えると、現在の二ート現象どころの騒ぎではないような気がする。脳は、ひとりでおとなになることはできない。母語は、脳の基本機能に深く関与している。親と子どもの母語関係をしっかりと築くことが、人間形成の基礎なのではないだろうか。(P55~P60)

    日本人の識字率はなぜ高いのか

    音韻と文字との関係も、各国でさまざまだ。日本語は、音声認識の一単位にカナ一文字を与えている。したがって、意味がわからなくても、聴き取れれば、書き取れる。

    中国語は、音声認識の一単位であるピンインに、複数の漢字がリンクしている。したがって、聴き取れても、意味を理解した上で漢字を駆使しないと書き取れない。つまり、日本人は数十のカナを覚えればなんとかなるが、中国人は、四〇〇を超えるピンインに何千という漢字がぶら下がっていて、その体系を知らなければ、識字できないのである。

    アルファペット文化の人たちは、音韻単位と表記単位が一致していないので、聴いたように記載しても文字記号にならない。また、文字を見たように発音しても、それが正しい発音だとは限らない。中国語と同じく、ある一定数の単語(文字列)を知らなければ、識字できないのである。

    日本人の識字率が高いのは、幼い頃に、まず音韻と一致したカナ文字によって、気軽に文字に親しめるからだといわれている。やがて、発達段階に合わせてゆっくりと漢字を増やしていく。この方式だと、ほとんど落ちこぼれを作らない。

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    他のことはなにも知らず、日本のことだけを知っている人に、「日本は素晴らしい」とか「日本語は希有な言語」とか言われても、「なんだかなあ」以上の感想は出てこない。

    どこも違う。どの言葉も違う。ただそれだけのこと。日本だけが、そして日本語だけが素晴らしいなどということは、決してないのだ。

    3つ以上の言語を話すことは素晴らしいことで、日本語だけしか話すことのできない人間になることの悲惨さを考えれば、母語喪失とかコミュニケーション障害のリスクを冒してでも、早いうちから語学を習得するのがいいに決まっている。

    黒川伊保子の言うことを真に受けて、大人になってからの語学習得というばかばかしいことをする人が出ないよう願いたい。

    この本の題名を見ただけで、東郷克美の「きれいな日本語が聞きたい」に似たようなものだと思って、思わず買ってしまった自分自身を、心から呪う。

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