仲野徹

試験のために学ぶのではなくて、学んだことを確かめるために試験がある。言い換えると、試験をする側からも受ける側からも、勉強したことがどれくらい身についているかを確認する、というのが、ふつうの試験のもっとも重要な側面である。こんな当たり前のことが忘れられているように思う。資格試験あるいは入学試験といったものはすこし性質が違うのだが、そのインパクトの大きさから、試験といえばこれらの試験のことがまず頭にうかんでしまうせいかもしれない。不健全なことである。
阪大医学部に来るような、小学校4年生くらいから大学にはいることだけを目標に勉強をしてきた子たちは、本末転倒してしまい、試験のために勉強するようになってしまっている。そのよう馬鹿げた習い性は改めるべきである、と、いくらいってもなかなか治らない。

3 thoughts on “仲野徹

  1. shinichi Post author

    試験というもの -なんのために学ぶのか その2-

    なかのとおるのつぶやき

    by 仲野徹

    http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/nakano/essay_021.html

    試験のために学ぶのではなくて、学んだことを確かめるために試験がある。言い換えると、試験をする側からも受ける側からも、勉強したことがどれくらい身についているかを確認する、というのが、ふつうの試験のもっとも重要な側面である。こんな当たり前のことが忘れられているように思う。資格試験あるいは入学試験といったものはすこし性質が違うのだが、そのインパクトの大きさから、試験といえばこれらの試験のことがまず頭にうかんでしまうせいかもしれない。不健全なことである。

    前回にも書いたけれど、阪大医学部に来るような、小学校4年生くらいから大学にはいることだけを目標に勉強をしてきた子たちは、本末が転倒してしまい、試験のために勉強するようになってしまっている。そのよう馬鹿げた習い性は改めるべきである、と、いくらいってもなかなか治らない。このような考えだから、腹立たしいことに、試験や出席で不正行為をする輩が後を絶たない。

    そんなこんなで教えるのがいやになることがあったりするのだけれど、病理学総論、どのようにして病気ができてしまうのか、についての講義はちゃんとしている。60分×3コマを15回。年間、受け持っているのは、これと、大学院とか教養の講義、90分を10回程度だけなので、一般の方から見ると、先生なのにそんなに少ないんですか、と言われるような時間数でしかない。しかし、これでも、同僚教授に比べるとずいぶん多いと驚かれるのである。

    担当分の15回、すべてを自分で講義しているのには理由がある。ひとつは、この分野について試験をして単位認定をするからには、そうする義務があると考えているということ。もうひとつは、当たり前のことであるが、自分でやらないと、学生に何がどう教えられているかがわからないということである。そこが把握できてないと、真剣勝負の試験などできはしないし、ましてや成績不良で留年させるという決断などできはしない。

    しかし、試験問題をどのようにするかというのは、ほんとうに難しい。脳みそには限界があるのだから、細かいことを覚えさせてもどうせ忘れてしまうのはわかっている。ならば、基本中の基本とでもいえることだけを問う質問だけにすればいいかと言えば、そうでもない。そんなことをしたら、そこしか勉強してこないし、知的筋力がまったく身につかない。

    考えさせる試験を、と、よく言われるけれど、そうそうオリジナリティーのある問題を作れたら苦労はしない。学生たちは、過去問の収集に努力を惜しまないというのも困ったものである。論述試験が望ましいと言う人も多いけれど、公平性の点から、いささか疑問に思っている。問題にもよるが、一般論として、論述内容を公平に採点するなどというのは、神業としか思えない。

    とかいうことをいろいろと悩んだ末、私の試験は、穴埋め問題が60点と、論述試験(のようなもの)が40点、になっている。その穴埋め問題では、誤答減点方式をとっている。一問あたり2点の配点なのであるが、誤答は1点減点することにしているのだ。これは学生たちから、ものすごく不評である。しかし、というか、だから、というか、どちらにしても、絶対にやめない採点法である。やらしい先生やわ、と思われるかもしれないが、これには、ちゃんとした理由がある。

    いまやITの時代である。診察中であっても、わからないことがあれば、ちょいちょいっと調べることができる。極端な言い方をすれば、知らなくてもさして困らないのである。そのような時代に医師をする者にとって何が大事か?それは、知っているか知らないか、を知っていることでしかない。いちばん困るのは、わかっていないのにわかっていると思いこんで行動すること。すなわち、誤った記憶に基づいてなにかをしてしまうことだ。こういう高邁な考えによって、誤答減点方式を貫いているのである。

    この方式を取り入れるまでは、穴埋め問題でとんでもない解答がたくさんあった。どうしてそんなバカな答えを書くのかと学生に聞いたら、予備校で指導されました、という。入学試験では誤答減点方式がとられていないため、塾や予備校は、わからなくても、まぐれ当たりすることがあるから、とりあえずなんでも書くことを推奨しているらしい。

    少しでもあたりそうなことならばまだしも、どこをどうひねったらそんな答えを書きたくなるのか、理解しがたい答えが山ほど書かれていたのである。まったくばかげている。そして、そんなバカなことをいつまでも続ける学生も学生である。こちらとしては、そんなアホ解答であっても、一応は目を通さねばならないのである。大きくはないけれど、誤答減点方式にすると、そのようなムダな手間を減らすことができる、という実務上の利点もある。

