知性は、知・情・意の枠組みの中で、intellect あるいは intelligence などの翻訳語として登場した。認識や思考など、人間の知的活動全般を支える能力を指す。知性よりも先に普及した理性という語と同様に、「性」の字には、誰にでも生まれながらにそなわっている性質という方向づけがある。明治初期には「霊知」や「智力」といった候補もありながら、訳語としては知性が定着し、日常会話の中にも使われるようになっていったのは、人間のもつ性質としての知性という考え方が共有されたからではないか。
知性は、知・情・意の枠組みの中で、intellect あるいは intelligence などの翻訳語として登場した。認識や思考など、人間の知的活動全般を支える能力を指す。知性よりも先に普及した理性という語と同様に、「性」の字には、誰にでも生まれながらにそなわっている性質という方向づけがある。明治初期には「霊知」や「智力」といった候補もありながら、訳語としては知性が定着し、日常会話の中にも使われるようになっていったのは、人間のもつ性質としての知性という考え方が共有されたからではないか。
翻訳語事情
intellect→知性・・・
知識を全体として考える
by 齋藤希史
読売新聞 2015年8月13日朝刊
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」。夏目漱石『草枕』の冒頭、語り手の絵描きは山道を登りながらこう考えた。たしかにそうだと腑に落ちる読者も多いだろうが、岩波書店版全集の注解にもあるとおり、これは人間の精神活動を知・情・意、つまり知性・感情・意志の三つにわける見方を背景としている。明治以降、哲学や心理学などの分野で導入された枠組みだ。もっとも、そんなことは感じさせない洒脱さは漱石ならでは、意志を意地と言い換えるところなどもおもしろい。
知性は、この知・情・意の枠組みの中で、intellect あるいは intelligence などの翻訳語として登場した。認識や思考など、人間の知的活動全般を支える能力を指す。知性よりも先に普及した理性という語と同様に、「性」の字には、誰にでも生まれながらにそなわっている性質という方向づけがある。明治初期には「霊知」や「智力」といった候補もありながら、訳語としては知性が定着し、日常会話の中にも使われるようになっていったのは、人間のもつ性質としての知性という考え方が共有されたからではないか。
アメリカの歴史家ホープスタッターは、『アメリカの反知性主義』のなかで、intellect と intelligence を区別して、後者が物事の処理や適応における頭脳の優秀さを示すのに対し、前者、すなわち intellect は、吟味や熟考、批判などによって、個別の処理や適応にとどまらない全体的な判断や評価を行う働きを指すという。同署の田村哲夫訳(みすず書房)は、intellect を知性、intelligence を知能と訳しわけており、明快な訳語選定であると同時に、知性という現代の日本語に新たな意味の奥行きを与えている。知識の量や処理能力が重要なのではなく、それらの価値を全体として考え、新しい世界を想像するのが知性の働きなのである。
こうした知性は、それぞれの人の中に閉ざされていたり、他人に向かってひけらかされたりするようなものではない。むしろ、互いの知性を信頼し、依拠しつつ、社会全体がもつ知性として獲得されるべきものであろう。何かと角が立ったり流されたり窮屈だったりするのが世間であることは変わらないにしても、21世紀の私たちは、知性をもつ個人であり、知性をもつ社会でありたい。
Richard Hofstadter
https://kushima38.kagoyacloud.com/?p=42840
(sk)
明治時代の翻訳の混乱が、いまだに尾を引いている。
翻訳の試行錯誤は、いったいいつまで続くのだろう。
意味もよくわからずなにも理解せずに翻訳する人は多い。
翻訳されたものを読んで誤解し、わかった気になる。誤解されたものが定説になる。
それは悪いことではないけれど、変ではある。