Abraham Flexner

Is it not a curious fact that in a world steeped in irrational hatreds which threaten civilization itself, men and women-old and young-detach themselves wholly or partly from the angry current of daily life to devote themselves to the cultivation of beauty, to the extension of knowledge, to the cure of disease, to the amelioration of suffering, just as though fanatics were not simultaneously engaged in spreading pain, ugliness, and suffering? The world has always been a sorry and confused sort of place-yet poets and artists and scientists have ignored the factors that would, if attended to, paralyze them. From a practical point of view, intellectual and spiritual life is, on the surface, a useless form of activity, in which men indulge because they procure for themselves greater satisfactions than are otherwise obtainable. In this paper I shall concern myself with the question of the extent to which the pursuit ofthese uselesssatisfactions proves unexpectedly the source from which undreamed-of utility is derived.

2 thoughts on “Abraham Flexner

  1. shinichi Post author

    The Usefulness of Useless Knowledge

    by Abraham Flexner

    (1939)

    https://library.ias.edu/files/UsefulnessHarpers.pdf

    Is it not a curious fact that in a world steeped in irrational hatreds which threaten civilization itself, men and women-old and young-detach themselves wholly or partly from the angry current of daily life to devote themselves to the cultivation of beauty, to the extension of knowledge, to the cure of disease, to the amelioration of suffering, just as though fanatics were not simultaneously engaged in spreading pain, ugliness, and suffering? The world has always been a sorry and confused sort of place-yet poets and artists and scientists have ignored the factors that would, if attended to, paralyze them. From a practical point of view, intellectual and spiritual life is, on the surface, a useless form of activity, in which men indulge because they procure for themselves greater satisfactions than are otherwise obtainable. In this paper I shall concern myself with the question of the extent to which the pursuit ofthese uselesssatisfactions proves unexpectedly the source from which undreamed-of utility is derived.

    We hear it said with tiresome iteration that ours is a materialistic age, the main concern of which should be the wider distribution of material goods and worldly opportunities. The justified outcry of those who through no fault of their own are deprived of opportunity and a fair share of worldly goods therefore diverts an increasing number of students from the studies which their fathers pursued to the equally important and no less urgent study of social, economic, and governmental problems. I have no quarrel with this tendency. The world in which we live is the only world about which our senses can testify. Unless it is made a better world, a fairer world, millions will continue to go to their graves silent, saddened, and embittered. I have myself spent many years pleading that our schools should become more acutely aware of the world in which their pupils and students are destined to pass their lives. Now I sometimes wonder whether that current has not become too strong and whether there would be sufficient opportunity for a full life if the world were emptied of some of the useless things that give it spiritual significance; in other words, whether our conception of what .is useful may not have become too narrow to be adequate to the roaming and capricious possibilities of the human spirit.

    We may look at this question from two points of view: the scientific and the humanistic or spiritual. Let us take the scientific first. I recall a conversation which I had some years ago with Mr. George Eastman on the subject of use. Mr. Eastman, a wise and gentle farseeing man, gifted with taste in music and art, had been saying to me that he meant to devote his vast fortune to the promotion of education in useful subjects. I ventured to ask him whom he regarded as the most useful worker in science in the world. He replied instantaneously: “Marconi.” I surprised him by sayin~, “Whatever pleasure we derive from the radio or however wireless and the radio may have added to human life, Marconi’s share was practically negligible. “

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  2. shinichi Post author

    役立たずな知識の有益性

    by エイブラハム・フレクスナー

    translated by 山形浩生

    http://cruel.org/other/useless/useless.pdf

    有用性がしばしば問題にされるが、現在有用性を発揮している多くの技術などは、すべてかつてまったく有用性など考えず、好奇心だけにしたがって研究を行い、役立たずの知識をため込んだ結果としてたまたま生じたものでしかない。有用性を目指していたら、そうした有用な発見はまったく起こらなかっただろう。人の魂を有用性のくびきから解放し、役立たずな研究に没頭させるのは、無駄なようで無駄ではない。それを行う場として、プリンストンに高等研究所が設立され、研究者は好き勝手に好奇心を追求する以外何も要求されない場となっている。これはナチスの迫害を逃れた人々を含め、人種や宗教などまったく関係ない場で、形式は何もなく、建物すらない。それはいずれ大きな成果をあげるだろうが、でも研究所はその成果のために存在するのではないのだ。

