東京新聞 戦後70年経済史取材班

だが、日本ではすでに「危機」が独り歩きしていた。
人々は灯油やガソリンを買いだめし、関係ないトイレットペーパーや砂糖まで姿を消した。 。。。 「灯油を売ってもらえない。寝たきりの老人がいるのに…」。悲愴な声が訴える。
「まるで源平合戦の平家だ」。輸出が削減されないうちから、大混乱する日本の状況を石川は新聞記者の取材にこう例えた。平家の軍勢は飛び立った水鳥の羽音に驚き、源氏の姿を見ないのに敗走した。「これでは負けいくさだ」

全てを終えた時、石川は夕方の砂漠に一人出掛け自問自答した。「なぜ自分の情報が生かされなかったのか・・・」苦労して得た情報は砂に水がしみ込むように官僚機構に消えていった。
あれから四十二年。石川は、危機の時代を共に過ごした商社マンに教えられた言葉をいまも苦い教訓として銘記する。

「少数の人が話すホントの話はウソにされる。逆に多くの人が言うウソの話はホントになってしまうんだ」

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  1. shinichi Post author

    <甦る経済秘史>(3)石油ショック 現地情報狂乱に消える

    東京新聞 戦後70年経済史取材班

    http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/list/201512/CK2015120202000140.html

     高度経済成長で伸びてきた日本経済がマイナス成長に転じるきっかけとなった一九七三年の第一次石油ショック。アラブ諸国が、イスラエルとの戦争に絡んで、米国や日本などへの石油供給制限を発表したことが原因だ。
     だが、石油ショックに見舞われた七三年十~十二月の原油輸入量は減っておらず、逆に増えていた。なぜ、輸入は増えているのに、日本中が急激なインフレと物不足で大混乱したのか。
     当時、「供給削減」の第一報を日本に打電した元クウェート大使で今年九十八歳になる石川良孝氏は本紙のインタビュー取材に応じ、当時、産油国の中枢だったアラブ首長国連邦(UAE)のオタイバ石油相から「日本への削減は考えていない」との情報を取得。外務省に伝えていたことなど、情報収集の詳細を明らかにした。
     しかし、情報は生かされなかった。
     「石油がなくなる」とのパニック心理が日本中にまん延する中で、冷静な情報分析はなおざりにされ、買い占めや売り惜しみによる「狂乱物価」が経済への打撃を増幅させた事情が浮かび上がる。()

    **
      
     濃いサングラスをかけ、裏口からホテルに入り、ひそかにエレベーターに乗った。
     一九七三年十一月四日、クウェートのシェラトンホテル。同国大使で当時五十六歳の石川良孝(98)は、懇意だったアラブ首長国連邦(UAE)石油相のオタイバと向き合い、緊張して切り出した。「日本への石油はどうなるんでしょう」。答えは明快だった。「日本はベストフレンドだ。供給に心配はいらないよ」。アラブ石油輸出国機構(OAPEC)キーマンの発言にほっとした。
     その前月、石川はアラブ諸国の発表を受け日本に向け歴史的な公電を打っていた。「産油国が原油公示価格を七割引き上げる」。石油ショックの第一報だった。

    ◆分析待たず混乱
     <石油供給を全体で25%削減する> アラブ側の発表がエスカレートする中、石川は情報を必死で集め、冷静に分析した。アラブは石油以外に収入がなく減産は自分たちの首を絞めるだけだ。25%削減といってもイスラエルを軍事支援する米国、オランダへの全面禁輸が含まれ、日本向けはさほど減らない計算。「ベストフレンド」の発言と併せ、石川は外務省の本省に報告した。「日本は標的になっていない。石油不足は深刻になりません」
     だが、日本ではすでに「危機」が独り歩きしていた。
     人々は灯油やガソリンを買いだめし、関係ないトイレットペーパーや砂糖まで姿を消した。通商産業省(現・経済産業省)に泊まり込みで対応した坂本吉弘(77)=元同省審議官=は、始業と同時に一斉に鳴る電話で起こされたことを記憶する。「灯油を売ってもらえない。寝たきりの老人がいるのに…」。悲愴(ひそう)な声が訴える。
     「まるで源平合戦の平家だ」。輸出が削減されないうちから、大混乱する日本の状況を石川は新聞記者の取材にこう例えた。平家の軍勢は飛び立った水鳥の羽音に驚き、源氏の姿を見ないのに敗走した。「これでは負けいくさだ」

    ◆苦い教訓
     田中角栄内閣は十一月二十二日、外交をアラブ寄りに転換したことを発表する。それでも中東全域の大使が集まる危機対策会議では石川以外の大使からは悲観論が漏れた。「来年三月末には日本に一滴の原油も入らなくなるぞ」
     石川はUAEに飛び、再びオタイバに会う。「わが国はアラブ首脳会議で『日本は友好国だ』と主張した。誰も反対しなかった」
     まもなくオタイバの情報通り日本の友好国入りが発表され、危機は峠を越えた。
     混乱の代償は大きかった。狂乱物価や売り惜しみによる物不足で消費や生産も滞り成長率は七四年、マイナスに転落した。だが、政府統計によると七三年の十~十二月、原油輸入は前年同期比11%増。輸入は逆に増えていた。
     当時、全ての物価が平均二割上昇したが、日銀の分析では原油による分は半分だけ。「狂乱物価は便乗値上げや買い占めが引き起こした『国内製インフレ』の性格が強かった」と日本銀行百年史は書く。
     全てを終えた時、石川は夕方の砂漠に一人出掛け自問自答した。「なぜ自分の情報が生かされなかったのか…」。苦労して得た情報は砂に水がしみ込むように官僚機構に消えていった。
     あれから四十二年。石川は、危機の時代を共に過ごした商社マンに教えられた言葉をいまも苦い教訓として銘記する。
     「少数の人が話すホントの話はウソにされる。逆に多くの人が言うウソの話はホントになってしまうんだ」 

    <第1次石油ショック> 1973年、第4次中東戦争でエジプトとシリアがイスラエルを攻撃。イスラエルの反攻を受け、アラブ諸国が西側向け石油供給制限に踏み切った。石油の公示価格は危機前に比べ最高4倍に引き上げられ、日本では買い占めが加速。省エネ策としてテレビの深夜放送休止やネオンの消灯も行われた。親アラブ外交への転換などで収束。79年にはイラン革命に伴うイランの減産で第2次石油ショックが発生するが、第1次より混乱は少なかった。

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