shinichi Post author13/10/2014 at 12:40 am 日本残酷物語 by 平凡社 日常的な飢え、虐げられる女や老人、掠奪やもの乞いの生涯、山や海辺の窮民…。かつての日本のありふれた光景の記録を集めた「残酷」な物語。長く貧しさの底を生き継いできた人々の様々な肖像。 ** 日本残酷物語〈1〉貧しき人々のむれ Toshinao Maeda http://book.akahoshitakuya.com/cmt/17705220 江戸時代など昔を理想化する傾向が一部にあるが、これを読めば、多くの人が陥っていた貧困のあまりの悲惨さに考えを改めるだろう。 Reply ↓
shinichi Post author13/10/2014 at 12:46 am 東京大空襲 被災地図 ぴゅあ☆ぴゅあ1949 http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51377109.html 東京大空襲には謎と疑問が存在すること 除籍謄本が焼失(滅失)した場合の相続登記 昭和20年3月の東京大空襲では区役所保管の戸籍謄本原本、および東京法務局保管の副本の双方が焼失してしまったために、再製が不可能だったようです。 <以上引用> ※注:東京法務局は皇居の北東すぐの位置にある。 被害図を見ると、なぜかこの辺りがピンポイントで焼かれている。 東京大空襲その後の土地区画や権利について A-2) (略)空襲で一番被害を受けた下町あたりはほとんどが都有地でしたが、疎開していた人が、東京に戻った時には他人に占拠されていた例もたくさんあったようです。立て札を立てて権利を主張すれば良かったらしいです。 A-3)(略)東京ではないですが、地方都市の寺院で、(略) 爆撃前の寺よりあきらかに敷地が広いといううわさをする人がおり、問題になっていました。戦後住職もかわっており(略) で、実際に資料がかなりあつまり、地面をほりかえし(略) すると、そのときのお寺の敷地は、実際の地図に記載のお寺の2周りぐらい大きくなっていました。 <以上引用> ※本所・深川が都有地であった、という話はあまり他で聞いたことがないの ですが、もし本当なら 「3/10の空襲は迎撃もせずにはわざとやらせたのだ」 という陰謀論を裏付ける一つの要素になります。 住人も戸籍も焼失した焼け野原、そこに戦後住み着いた人たちは その不動産を誰から、どこから入手したのか。 ◆本所・深川でも建物疎開はあったようですが(参考)、それでもなお多数の被災者が出たというのは建物の間引きプランに不手際があったのか、あるいは別の理由があるのか。 本所・深川の住人に地方へ疎開できなかった人が多い理由は何か。 死者数の内、「工業従事者とその家族」 と 「それ以外の」 内訳は。 (これはおそらく数字としては判明していない) 都立江東図書館(現区立)はしっかり蔵書を疎開させて、戦後無事に 復旧させている、というのも何か納得いかない感が。(参考) 総務省 空襲と戦災の状況 – 国内各都市の戦災の状況より、 板橋区における戦災の状況 ※基本的に工場地帯が焼かれている。 北区における戦災の状況 ※王子・田端・赤羽(工場地帯)は焼かれているが、 十条周辺の軍用地は残っている。 ※注意: 上記総務省サイトで都内各区ごとの記載を見ると、 墨田区は数的データが殆ど無い。(他区はある) 深川(現・江東区)に至っては、記載自体がまったく無い。 また、3/10の死者数は7万5千人と記載されている。 これは一般には10万人といわれる。この人数差は何か。 何等かの理由で東京都(あるいは国)の歴史から消えて もらいたい層が2万5千人居たという事か。 「思い出の暗がり=悪所」 – 貧民窟 こちらに掲載されている東京の貧民窟分布図(平凡社『日本残酷物語』掲載図)を又借りしまして、空襲被災図と並べてみたものが下記図。 ※クリックで拡大 Kuushuu1945_2 ◆案の定、多くの部分が重なりますね。これらは低所得層の中でも、同和/在日といった組織立った力を持つ社会集団とは異なる、明治以降の資本主義の発達の過程で下層に押し込められていった本当の弱者の町でしょう。 