    2  役立たずな知識の有用性

    十九世紀末に、ヘルムホルツの実験室の片隅で、静かにだれにも気がつかれずに研究を続けたハインリッヒ・ヘルツについて言えることは、過去数世紀にわたる世界の科学者や数学者にもあてはまる。我々は、電気がなくては無力となるような世界に住んでいる。もっとも即座で影響力の大きい実用性を持つ発見を挙げろと言われれば、みんなそれが電気だということで合意するかもしれない。だがここ百年にわたる電気の発達すべての源となった、根本的な発見をしたのはだれだろうか?

    答はおもしろいものだ。マイケル・ファラデーの父親は鍛冶屋だった。マイケル自身は製本職人見習いだった。1812 年に、すでに 21 歳になっていたファラデーを、友人が王立協会につれていって、そこでハンフリー・デイヴィー卿が化学に関する四回講演を行うのを聞いた。彼は講義のメモを取り、それを一部デイヴィーに送った。そのすぐ翌年の 1813 年に、彼はデイヴィーの研究室の助手となり、化学問題の作業を始めた。その二年後には、デイヴィーのつきそいでヨーロッパ大陸に渡った。1825 年、三四歳になったファラデーは、王立協会の実験所長となり、その地位で 54 年を過ごした。

    ファラデーの関心は間もなく、化学から電磁気に移り、その後一生をこの問題に費やした。この分野での重要ながら奇妙な研究は、それまでエルステッド、アンペール、ウォラストンなどが実施してきた。ファラデーは彼らが残した困難を一掃し、1841 年までには、電磁誘導に成功した。四年後、ファラデーは偏光に対する磁気の作用の発見という、同じくすばらしい画期的な第二の業績を挙げた。前の発見は、無数の実用的な応用を生み出し、おかげで電気は現代生活の負担を軽減して機会を増やした。彼の二つ目の発見は、これまでは実用的な結果にそれほど活用されていない。ファラデーはそれを気にしただろうか? いやちっとも。その傑出したキャリアのいかなる時点でも、ファラデーは有用性などまったく気にしなかった。彼は宇宙の謎をときほぐすのに没頭していた。まずは化学のなぞ、そして後には物理学の謎だ。ファラデーに関する限り、有益性の話はまったく挙がってこなかった。効用に関する疑念が少しでも湧いたら、それはたぶん彼の落ち着かない好奇心を制約してしまっただろう。最終的には有益な結果が出たが、でもそれはファラデーのたゆみなき実験を左右する基準には決してならなかった。

    今日の世界を覆う雰囲気の中では、戦争をもっと破壊的でもっと悲惨なものにするにあたり科学が果たした役割は、科学活動の意図せぬ無意識の副産物だったということをここで強調しておこう。イギリス科学促進協会会長のレイリー卿は、最近の演説で現代戦争に使われる道具の破壊的な用途は、人間の愚行の責任であって、科学者の意図の責任ではないことを詳細に述べている。炭素化合物に関する化学の無邪気な研究は、無数の有益な結果につながり、硝酸をベンゼン、グリセリン、セルロースなどの物質に作用させるとアニリン染料
    という有益なものが生まれるだけでなく、善悪双方に使えるニトログリセリンの創造にも使えることを示した。しばらく後にアルフレッド・ノーベルが同じ問題に目を向け、ニトログリセリンを他の物質と混ぜることで、安全に取り扱える固体爆発物が作れることを示した――その実例がダイナマイトなどだ。鉱山や、アルプスなどの山地をいまや貫通する鉄道トンネルの建設などはダイナマイトのおかげだ。だがもちろん、ダイナマイトは政治家や兵士に濫用された。だが科学者たちは、地震や洪水を責めても仕方ないのと同様に、責めても仕方ない。同じことが毒ガスについても言える。プリニウスは二千年近く前に、ヴェスヴィウス山噴火に伴う二酸化硫黄を吸い込んで死んだ。科学者たちが塩素を分離したのは、別に戦争のような目的のためではなく、毒ガスのイペリットについても同様だ。こうした物質は有用な用途だけに使うこともできるが、飛行機が完成すると、心が毒されていて脳がいかれた人々は、無邪気な発明である飛行機(これまた長い利益なしの科学研究の成果だ)はこれを破壊の道具にできることに気がついた。そんなことをだれも思い描いたことはなかったし、それを意図的に目指した人もだれもいないのだ。