    私も人の子、鬼のようだとは思われたくない。そこで、減点方式と同時に、自己採点による加点方式も同時に採用した。穴埋め問題の得点を自己採点し、±2点で予想できれば、5~20%を加点するやり方である。こうすれば、ほとんどの子が誤答を避けるだろう、と、考えて始めた。が、浅はかであった。多くの子たちは、あいかわらず間違えた答えを書き続けている。中には、自己採点が実点数よりも20点も上回っているのがいて、どうしようもないのである。

    残りの40点は、簡単な症例を提示して、5つの選択肢から病名などを選ぶ問題である。ただし、単に選ぶだけでなくて、選んだ理由を記述してもらう。こちらは英語での出題であるが、英語の教科書は持ち込み可にしてある。理由を書け、と言っているのに、「これはAという病気について書かれているから診断はAである。」などと、信じられない『論理』を繰り出してくる解答が結構あって、アホか、とつぶやきながら0点をつけることになる。

    学生によく、穴埋め問題で理解度がわかりますか、と、聞かれるけれど、うまく設問すれば相当にわかる。実際に、穴埋め問題と論述問題の相関を見ると、例年、0.4~0.5と、けっこうな相関関係があるのだ。前回書いた山本義隆の至言にもあるように、『言葉』をきちんと理解することが、新しいことを学ぶ第一歩なのである。

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  2. shinichi Post author

    なんのために学ぶのか : その1 講義について

    なかのとおるのつぶやき

    by 仲野徹

    http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/nakano/essay_020.html

    専門のことであろうが、専門外のことであろうが、
       要するにものごとを自分の頭で考え、
         自分の言葉で自分の意見を表明できるようになるため。

     たったそれだけのことです。そのために勉強するのです。

    毎年、講義シリーズの最初と最後に紹介するこの言葉は、「あの」山本義隆氏が、『磁力と重力の発見』で大佛次郎賞の受賞を記念して、予備校生に向けて講演されたときの言葉である。

    大阪大学医学部医学科に入学してくる学生たちは、受験戦争で赫々たる戦果をあげた歴戦の勇士たちである。すばらしい学生君もたくさんいるが、全体としては、残念ながら、教えていて物足りない。その理由はいくつもあるのだが、いちばん大きなものは、多くの学生の『学ぶ』ということに対する姿勢である。

    ほとんどの学生は『試験』という言葉に極めて鋭敏に反応する。あまりに敏感なので、「君らは試験が好きだとしか思えない」と嫌みを言いたったりする。小学校の4年生あたりから塾へ通い続け、十年近く試験だけを目的にしてきたのであるから、同情の余地がないわけではない。しかし、二十歳にもなれば、試験を目的に勉強する、というバカバカしさにそろそろ気がつくべきだ。 

    いろいろな病気がどのようにして発症するのか、という病理学総論の講義を担当しており、テキストには、この分野で定評ある『Robbins Basic Pathology』の原著を用いている。講義にあたり、まるで『教科書ガイド』のような、英日用語対訳とでもいったレジュメを準備して配布している。これを手に、この教科書を自力で読んでほしい、読みこなす能力を身につけてほしい、というのが私の方針である。

    講義の最後には、自由記述のアンケートを書かせている。講義の内容についての難しい質問から、「昨日、彼氏と別れました。一生結婚できないかもしれません。」という、びっくりするほどプライベートなものまで、さまざまなことが書かれていて、けっこう楽しみにしている。その中から、おもろいなぁというのを次回の講義で紹介するのは楽しみでもあるし、学生たちにも好評である。

    アンケートは記名式で提出させるのであるが、出席点はつけない。指定されている英語の教科書をさくさく読んで、きちんと独力で理解できたならば、わたしの講義など出る必要はないと考えているし、そのことは初回の講義ではっきりと伝えている。その理由はおおきく二つある。   

    ひとつは、この教科書が素晴らしいということにつきる。今使っているのは第9版、40年以上にわたって読み継がれてきた、世界中の医学生が使っている教科書だ。医学生レベルならば、病理学はこの内容を学ぶだけで十分なのである。そして、この教科書は非常に読みやすい。責任著者のKumar先生はインド出身。何人かの分担執筆であるが、文体まで整えられており、グローバルな読みやすさを保っている。文字通り、世界中の医学生のためのスタンダードテキストなのである。

    もうひとつは、なによりも、自分で学ぶ姿勢の重要性である。わたしの講義は、基本的に、この教科書の解説にすぎない。しかし、30ページ近くをわずか3時間でこなしていくのであるから、すべてを詳しく説明することなどできない。自分の役目は、この教科書を読むためのお手伝い、とわきまえている。

    いちばんいいのは、学生みんなが教科書を読んで予習し、講義では、理解のできなかったところを質問してもらい、答える、という方式だと思っている。しかし、これは実際には難しい。まず、学生のほとんどがついてこられない。そして、3時間もの質疑応答に応じるだけの能力が教える側にない。

