大蔵経テキストデータベース研究会

景徳傳燈録: 便周行七歩目顧四方云天上天下唯我獨尊他便有遮箇方便奇特只如諸上座初生下時有箇什麼
續傳燈録: 降生七歩周行四方目顧天上天下唯我獨尊大似貪觀天上月失却手中珠還知落處麼若知落處方
大唐西域記: 於四方各七歩而自言曰天上天下唯我獨尊今茲而往生分已盡隨足所蹈出大蓮花二龍踊出住虚空中
廣弘明集: 七歩爲降魔梵發誠實語天上天下唯我獨尊抱入天祠天像悉起阿私陀仙合掌歎曰相好明
老子化胡經 (第一・第十) : 指天右手指地而告人曰天上天下唯我獨尊我當開揚無上道法普度一切動植衆生周遍十
阿毘達磨倶舍論法義: 雜舍二十三(十八左)天上天下唯我獨尊應悉招謗耶又無朋之義汝迷謬不局一佛通一切佛稱
天台圓宗四教五時西谷名目: 墮地即行七歩口自發言天上天下唯我獨尊矣四出家年漸長大夜半逾城十九出家
溪嵐拾葉集: 懷行七歩唱曰私云釋尊天上天下唯我獨尊一致習合也然則傳教大師者我國釋尊也云云捨
佛照禪師語録: 七歩目視四方好弄精魂天上天下唯我獨尊簸兩片皮後來雲門行令雖然過賊張弓東福且存長樣依
圓通大應國師語録: 底是師云二倶不是僧云天上天下唯我獨尊聻師云也是草裏漢僧云雲門棒頭短藥山杓柄長還
圓通大應國師語録: 子太遠在何故豈不見道天上天下唯我獨尊
佛光國師語録: 下閻浮錯才出母胎却道天上天下唯我獨尊錯錯錯禹別九州無此一錯二鐵圍山難鑄
佛光國師語録: 時一手指天一手指地云天上天下唯我獨尊那時卦文已是破了但聲聞諸天皆不領話入山修道出山
佛光國師語録: 天上天下唯我獨尊拈花付囑殃害子孫千載之下難報深恩揮起金鎚廓頂門
佛國禪師語録: 不知痛痒强面出頭來道天上天下唯我獨尊果然重遭韶石一棒打殺然則雲巖爲啓雲門爲殿
佛國禪師語録: 地周行七歩目顧四方曰天上天下唯我獨尊後來雲門大師云吾當時若見一棒打殺與狗子喫却
佛國禪師語録: 地周行七歩目顧四方云天上天下唯我獨尊唖老韶陽不放過劈脊便棒當面即唾然雖如是相如門下見廉頗
南院國師語録: 下一手指天一手指地云天上天下唯我獨尊後來雲門道我當時若見一棒打殺與狗子喫拈云
南院國師語録: 天一手指地目顧四方云天上天下唯我獨尊後來雲門云我當時若見一棒打殺與狗子喫
竺僊和尚語録: 上一手指天一手指地云天上天下唯我獨尊諸人還聞麼乃以目顧視大衆喝一喝
竺僊和尚語録: 天一手指地目顧四方云天上天下唯我獨尊後來雲門云我當時若見一棒打殺與狗子喫却
竺僊和尚語録: 頭一手指天一手指地云天上天下唯我獨尊撃拂子云佛殿溌惡水去
竺僊和尚語録: 目顧四方作大獅子吼云天上天下唯我獨尊貨則奇矣爭柰不遇人何仙上座當時若見但謂之曰
竺僊和尚語録: 遂分手指上下召大衆云天上天下唯我獨尊便下座
竺僊和尚語録: 月十五日余爲衆上堂有天上天下唯我獨尊之語有未解者議之曰此四月八日語也何故説之首座即謂之曰
夢窓國師語録: 一時換却方許開大口道天上天下唯我獨尊雖然如是明眼看來浣盆浣盆喝一喝」
夢窓國師語録: 浴佛上堂天上天下唯我獨尊莫怪渠儂無思算新生孩子擲金盆
義堂和尚語録: 地周行七歩目顧四方云天上天下唯我獨尊雲門大師云我當時若見一棒打殺與狗子喫
鹽山拔隊和尚語録: 來向吾道處處眞處處眞天上天下唯我獨尊吾即與一喝向渠曰猶是在窟裡別轉一路始得那箇是別轉
鹽山拔隊和尚語録: 絶處亦是什麼物良久云天上天下唯我獨尊