    高等数学の分野ではほとんど無数の例が挙げられる。たとえば、十八世紀と十九世紀の最も深遠な数学研究は「非ユークリッド幾何学」だった。それを発明したガウスは、同時代人に傑出した数学者として認知されてはいたが、四半世紀にわたり「非ユークリッド幾何学」に関する業績を決して発表しようとはしなかった。実はいまや無数の現実的な意義を持つ相対性理論そのものが、ゲッチンゲンにおけるガウスの研究なしにはまったく不可能だったろう。また、いまや「群論」として知られるものも、抽象的で応用分野のない数学理論でしかなかった。それは好奇心に満ちた人々が発展させ、その好奇心と探求が彼らを変わった方向へと導いた。だが今日、「群論」は分光学の量子論の基盤となっており、いまやその出自など考えたこともない人々によって日常的に使われている。

    確率解析すべては、ギャンブルを合理化しようというのが本当の狙いだった数学者たちによって発見されたものだ。それは彼らのねらっていた実用的な目的では失敗したが、各種保険についての科学的基盤を提供し、十九世紀物理学の相当部分はこの理論に基づいている。

    最近の『サイエンス』誌から以下の一節を引用しよう。

    アルバート・アインシュタイン教授の天才としての地位がさらにたかまったのは、この碩学の数理物理学者が十五年前に発達させた数学が、いまや温度の絶対零度近くにおけるヘリウムの驚くべき流動性の謎を解くのに役立っていることが明らかになったためだ。アメリカ化学学会の分子間活動におけるシンポジウムで、パリ大学 F・ロンドン教授(現在、デューク大学客員教授)は 1924 年と 1925 年に発表された論文における「理想」気体の概念がアインシュタイン教授のものだと述べた。

    1925 年のアインシュタイン報告は相対性理論に関する物ではなく、当時はまったく実務的重要性がないと思われた問題を扱ったものだった。それは温度の下限近くにおける「理想」気体の縮退を表したものだった。そうした温度では、あらゆる気体は液体に凝縮されることが知られていただめ、科学者たちは 15 年前にはアインシュタインの研究をほとんど見過ごしていた。だが最近になって液体ヘリウムの動きが発見されたことで、これまで傍流だったアインシュタインの概念が新たに有用性を獲得した。ほとんどの液体は、冷たくなれば粘性が高まり、つまりどろりとして流れにくくなる。英語では「一月の糖蜜よりも冷たい」という表現があるが、これは素人なりに粘性をとらえたものだし、理解としてまったく正しい。だが液体ヘリウムは、頭の痛い例外だ。「デルタポイント」として知られる温度、絶対零度のわずか 2.19 度上の温度になると、液体ヘリウムは高温時よりも容易に流れるようになり、それどころか液体ヘリウムは気体と同じような雲状になる。液体ヘリウムの奇妙なふるまいの謎としては、他にそれがすさまじい熱伝導体だというものがある。デルタポイントでは、室温の銅の五百倍も熱
    伝導性が高くなる。液体ヘリウムは、こうした異常性のため、物理学者や化学者たちにとって大きな謎となっていた。