    これら二つの理由から、この教科書を読みこなせることができるならば、出席する必要はない、と言っているのである。自分できちんと通読すれば、病理学という学問のプリンシプルはどこにあるのか、どういったところが勘所か、というのも自ずと身につくものであると信じている

    学生のアンケートでよくあるのは、「大事なところをきちんと示してほしい」というアホな要求である。予備校じゃないのだ。だいたいが、なにをもって大事とするのか。それを判断する能力を身につけることこそが重要だろうが。その程度のことがわかっていない、というのが、歴戦の勇士たちの困ったところなのである。      

    国家試験に合格すれば、試験を受ける機会はほとんどなくなるのである。すこしイマジネーションをはたらかせれば、試験オリエンティッドな人生がいかに無意味なことであるかぐらいはわかるはずだ。大学生時代に身につけなければならいないは、これからの長い『試験レス人生』に備えたスキルなのだ。優れた医師にとって、そのひとつは、まちがいなく、教科書レベルの英語をさくさく読んで理解できる能力だ。

    というと、じゃぁどうやったらそういう能力が身につきますか、という質問がくる。これも勇士たちにふさわしい、と言いたくなるような、こまったちゃん質問である。そんなものがわかれば苦労はしない。大学生時代というのは、卒業して仕事についてからに比べると、はるかに時間的な余裕がある。大学生時代がおそらく最後のチャンスなのである。十分な試行錯誤を経て、ベストフィットする学びの方法論を身につけてほしい。そうでなければ、あまりに効率が悪い人生を歩むことになってしまう。

    というようなことを日頃から考えていた。強気なようでけっこう弱気なところもあるので、ひょっとして自分だけが間違えているのではないかと秘かに心配していた。しかし、嬉しいことに、少なくともひとりぼっちではないことが、平成25年5月13日にわかった。日本経済新聞の朝刊に『教科書理解なら出席不要 清水明 東京大学教授 講義は疑問点質問 効率よりもじっくり思考』という記事を見つけたのである。 

    清水先生のHPをみると、基本的に同じ考えである。なによりも自分で学ぶことがいちばん大事なのである。大阪大学医学部が祖とする緒方洪庵の適塾は、医学塾というよりも、和蘭語の医学教科書をテキストにした語学塾であった。司馬遼太郎の『花神』を読めばわかるように、そこでは自ら学ぶということが何より重視された。だからこそ、大村益次郎のように、教科書さえ手にすれば、学ぶことのなかった兵学をも自学でマスターすることができたのだ。

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    山本義隆と同じ大阪府立大手前高等学校を卒業し、大阪大学医学部に進んで医者になり、今は大阪大学医学部の教授をしている人が、「阪大医学部に来るような、小学校4年生くらいから大学にはいることだけを目標に勉強をしてきた子たちは、本末が転倒してしまい、試験のために勉強するようになってしまっている」と書く。

    「自分は違う」と言いたいのだろうが、大手前高校では試験勉強をし、阪大でも試験勉強をし、医者になってからもそれなりに社会と折り合いをつけてきたはずの人に、もっと言ってしまえば「試験勉強の勝ち組」に、そんなことを言われたくはない。

    言っていることは至極まっとうだが、まっとうなことほど伝えにくい。まっとうなことを書けば、それが伝わると思うのは、あまりにもナイーブがすぎると思う。

    **

    と、ここまで書いて、それでも、仲野徹の指摘は、とても素晴らしいと付け加えておきたい。

    たぶんその指摘こそが、今の日本人の弱点なのだと思う。出来上がったことを理解したり、白か黒かという問題を解くことにはめっぽう強い。そして、言われたことを簡単に信じ、まわりの人と同じように考えるのが嬉しいという特性を持つ。そんな日本人は、すべて、本末転倒から生まれたのだろう。

    **

    でも、やっぱり「でも」と言いたいことがある。でも、人は誰もそんなに立派なものではない。学生の頃に、勉強が大好きな人など、あまりいない。立派でもなく、勉強もたいしてすきでない、不完全の存在である人間が、勉強以外の面白いことに惹かれるのは、ごく自然のことで、放っておけば、勉強など永遠にしないということになる。試験というものがあって、そのおかげで勉強するというのが、大多数のすることなのではないか。

    大学の教授のような特殊な職業についていると、自己評価は限りなく上がり、ほとんどの人たちが自分は特別に優れていると思うらしい。実際、調べてみると、まわりの教授たちよりも自分のほうが優れていると考える人が97%を占めるらしい。サラリーマンをやって、毎日痛めつけられながら生きていると、自分が優れているなどとは露ほども考えられなくなるが、それとは対照的に、ある一部の人たちは、自己評価を膨らませてしまう。

    もちろん、自己評価が高いことは、決して悪いことではない。イノベーションとか発見とかいうものは、自己評価の高い人から生まれることが多いというし、自信にもつながる。自信のなさそうな大学教授の授業は、きっと居心地の悪いものだろう。

    しかし、自己評価の高い人たちが、その考えを他の人たちに強制するようになると、これはもうたまらない。自分たちの考えは他人には通用しないのだということを、理解してほしいものだ。

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