細川一

HajimeHosokawa昭和二十九年から当地方において散発的に発生した四肢の痙性失調性麻痺と言語障害を主症状とする原因不明の疾患に遭遇した。ところが本年四月から左記同様の患者が多数発見され、特に月の浦、湯堂地区に濃厚に発生し而も同一家族内に数名の患者のあることを知った。なお発生地区の猫の大多数は痙攣を起して死亡したとのことである。よって只今までに調査して約三十例を得たのでその概要を記述する。

本症は、前駆症状も発熱等の一般症状も無く極めて緩徐に発病する。まず四肢末端のじんじんする感があり次いで物が握れない。ボタンがかけられない。歩くとつまずく。走れない。甘ったれた様な言葉になる。又しばしば目が見えにくい。耳が遠い。食物がのみこみにくい。即ち四肢の麻痺の外、言語、視力、聴力、嚥下等の症状が或いは前後して表れる。これ等症状は多少の一進一退はあるが次第に増悪して極期に達する(極期は最短二週間最長三ヵ月)。以後漸次軽快する傾向を示すも大多数は長期に亘り後貽症として残る。尚死亡は発病後二週間乃至一ヵ月半の間に起るようである。

新日本窒素附属病院      
細 川   一

4 thoughts on “細川一

  1. shinichi Post author

    細川一博士報告書

    昭和三十一年八月二十九日
    第一回厚生省への報告       熊本県衛生部予防課

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  2. shinichi Post author

    細川一

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/細川一

    細川 一(ほそかわ はじめ、1901年9月23日 – 1970年10月13日)は新日本窒素肥料株式会社(後のチッソ株式会社)水俣工場附属病院長であり、水俣工場が引き起こした水俣病の症状を公式に発見した医師である。

    1901年9月23日 愛媛県西宇和郡三瓶村(後の三瓶町、現在の西予市)に生まれる。
    1927年 東京帝国大学医学部を卒業。
    1936年 日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮半島の咸鏡北道恩徳郡にある阿吾地工場の附属病院長に就いた。
    1941年 水俣工場附属病院長に就任。軍医としてビルマに赴任。
    1947年 復員し、水俣工場附属病院長の職に戻る。
    1950年 財閥解体により、日本窒素肥料は新日本窒素肥料となった。
    1956年5月1日 「原因不明の中枢神経疾患の発生」を水俣保健所に報告。この日が水俣病公式発見の日とされる。
    1957年5月 猫に水俣工場廃液を与える実験を開始。
    1959年10月 廃液を投与され続けた「猫400号」が運動失調の症状を示すことを確認。水俣病の原因は工場廃液と確信するが、会社の説得によってこれを公表せず。
    1962年 新日本窒素肥料を辞め、愛媛県に帰郷。
    1970年 肺ガンのため入院。入院中に水俣病裁判の証人として臨床尋問を受け、隠蔽されていた猫400号実験について証言。
    10月13日 肺癌のため死去。

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  3. shinichi Post author

    石牟礼道子

     細川先生は、おおきな蒼味をおびた、つよい光をたたえた眸をしたお方だった。その光にわたしはうたれた。あとにもさきにも、このような眸の光に逢ったことがなかった。それは言葉にならぬ叡智とでもいおうか、かりにたくさんの言葉をおっしゃったにしても、なお深々とした叡智の湖(うみ)が、眸の底におおきく湛えられ、それが言葉を超えて光をはなっているようだった。
     わたしは、水俣市役所内にあった文書、すなわち熊大医学部の研究論文を読んだことをおぼつかない口調で言い、医学に対してなにも予備知識がないこと、なにをどうおたずねしたらこの問題のいとぐちにたどりつけるのか、途方にくれていると言った。
     先生はおおきな目でじっとわたしをみつめたまま、うなずいておられたが、しばらく待つようにいわれた。次に出て来られた時、五、六十センチばかりの厚さの、あれは患者のカルテなども含んでいたのだろうか、生の資料を胸いっぱいに抱えて、丁寧にわたしの前に置かれたのである。
     思いもかけないことで、一冊の本すらまともに読み通したことのないわたしは、ただ仰天し息がつまった。目の前のうず高い資料の山が、ど素人も並外れているわたしに、読みとれるのだろうか。正直に、わたしはそのことを申しあげた。先生は微笑された。
    「誰だって、はじめはそうですから、小さなことから、だんだんはじめればよいのです。僕にわかることでしたら、何でも協力いたします。
     これは大切なことですけれども、僕なりに、若い先生方と協力しましてね、病状の原因をですね、できるだけはっきりさせようと思いまして、研究しておりましたんです。責任がございますからね。ネコをたくさん飼いましてね、この病院で。熊大の研究と平行の形でしたが、結果ははっきり出ましたんです。僕らの方でも、廃水がね、原因ということですね」
     わたしはハレーションをおこしているような心理の状態で、それを聞いていた。やがては四国へ帰られるご予定であること。そこはいわゆる無医村状態のところで、農夫病といわれる症状を持つ人びとが多いこと、将来はそういう人びとの症状とおつきあいすることになるでしょう、などと話された。
     思えばこの時先生は、初対面の人間に、ご自分の決意を、なにげなさそうな静かな口調で語られたのだった。

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  4. shinichi Post author

    そのとき 細川一はどう動いたのか

    http://www.minamata195651.jp/pdf/kikaku_pdf/hosokawa_syushi.pdf

    「美しく生きたいな」

    死を覚悟した病いの床の中で、細川一元チッソ附属病院院長が語った言葉である。

    1954年(昭和29年)5月27日、とある患者がチッソ附属病院を訪れた。

    それから続々と発生する、原因丌明の病気と細川一の出合いである。

    附属病院の医者たちは異常事態を察知し、診療が終わってから患者宅を回った。

    そして1956年(昭和31年)5月1日、水俣保健所に届け出た。水俣病公式確認の日である。

    細川一は、チッソ附属病院院長として世界に類例のない水俣病を猫400号実験で水俣病の原因がチッソの排水であることをつきとめた。その喜びとは裏腹に大変なことを発見してしまったと語っている。そこには複雑な心の揺れがうかがわれる。「水俣病を研究していたときが、一番孤独であった」と晩年、その心境を語っている。

    1960年8月27日、事実上禁止されていたアセトアルデヒド排水直接投不猫実験(いわゆるHI実験)を再開、翌1961年全9例の猫の発症に成功させた。しかし公開されなかった。1962年4月30日退職し、1965年7月14日新潟現地調査、鹿瀬工場が新潟水俣病の汚染源と判断した。

    細川一は病床の中から証言している。1970年7月4日のことである。東京のガン研附属病院で行われた熊本水俣病裁判出張尋問で、猫400号実験を中心にチッソ社内研究について証言し、当時のメモを提出した。

    「あれは完璧だった」と家族にうれしそうに語ったと聞く。それまでの心残りが溶けたのであろう。三ヶ月後、10月13日に69歳の生涯を閉じた。

    三年後の1973年、患者勝訴の判決が下された。

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