    ロンドン教授は、液体ヘリウムのふるまいの解釈はそれをボーズ・アインシュタイン「理想」気体として扱うことで最もうまく説明がつく、と述べた。つまり 1924 年から 25 年にかけて研究された数学を使い、さらに金属の伝導性に関する概念をいくつか応用するのだ。簡単なアナロジーで言えば、液体ヘリウムの驚くべき流体性は、導電性を説明するときに使われる、金属の中でさまよう電子と似たようなものを思い描くことで部分的に説明できる、というのだ。

    別の方向を見てみよう。医学と公衆衛生においては、微生物学という科学は先端的な役割を果たした。これはどういう話だろうか?  1870 年のフランス=プロイセン戦争に続き、ドイツ政府はすばらしいストラスブール大学を創設した。その初代解剖学教授はヴィルヘルム・フォン=ヴァルダイヤーで、後にベルリン大学で解剖学教授となった。その回顧録で、ストラスブール大での最初の学期に自分の下についた学生たちの中に、小柄で目立たない引っ込み思案の 17 才の、パウル・エールリヒという名の若者がいたと述べている。当時、解剖学の通常の講義は、解剖と組織の顕微鏡観察だった。エールリヒは解剖実習にほとんどまるで興味を示さなかった。だがヴァルダイヤーが回顧録に書いたところでは:

    かなり早い時期に、エールリヒが長いこと机に向かい、顕微鏡での観察に完全に没頭しているのに気がついた。さらにその机はだんだん、ありとあらゆる色の斑点で覆われ始めた。ある日作業中の彼をみつけて近づき、テーブルの上に虹のような色を散らして何をやっているのだと尋ねた。すると、解剖学の通常の講義を受けているはずの第一学期学生は顔をあげて、平然とこう答えた。「Ich probiere」。これをざっと訳すと「努力してるんです」「単にふざけまわってるだけです」となる。そこで私は答えた。「なるほど。ではそのままふざけ続けたまえ」。やがて私は、こちらから何ら教育や指導をしなくても、エールリヒが非凡な生徒であることを理解したのだった。

    ヴァルダイヤーは賢明にも彼を放っておいた。エールリヒはギリギリのとろこで医学部のカリキュラムをこなし、最終的には学位を得たが、それは教師たちから見て、彼がその医学学位を臨床に使う気がまったくないのは明らかだったというのが主な理由だ。その後彼はブレスラウに向かい、コーンハイム教授の下で研究した。この教師はジョンズ・ホプキンス医学校創設者兼創立者ウェルチ医師の恩師でもある。エールリヒの脳裏を用途という発想がよぎったことは一度もないと思う。かれは興味を抱いた。ふざけ続けた。もちろんそのおふざけは深い直観に導かれたものだったが、純粋に科学的であり、効用に動機づけられたものではない。結果は? コッホとその同僚は新しい科学を確立した。それが細菌学だ。エールリヒの実験はいまや、同期の学生であるヴェイゲルトが細菌の染色に応用し、それらを区別する手助けとなっていた。エールリヒ自身は血液フィルムを染料で染色する方法を開発し、これは赤血球と白血球という血液成分の形態学に関する現代の知識の元になっている。世界中の何千という病院で、毎日のようにエールリヒの技術が血液検査に使われている。したがってヴァルダイヤーのストラスブール大学における解剖室は、医学の日常的臨床において主要な要因となったわけだ。

    工業界からも一つ例を挙げよう。適当に選んだ例でしかない。というのも、こうした例は無数にあるからだ。カーネギー工業大学 (ピッツバーグ)ベール教授はこう書く:

    現代レーヨン産業の創始者はフランス人シャルドネ伯爵だ。彼はニトロ綿をエチルアルコールに溶かし、このねばねばした溶液を細管から水に通してニトロセルロースの糸を凝集させた。凝集後、この糸は空気に入り、ボビンに巻かれる。ある日シャルドネはベサニョン工場を視察した。たまたま、ニトロ
    セルロースを凝集させるはずの水が事故で止まっていた。だが工員たちは、紡績が水なしのほうがずっとうまくいくことに気がついた。これはきわめて重要な乾燥紡績というとても重要なプロセスが誕生した日であり、これはいまや大規模に使われているのだ。

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