参考:明治の貧民窟 この人たちには疎開できる先、頼るべき故郷が無かったのだ (という仮説)。 近代国家・日本にとっては歴史から抹殺したかった町、 それを現実に抹殺した (という仮説)。 被災図の方で、葛飾・江戸川に飛び地のように焼かれている箇所があり、 それが貧民窟の位置とほぼ重なる点にもご注意下さい。 3月10日以前の死者数 (=国の発表の4倍) 米国戦略爆撃調査団:アメリカは「戦略爆撃の効果を知るため」1945年10月から、米軍人850人、日本人300人が動員され、約1ヶ月かけて調査活動が行われた。 結果は 「信頼できる資料がなく、とくに空襲中の死傷者についての調査資料は絶無だった」 と報告されている。 「日本は調査というものがまったく欠けている。驚くべきことである。信じることができない」と報告書はくり返し述べているのである。 <以上引用> 近代デジタルライブラリー より 最新蒲田区明細地図(昭和15年) ※同所蔵中には、昭和元年~20年までの東京関連地図は上記しか無い。 (都の全体図、区別の詳細図とも無い。なぜか蒲田地図だけが在る) 一説には、深川/本所の被災前の詳細地図は殆ど見つからないのだとか。 BIGLOBE相談室 – 東京(非)大空襲について 3/10、4/13(※王子・赤羽・板橋)、5/23、5/25(※大森・蒲田)の投下弾量はそれぞれ、2000、2100、3600、3200トンと伝えられ 、3/10空襲はこの中では規模が小さいものです。 (略) 他の爆撃は山手地区など郊外で、面積ではかなりのものでしたが、5/25がやや大きかったほか、人的被害はそれほどではありませんでした。4/13は赤羽の造兵廠を目標にしたもので、池袋はとばっちりを受けました。 <引用> ※「山の手は住宅密集度が低いので被害が少なかった」「池袋、江戸川、葛飾は 主要目標ではなく、ついでに爆撃された」というのは真実なのか。 ◆3月10日以前の空襲死者が約1万人、以降の死者数は1万数千人。 (計30数回) うち、条件的に似ている大森・蒲田(4月15日)の死者数は約4千人。 この数量差/比は米側の作戦あるいは日本側の防災策の違いだけが理由なのか。 Reply ↓
日本残酷物語
by 平凡社
日常的な飢え、虐げられる女や老人、掠奪やもの乞いの生涯、山や海辺の窮民…。かつての日本のありふれた光景の記録を集めた「残酷」な物語。長く貧しさの底を生き継いできた人々の様々な肖像。
**
日本残酷物語〈1〉貧しき人々のむれ
Toshinao Maeda
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/17705220
江戸時代など昔を理想化する傾向が一部にあるが、これを読めば、多くの人が陥っていた貧困のあまりの悲惨さに考えを改めるだろう。
東京大空襲 被災地図
ぴゅあ☆ぴゅあ1949
http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51377109.html
東京大空襲には謎と疑問が存在すること
除籍謄本が焼失(滅失)した場合の相続登記
昭和20年3月の東京大空襲では区役所保管の戸籍謄本原本、および東京法務局保管の副本の双方が焼失してしまったために、再製が不可能だったようです。
<以上引用>
※注:東京法務局は皇居の北東すぐの位置にある。
被害図を見ると、なぜかこの辺りがピンポイントで焼かれている。
東京大空襲その後の土地区画や権利について
A-2) (略)空襲で一番被害を受けた下町あたりはほとんどが都有地でしたが、疎開していた人が、東京に戻った時には他人に占拠されていた例もたくさんあったようです。立て札を立てて権利を主張すれば良かったらしいです。
A-3)(略)東京ではないですが、地方都市の寺院で、(略) 爆撃前の寺よりあきらかに敷地が広いといううわさをする人がおり、問題になっていました。戦後住職もかわっており(略) で、実際に資料がかなりあつまり、地面をほりかえし(略) すると、そのときのお寺の敷地は、実際の地図に記載のお寺の2周りぐらい大きくなっていました。
<以上引用>
※本所・深川が都有地であった、という話はあまり他で聞いたことがないの
