実際の同仁斎は、床の間はなく、掛け軸もかけられていない。その代わり、障子がはめられていて、左右に開けると庭が見える仕組みになっている。つまり、障子の枠によって切り取られた縦長の四角い庭の景色が、掛け軸の役割をしているのである。
そして、切り取られた景色の隣に、違い棚がある。
障子の下に付書院。違い棚とともに、現存する最古の座敷飾りである。
実に居心地がいい。
通常の書院造では、付書院は床の間の脇、直角に位置しているが、同仁斎の場合は、普通の書院造の床の間の位置に付書院があり、床の間自体は存在しない。というよりも、この付書院が床の間の機能も兼ねているところに注目したい。
つまり、障子の前に腰をおろし筆を持ちつつ、障子の間からのぞく自然を絵画として味わい、掛け軸の絵にはありえない渡る風、花や芝の薫りまでも楽しみ思案にふけることができるのだ。
何と言っても、リアル掛け軸なのだ。贅沢の極みである。
誤解だらけの日本美術
デジタル復元が解き明かす「わびさび」
小林泰三/著
日本美術の最先端の味わい方を提示する
実は真っ赤な阿修羅、きらめいていた銀閣、ド派手な風神雷神…。私たちが「わびさび」の芸術として親しんでいる国宝は、初めからもののあわれで、渋くて枯れた趣だったわけじゃない。
最新のデジタル技術で国宝の「本来の姿」を復元し、制作当時の「環境」を合わせて理解すれば、日本美術の見方がガラリと変わる!
目次
はじめに
第1章 俵屋宗達〇風神雷神図屏風
第2章 キトラ古墳壁画
第3章 銀閣寺
第4章 阿修羅像
おわりに
書院造の元祖を目撃
。。。
実際の同仁斎は、床の間はなく、掛け軸もかけられていない。その代わり、障子がはめられていて、左右に開けると庭が見える仕組みになっている。つまり、障子の枠によって切り取られた縦長の四角い庭の景色が、掛け軸の役割をしているのである。
そして、切り取られた景色の隣に、違い棚がある。
障子の下に付書院。違い棚とともに、現存する最古の座敷飾りである。
実に居心地がいい。現代人である私の率直な感想だ。
。。。
なぜ床の間に花や香を添えるのか
通常の書院造では、付書院は床の間の脇、直角に位置しているが、同仁斎の場合は、普通の書院造の床の間の位置に付書院があり、床の間自体は存在しない。というよりも、この付書院が床の間の機能も兼ねているところに注目したい。
つまり、障子の前に腰をおろし筆を持ちつつ、障子の間からのぞく自然を絵画として味わい、掛け軸の絵にはありえない渡る風、花や芝の薫りまでも楽しみ思案にふけることができるのだ。
何と言っても、リアル掛け軸なのだ。贅沢の極みである。
いや、まてよ。もしかして・・・・・・。
庭を眼で愛で、風に季節の香りを嗅ぐように、発展した結果生まれた床の間自体も、自然を体感するように楽しむことができる舞台装置ではないか、と、今気がついたのだ。
床の間を飾る掛け軸と、床に置く花や香は、結びつくように選ばれることが基本である。例えば、掛け軸の絵が、月を渡る雁の絵であれば、下にはススキや萩など、秋の花が添えられる、
とした場合、掛け軸で秋の風景を目で楽しみ、花によって秋の香りを感じるということができる・・・・・・。立体的に、季節を堪能することができるのだ。
床の間は、立体的に自然を感じさせる舞台装置なのだ。
。。。
床の間が視覚と嗅覚を満足させるためのものだとするならば、茶道はプラス味覚を楽しませるものだからである。さらに言えば、茶碗をいじったり口にしたりする触覚も。
ただ景色を見て楽しむだけではなく、その季節の香りを楽しみ、その季節の味を楽しむのである。
(sk)
6月の末に、Annecy 湖の上に突き出したレストランのテラスでディナーを楽しんだとしよう。
午後7時にはレストランに着いていて、8時頃に席に着く。
アペリティフと前菜が終わるころ、辺りが暗くなってくる。湖を囲む山々がまっ黒になる。
メインの料理が終わるころ湖の表面がサーっと光り、そのあと湖は見えなくなる。
デザートが終わる時には空も真っ暗になり、星の輝きが増す。
そんなディナーは、同仁斎で月を眺めるのに似ている。
月を眺めながらゆっくりと時をすごし、目を楽しませ、耳を楽しませ、皮膚で空気を感じ、手先で触るもののすべてを楽しみ、料理やワインの香りを、そして季節の香りを楽しみ、味を楽しむ。そしてなによりも、一緒にいる人との時間を楽しむ。
同仁斎でお茶をいただかなくても、同じような贅沢はどこにいても味わうことができる。
「わび・さび」が、完璧でない美しさであり、うつろいゆく美しさであり、未完成の美しさでもあるとするなら、「わび・さび」は、毎日楽しむことの出来る、そんなに遠くないものだと思える。そう思えれば、「わび・さび」は、もう隣にいる。