3 thoughts on “大蔵経テキストデータベース研究会

  1. shinichi Post author

    ご挨拶

    by 下田正弘

    大蔵経テキストデータベース研究会

    http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/welcome.html

     人類の叡智は途方もない広がりと奥ゆきをもった現実を創出し、互いに触発しあいながらさまざまなかたちに表現されてきました。このサイトは、アジアを中心に二千五百年の歳月をかけて伝承され、『大正新脩大蔵経』として結実した仏教の智慧を広く世界に開き出すとともに、それをめぐって人びとが触れあいながら、あらたな知を生み出す場となることを目指して、運営されています。

     ほんらい信仰の対象である仏典を発信するという営みには、いくつかの異なった立場がありうるでしょう。そうしたなかでこのサイトは、特定の宗派教義に立脚することなく、宗教の制約さえ離れて、学術的に最高度の質の情報として、可能な限り歴史的な事実に即したかたちで、仏典とそれにかんする研究とを提供することを目的としています。

     あらゆる価値判断が正当になされる前提には、さまざまな様態を持つ、存在するかぎりの情報が、あたう限り客観的に、しかも理解可能な一定の構造のもとに、提供されつづけることが必要です。

     このサイトは、『大正新脩大蔵経』テキストデータベースを一次情報として発信しつつ、このテキストにかんする研究の成果を一定の基準にしたがって吟味したうえで二次情報として連結し、それによって仏典とそれをめぐる研究とが、同時に把握されるよう配慮がなされています。

     歴史の進展、学問の進歩とともに細分化し、多様化して見えにくくなった仏教をめぐる知の断片は、この大きな一世界に再度集約され、利用可能なかたちで再現されることになります。

     歴史の辛酸を経験しながら、こんにちまで生き抜いてきた人びとの身に寄り添ってきた仏典の一大集成は、今後もあらたなかたちを取りながら、未来に向かって継承されてゆくでありましょう。本サイトがこうした努力の一端を担いうるなら、このプロジェクトに関わってきた者たちすべての、心からの慶びとするところであります。

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  2. shinichi Post author

    唯我独尊

    https://ja.wikipedia.org/wiki/唯我独尊

    唯我独尊とは、釈迦が誕生した時に言ったとされる言葉。

    釈迦は摩耶夫人の右脇から生まれたとされるが、その直後に七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言った、という伝説から出てきたものである。しばしば釈迦を、崇める言葉として使われる。

    意義

    元来、「天上天下唯我独尊」は、釈迦が言ったのではない。釈迦以前に出世したといわれる過去七仏の第1仏である毘婆尸仏が誕生した際に言ったとされる。

    しかしそれが、釈迦が生まれた際に、他の人々がそのように讃嘆したという説が生じて、のちに釈迦自身が誕生直後に自ら言ったと信じられるようになったものである。

    『大唐西域記』(646年成立)の中に記載されている、釈迦の誕生当時を伝える誕生偈と呼ばれる偈文には、

    天上天下唯我独尊 今茲而往生分已尽

    という一節が記されている。現代語に訳すと「全世界で私が一番尊い」という意味である。

    「天上天下唯我独尊」の意味を「全世界で私たち一人一人の人間が一番尊い」と解釈する説もあるが、経典上の根拠が全く無い説である。釈迦の誕生を伝える仏典には、『佛本行集経』卷八・樹下誕生品下、『佛説太子瑞應本起経』卷上などがあるが、代表的な『修行本起経』卷上・菩薩降身品第二には、

    天上天下唯我為尊 三界皆苦吾当安之

    とあり、欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる。私はこの苦の衆生を安んずるために誕生したのだから、尊いのであると言う。ところが残存するパーリ仏典はやはり大乗仏教の影響を受けており、『大唐西域記』と同じように、釈迦自身の解脱という点で尊いとしている。この利他の面で尊いとするのか、解脱という利自の面で尊いとするのかに、時代による釈迦観の違いが現れている。

    さらに、「天上天下」という言葉で、仏教の立場を説いているという解釈もある。「天上」とは、世界の一切の事象をすべて神の意思であるとする、当時の「尊有論」の立場とし、「天下」を、一切の事象は偶然によって支配されていると考える「偶然論」の立場と説明する。この両極端を否定して、釈迦は真実の姿は縁起によって現象するのであると自覚したから尊いのであると説明する。

    誤解

    「この世で最も尊いのは自分である。なぜなら、この世に自分(という存在)は一人だけである」と解する誤解や拡大解釈からか、多くの人が「傍若無人」「自己中心」と同じ意味と捉えられる向きがあり、一例として暴走族が特攻服などに刺繍したりするという。

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