相馬御風

焚くほどは風がくれたる落ち葉かな  一茶 文化12(1815)年
焚くほどは風がもてくる落ち葉かな   良寛 文政 2(1819)年

一體この「焚くほどは…」の句は、もともと一茶の作であって、しかもあの當時ひろく人口に膾炙してゐたのを良寛が心にとめてゐて、方々でそれを話の種にでもしたのであらうか、・・・「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」と全然同一句としてみることは出來ない。「くれたる」が良寛によって幾度となく口ずさまれているうちに、いつしか「もてくる」と變わってしまったのだとして考へると、その轉化にはかなり深い意味がある。ちょっと考えると大した相違はないやうであるが、深く味ってみると僅にその一つの言葉の相違によって二つの句全體がそれぞれ全く獨立して存在し得るほどの結果を示してゐるとさへ考え得る。「くれたる」にはなほ自己を主にした自然へのはからひがある。彼の眼に映じた自然はなほ相對的である。しかし「もて来る」には自然が擴充してゐる。主我的なはからひがない。自然は自然である。その恩惠にあづかるのはこちらからである。それに感謝するのもこちらの心からである。そんな風に見て來ると、やはり、一茶は一茶、良寛だとうなづかれる。

2 thoughts on “相馬御風

  1. shinichi Post author

    レファレンス協同データベース

    レファレンス事例詳細

    国立国会図書館

    http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000025510

    提供館: 県立長野図書館

    管理番号: 県立長野-04-010

    質問

    良寛の「焚くほどは風がもてくる落ち葉かな」という句はどのような背景で作られたのか。なお一茶の句に「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」というよく似たものがあるが、この2つの句に関係はあるのか

    回答

    良寛の句については『良寛さま』(高橋治著・刊 1999)〔911/た〕117pに“良寛六十二歳の七月、
    長岡藩主牧野公が乙子草庵を訪れた。長岡に寺を作るから、是非長岡に来て欲しいという申し出であった。
    良寛は 
    焚くほどは風がもてくる落葉かな   五合庵に句碑 
    の句を差出してお断りしたという”とある。

     一茶の句との関係は、『一茶と良寛と芭蕉』(相馬御風著 名著刊行会1980)〔911/そ〕10~11pに“一體この「焚くほどは…」の句は、もともと一茶の作であって、しかもあの當時ひろく人口に膾炙してゐたのを良寛が心にとめてゐて、方々でそれを話の種にでもしたのであらうか、(中略)「焚くほどは風がくれたる落ち葉かな」と全然同一句としてみることは出來ない。「くれたる」が良寛によって幾度となく口ずさまれているうちに、いつしか「もてくる」と變わってしまったのだとして考へると、その轉化にはかなり深い意味がある。ちょっと考えると大した相違はないやうであるが、深く味ってみると僅にその一つの言葉の相違によって二つの句全體がそれぞれ全く獨立して存在し得るほどの結果を示してゐるとさへ考え得る。「くれたる」にはなほ自己を主にした自然へのはからひがある。彼の眼に映じた自然はなほ相對的である。しかし「もて来る」には自然が擴充してゐる。主我的なはからひがない。自然は自然である。その恩惠にあづかるのはこちらからである。それに感謝するのもこちらの心からである。そんな風に見て來ると、やはり、一茶は一茶、良寛だとうなづかれる”とある。

     なお、良寛の句は『良寛さま』(前掲)や『良寛』(安藤英男著 りくえつ1978)〔188/532〕216~218pの記述によると、文政2(1819)年に作られたとあるが、一茶の句は『一茶全集 第3巻』(信濃教育会 信濃毎日新聞社1976)〔N931/352/1〕391pに所収の『七番日記』の文化12(1815)年10月にみえる。

    回答プロセス

    ① 自館システムで「良寛」をキーワードに検索し、関係資料をみていく。『良寛さま』(前掲)には答の記述があり、『良寛』(前掲)にも同様の記述がある。しかし、『良寛さま』(五十公野清一著 日本書房1955)〔28.9/り〕64pには、“これは、自分で作った句ではありませんが、良寛さまが、いつも、すきで、口ずさんでいた句でした”とある。また『良寛全集』(大島花束編 新元社1958) 〔918/29〕453pにはこの句の注として“一茶の『七番日記』文化十二年十月の条に「焚くほどは風がくれたる落葉かな」文化十五年十月の同書には「いる程は手でかいて来る木の葉かな」とあり”とある。

    ② 一茶の『七番日記』の記述を確認するために、『七番日記』の収録されている『一茶全集 第3巻』(前掲)を、巻末の索引から初句でひくと、答の年月の部分に収録されている。

    ③ 郷土資料[N913 俳諧]の書架で一茶の関係資料もみていく。『一茶大事典』(矢羽勝幸著 大修館書店1993)〔N913/689〕の巻末に人名索引があり、「良寛」でひくと、生涯を編年で追った章140p、文政3年9月27日の記述に“越後出雲崎の左右が来訪。〔随斎筆記〕良寛と一茶の直接交渉はないが一茶の名声は出雲崎にも達しており、両者ともその名前ぐらいは知っていたであろう”とある。また、『一茶事典』(松尾靖秋ほか編 おうふう1995)〔N913/771〕も同様に人名索引からひくことができ、344pには“一茶には、良寛の父・以南の自殺を書きとめた一文がある。以南の死後十年もたって、なにを思ってか書きとめたものだが、(中略)「越後の俳諧法師以南といふもの」という書き方で、良寛の名は一切出てこない”とある。また良寛、一茶の研究者であった相馬御風の『一茶と良寛と芭蕉』(前掲)を引用し、良寛と一茶の関係について推測している。

    ④ 自館システムで『一茶と良寛と芭蕉』(前掲)を検索し、答の記述に至る。

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