ある日、カフェーのボーイに召集令状が来た。「三ちゃん」と呼ばれるハンサムな青年だった。美輪さんは女給らと、長崎駅へ見送りに行った。
汽車が動き始めた。その時、小柄な女性が飛び出し、三ちゃんにすがりついて叫んだ。「死ぬなよっ。どんげん(どんな)ことがあっても帰って来いよっ」。三ちゃんの母親だった。そこへ、軍服を着た男が近づき、「馬鹿者。軍国の母は『死んでこい』と言うんだ」。襟髪をつかんで引きずり、投げ飛ばした。母親は鉄柱にぶつかり、頭から血が流れた。
「三ちゃんは、血だらけになったお母さんを見ながら出征していったんですよ」。回想する美輪さんの目に涙が浮かんだ。
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寒い朝、親類が経営する旅館の近くで、工場に向かう女子挺身隊員の点呼が始まった。セーラー服に、もんぺ姿の女学生たちが並んでいた。
監督官が「おい、貴様」と、一人の女学生を指さした。「この戦時下において、軟弱な格好しとるとは何事か。脱げ!」。服を脱ぐと、黄、赤、紫などカラフルな毛糸の下着が現れた。監督官はそれをはさみで切り刻むと、胸を隠してしゃがみ込んだ女学生を殴り、けった。耳が切れ、口が切れ、鼻が切れた。「許して下さい、許して下さい……」。声が次第に小さくなった。
女学生は、けががもとで亡くなったと聞いた。下着は、母親が「寒い思いをしないように」と、いろんな服をほどいて編み直したものだった。襟から少しだけのぞいたのを見とがめられたのだ。
青い海と空に励まされた 美輪明宏さん (1935年生まれ)
ナガサキ ノート
朝日新聞
http://www.asahi.com/hibakusha/shimen/nagasakinote/note02-01.html
美輪さんは長崎市の裕福な家庭に生まれた。父はカフェーや料亭、銭湯を経営し、繁盛していた。本石灰町のカフェーの近くには丸山遊郭があった。昼間はろくにあいさつも返さない男が、夜になると、女性にうつつを抜かし、ヘラヘラする。そんな姿をかいま見た。「建前を全部取り払った、人間の本質を見て育った」と振り返る。
2歳上の兄の寺田安宏さん(75)は、美輪さんの少年時代について「利口で、目がくりっとして、大人からよくかわいがられていた」と話す。オルガンを弾いて歌ってばかりいたが、テストでは満点以外取ったことがなかった。
太平洋戦争が始まって1年ほどたったころだろうか。美輪さんが言った。「この戦争は負けよ。竹やりを持って、どうやって飛行機が落とせるの」。ささいな言葉でも「非国民」と非難された時代。安宏さんは「大きい声で言うな」とたしなめた。
ある日、カフェーのボーイに召集令状が来た。「三ちゃん」と呼ばれるハンサムな青年だった。美輪さんは女給らと、長崎駅へ見送りに行った。
汽車が動き始めた。その時、小柄な女性が飛び出し、三ちゃんにすがりついて叫んだ。「死ぬなよっ。どんげん(どんな)ことがあっても帰って来いよっ」。三ちゃんの母親だった。そこへ、軍服を着た男が近づき、「馬鹿者。軍国の母は『死んでこい』と言うんだ」。襟髪をつかんで引きずり、投げ飛ばした。母親は鉄柱にぶつかり、頭から血が流れた。
「三ちゃんは、血だらけになったお母さんを見ながら出征していったんですよ」。回想する美輪さんの目に涙が浮かんだ。
もう一つ、忘れられない光景がある。
寒い朝、親類が経営する旅館の近くで、工場に向かう女子挺身隊員の点呼が始まった。セーラー服に、もんぺ姿の女学生たちが並んでいた。
監督官が「おい、貴様」と、一人の女学生を指さした。「この戦時下において、軟弱な格好しとるとは何事か。脱げ!」。服を脱ぐと、黄、赤、紫などカラフルな毛糸の下着が現れた。監督官はそれをはさみで切り刻むと、胸を隠してしゃがみ込んだ女学生を殴り、けった。耳が切れ、口が切れ、鼻が切れた。「許して下さい、許して下さい……」。声が次第に小さくなった。
女学生は、けががもとで亡くなったと聞いた。下着は、母親が「寒い思いをしないように」と、いろんな服をほどいて編み直したものだった。襟から少しだけのぞいたのを見とがめられたのだ。
戦火は激しくなっていった。店先のマネキンは「退廃的」と撤去させられた。軍歌以外の歌は「不謹慎」という理由で禁止された。父は水商売を廃業させられた。モダンで国際色豊かだった長崎から色が消し去られた。
45年6月に沖縄が陥落すると、運動場で女子たちが号令に合わせ、変な手付きを繰り返すようになった。米兵の上陸に備え、操を守るために、睾丸を握りつぶす練習だった。 美輪さんは冷笑しながら言った。「わかるでしょ。当時の日本がどれだけ馬鹿だったのか」