ですが、もし本当なら 「3/10の空襲は迎撃もせずにはわざとやらせたのだ」
という陰謀論を裏付ける一つの要素になります。
住人も戸籍も焼失した焼け野原、そこに戦後住み着いた人たちは
その不動産を誰から、どこから入手したのか。
◆本所・深川でも建物疎開はあったようですが(参考)、それでもなお多数の被災者が出たというのは建物の間引きプランに不手際があったのか、あるいは別の理由があるのか。
本所・深川の住人に地方へ疎開できなかった人が多い理由は何か。
死者数の内、「工業従事者とその家族」 と 「それ以外の」 内訳は。
(これはおそらく数字としては判明していない)
都立江東図書館(現区立)はしっかり蔵書を疎開させて、戦後無事に
復旧させている、というのも何か納得いかない感が。(参考)
総務省 空襲と戦災の状況 – 国内各都市の戦災の状況より、
板橋区における戦災の状況
※基本的に工場地帯が焼かれている。
北区における戦災の状況
※王子・田端・赤羽(工場地帯)は焼かれているが、
十条周辺の軍用地は残っている。
※注意: 上記総務省サイトで都内各区ごとの記載を見ると、
墨田区は数的データが殆ど無い。(他区はある)
深川(現・江東区)に至っては、記載自体がまったく無い。
また、3/10の死者数は7万5千人と記載されている。
これは一般には10万人といわれる。この人数差は何か。
何等かの理由で東京都(あるいは国)の歴史から消えて
もらいたい層が2万5千人居たという事か。
「思い出の暗がり=悪所」 – 貧民窟
こちらに掲載されている東京の貧民窟分布図(平凡社『日本残酷物語』掲載図)を又借りしまして、空襲被災図と並べてみたものが下記図。 ※クリックで拡大
Kuushuu1945_2
◆案の定、多くの部分が重なりますね。これらは低所得層の中でも、同和/在日といった組織立った力を持つ社会集団とは異なる、明治以降の資本主義の発達の過程で下層に押し込められていった本当の弱者の町でしょう。 参考:明治の貧民窟
この人たちには疎開できる先、頼るべき故郷が無かったのだ (という仮説)。
近代国家・日本にとっては歴史から抹殺したかった町、
それを現実に抹殺した (という仮説)。
被災図の方で、葛飾・江戸川に飛び地のように焼かれている箇所があり、
それが貧民窟の位置とほぼ重なる点にもご注意下さい。
3月10日以前の死者数 (=国の発表の4倍)
米国戦略爆撃調査団:アメリカは「戦略爆撃の効果を知るため」1945年10月から、米軍人850人、日本人300人が動員され、約1ヶ月かけて調査活動が行われた。
結果は 「信頼できる資料がなく、とくに空襲中の死傷者についての調査資料は絶無だった」 と報告されている。 「日本は調査というものがまったく欠けている。驚くべきことである。信じることができない」と報告書はくり返し述べているのである。
<以上引用>
近代デジタルライブラリー より
最新蒲田区明細地図(昭和15年)
※同所蔵中には、昭和元年~20年までの東京関連地図は上記しか無い。
(都の全体図、区別の詳細図とも無い。なぜか蒲田地図だけが在る)
一説には、深川/本所の被災前の詳細地図は殆ど見つからないのだとか。
BIGLOBE相談室 – 東京(非)大空襲について
3/10、4/13(※王子・赤羽・板橋)、5/23、5/25(※大森・蒲田)の投下弾量はそれぞれ、2000、2100、3600、3200トンと伝えられ 、3/10空襲はこの中では規模が小さいものです。
(略)
他の爆撃は山手地区など郊外で、面積ではかなりのものでしたが、5/25がやや大きかったほか、人的被害はそれほどではありませんでした。4/13は赤羽の造兵廠を目標にしたもので、池袋はとばっちりを受けました。
<引用>
※「山の手は住宅密集度が低いので被害が少なかった」「池袋、江戸川、葛飾は
主要目標ではなく、ついでに爆撃された」というのは真実なのか。
◆3月10日以前の空襲死者が約1万人、以降の死者数は1万数千人。
(計30数回)
うち、条件的に似ている大森・蒲田(4月15日)の死者数は約4千人。
この数量差/比は米側の作戦あるいは日本側の防災策の違いだけが理由なのか。