石田修大

少年犯罪には戦後幾つかのピークがあり、最初は復興さなかの一九五一年(昭和二十六年)だった。
戦後の新少年法は一九四八年に成立したが、三年後のこの年、少年による刑法犯(検挙者数)は十六万六千四百三十三人で最初のピークを迎え、特に殺人事件での検挙者は四百四十八人にのぼっている。
犯行の凶暴さも相当なものだったが、マスコミも世の中も今ほど大騒ぎした痕跡が見られない。というより、ほとんど関心を払わなかったのではないかと思えるほどだ。
地方の農村では年間数千人の子供が売られ、都会への家出も急増。騒然とした世情だった。
大人たちが自分のことに精一杯だったから、かまってもらえない子供たちは大人をまねて非行、凶悪犯罪に走り、大人は気づいても手を拱いていた。マスコミもこの年ようやく民間ラジオ放送が始まったばかり。テレビ放送開始は二年後で、少年事件が大々的に取り上げられ、話題になることはなかった。

One thought on “石田修大

  1. shinichi Post author

    1951年の巻

    少年による殺人事件が戦後のピークに、だがマスコミも世の中も無関心だった

    by 石田修大

    月刊「ビジネス・インテリジェンス」 2004年9月号

    http://www.shudai.com/yokot/05_1951.html

    ホームページで悪口を書かれたと同級生を刺し殺す。告げ口を恐れて幼児をマンションから投げ落とす。小中学生の犯罪が衝撃を与えているが、少年の凶悪犯罪も低年齢化も、いま始まったわけではない。少年犯罪には戦後幾つかのピークがあり、最初は復興さなかの一九五一年(昭和二十六年)だった。

    世田谷の旅館で、高校一年生(十六歳)が女装男性(三十歳)を刺し殺した◆十九歳と二十歳が横浜市の古物商に押し入り、店主夫妻を絞殺、六万円を奪った◆横浜市で十九歳と十八歳が、不良仲間の二十歳を刺殺◆千葉県印旛郡で中学三年生(十四歳)と兄の十九歳が、母親と共謀して酒癖の悪い父親を殺害◆世田谷の旋盤工(十七歳)が青物商親子を殺して金を奪おうと、井戸に青酸カリを投げ込んだ◆所沢の中学二年生(十三歳)がけんかで十歳の少年の胸を刺して殺した◆足立区で無職の少女(十九歳)が、産んだばかりの子の首だけを出して墓地に生き埋め。赤ん坊は肺炎で死亡——。

    一九五一年一月からわずか三ヵ月間に起きた少年による殺人、同未遂事件の一部である。戦後の新少年法は一九四八年に成立したが、三年後のこの年、少年による刑法犯(検挙者数)は十六万六千四百三十三人で最初のピークを迎え、特に殺人事件での検挙者は一九六一年と並んで現在までトップの四百四十八人にのぼっている。最近の年間百人前後とは比べものにならない多さだった。

    犯行の凶暴さも相当なもので、四月以降も中学二年生(十四歳)が母親の首を剃刀で切ったり、子守の少女(十五歳)が赤ん坊に小石、縫い針を飲ませ殺害を謀ったり、十五歳の少年が近所の老婆や叔母一家を殺そうと二度にわたって青酸ソーダを飲み物に混ぜている。八歳〜十歳の小学生四人組が、学校や洋裁店など六件の放火で捕まった事件もある。

    筆者は当時八歳。ほんの子供だから、少年による殺人事件がこれほど相次いだことは記憶にないが、マスコミも世の中も今ほど大騒ぎした痕跡が見られない。というより、ほとんど関心を払わなかったのではないかと思えるほどだ。

    この年は朝鮮戦争の真っ最中であり、九月にはサンフランシスコで対日講和条約の調印式があり、日本は占領下から独立国への曲がり角にあった。上野の浮浪者を強制移転させたり、都内の露店を整理するなど、大慌てで独立国の体裁を整えているが、大方の国民はまだ食べていくのに必死で、「三越にはストもあります」が流行語になった時代。

    地方の農村では年間数千人の子供が売られ、都会への家出も急増。横浜・桜木町駅では電車が炎上、百六人が死亡する事故が起き、山口県・八海で老夫婦が惨殺される八海事件、東京の料亭で一家四人が殺された八方亭事件なども相次ぎ、騒然とした世情だった。

    大人たちが自分のことに精一杯だったから、かまってもらえない子供たちは大人をまねて非行、凶悪犯罪に走り、大人は気づいても手を拱いていた。マスコミもこの年ようやく民間ラジオ放送が始まったばかり。テレビ放送開始は二年後で、少年事件が大々的に取り上げられ、話題になることはなかった。

    そんな時代を「貧しさゆえの少年犯罪多発期」と総括する専門家もいる。確かに貧しさは犯罪の温床で、日本だけの問題ではなかった。日本と同じ敗戦国イタリアでは、この三年前の一九四八年、ビットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』が公開されている。やっと手にした仕事に必要な自転車を盗まれ、探しあぐねた末に自分も自転車を盗んでしまう父親と子供の物語である。

    主人公父子が盗まれた自転車を探してさまよう町並みをオールロケで撮り、イタリアン・リアリスモの傑作といわれた。自転車泥棒など犯罪とも思わぬ今どきの日本なら、どこがリアリズムかと首を傾げられそうだが、あの時代、仕事に不可欠だった自転車は、今なら大型ダンプにも匹敵する価値があった。

    貧しさと犯罪が直結した敗戦国と比べ、戦勝国のアメリカは当然、戦後の立ち直りも早かった。にもかかわらず、アメリカの少年も暴れ回っていた。

    四年後の一九五五年に公開されたアメリカ映画『暴力教室』は、女教師にまで乱暴する荒れる高校へ赴任した教師と生徒の関係を描いた作品だった。暴力描写の激しさと、主題歌に使われた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」で初めてロックンロールという音楽を知った日本の若者には大受け、文部省が青少年の鑑賞禁止の通達を出すほどだった。

    アメリカの少年非行を描いた『暴力教室』の高校生(若きビック・モローやシドニー・ポワチエ)は、貧しさ故に暴力をふるったのではなかった。日本やイタリアより遙かに豊かだった五〇年代のアメリカ。それなのに希望を見いだせぬ苛立ちから、彼らは荒れ狂ったのだった。

    少年犯罪はどこの国でも、大人がつくり出す世相を反映して増減する。戦後の混乱と貧しさが少年犯罪を激増させる例は、現代でもアフガニスタンなど各国に見いだせる。といって豊かになれば無条件で犯罪が減少するわけでないことは、『暴力教室』の後、日本でも経験済みである。

    五一年に続いて第二の少年犯罪のピークはオリンピックが開かれた高度成長期の一九六四年、刑法犯の検挙者数は二十三万八千八百三十人。続いて第三のピークは、家庭内暴力を描いた「積木くずし」がベストセラーになった一九八三年の三十一万七千四百三十八人だった。

    ここ数年の検挙者数はほぼ二十万人を前後している。大人たちも、戦後間もないころの無関心ではなく、被害者の立場をも思いやった重大な関心を少年犯罪に抱くようになった。大騒ぎするようになったのは復興期と比べ生活にも余裕ができ、子供の数も減ったためだろう。それは結構なことだが、マスコミは興味本位の「のど元過ぎれば」で、大人たちもまた眉をひそめて悩むだけのように見える。自らの問題として本気で子供たちと取り組まないと、明日第四のピークがやって来るかも知れない。

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