内山節

考えてみれば、人間の幸せや充実感といったものは、すべて数字では表せないものだ。数字は相対的なものだが、幸せや充実感は、それぞれの人々にとって絶対的なものだからである。だから高尚なものはすべて数字では表せない。美は数字ではないし、音楽や文学からえた感動も数字ではない。
とすると成熟した社会とは、数字を追いかける社会から、数字では表せないものを大事にする社会への転換によって、生まれるのではないだろうか。幸せ感や生の充実感の高い社会が、成熟した社会のはずだからである。
こんな視点からみていくと、今の政治の主張は情けない。数字ばかりなのである。GDP600兆円とか、2%のインフレとか、1億総活躍とか。それが幸せな社会をつくるのかも、幸せな社会とは何もかも考察されることなく、数字だけが花火のように打ち上げられていく。

2 thoughts on “内山節

  1. shinichi Post author

    数字で表せない幸せ感

    by 内山節

    時代を読む

    東京新聞

    2016年1月17日

    数字は具体的な一面と抽象的な性格とを併せ持っている。

    たとえば「ご家族は何人ですか」と聞かれた時に答える数字は具体的な数字だ。ところが日本の人口についての数字は抽象的である。何人いるのが好ましいのか誰にもわからない。スウェーデンやフィンランドのように広い自然を享受しながら暮らすのが理想なら、人口はもっともっと少なくてもいいような気がするし、増えていかないと市場が拡大しないと焦る人達もいるだろう。この場合でも何人まで増えたり減ったりするのが理想なのかは、よくわからない。

    お金もそうで、日々の生活の中で使われるのは、具体的な数字だ。ところが「いくらあったら人間は幸せになれるのか」などと聞かれたら、たちまち数字は具体性を失う。

    私の新年は、毎年群馬県の上野村で迎えられる。山から朝日がさして正月がはじまり、年末についた餅が食卓に上がる。庭に冬の鳥たちが姿をみせ、葉を落とした山の木々が私の暮らす里を包んでいる。昼過ぎには私も近所に新年の挨拶にでかけ、逆に村人が訪ねてきたりする。自然も人間も、さらに昔からこの村に祀られている神々も、ともに新年を迎える。

    毎年繰り返される何ということもない時間なのに、共に新年を迎えることができたという安堵感があり、今年の村の無事を祈る気持ちが村の中には広がっている。

    そこにあるのは数字ではとらえられない世界だ。その代わり、どんな結び合いの中に村の暮らしがあるのかは、はっきりと見えている。自然との結びつき、村人や村の伝統文化との結びつき。そういうなかに、自分たちの暮らす世界のあることが。

    考えてみれば、人間の幸せや充実感といったものは、すべて数字では表せないものだ。数字は相対的なものだが、幸せや充実感は、それぞれの人々にとって絶対的なものだからである。だから高尚なものはすべて数字では表せない。美は数字ではないし、音楽や文学からえた感動も数字ではない。

    とすると成熟した社会とは、数字を追いかける社会から、数字では表せないものを大事にする社会への転換によって、生まれるのではないだろうか。幸せ感や生の充実感の高い社会が、成熟した社会のはずだからである。

    こんな視点からみていくと、今の政治の主張は情けない。数字ばかりなのである。GDP600兆円とか、2%のインフレとか、1億総活躍とか。それが幸せな社会をつくるのかも、幸せな社会とは何もかも考察されることなく、数字だけが花火のように打ち上げられていく。

    今年は、数字では表せないものを大事にする社会をつくりたいものだ。どんな結び合いが幸せをつくっていくのか。自然が支えてくれていると感じるような社会は、どうやったらつくれるのか。どんな働き方ができたら、充実感を手に入れることができるのか。

    それは広い意味でのコミュニティーの課題である。家族というコミュニティー、友人や仲間たちというコミュニティー、働く仲間のコミュニティー、自然を含めた地域のコミュニティー、そういうものが人々に幸せをもたらすとするなら、結び合いやコミュニティーを大事にする社会を、私たちは作っていかなければならないのだろう。

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    時代を読む

    東京新聞

    2014年3月

    私はそれは、社会の劣化だと思う。長い時間幅で思考することができなくなって、いまの都合だけを、あるいはいまの愉悦だけを求める思考が、この社会を劣化させている。この劣化した社会のもとでは、人間はどんな風に生きたら良いのかとか、自然と人間はどんな関係にあったらよいのか、平和とは何か、というようなことを深く考えることが人間たちには苦手になってしまう。

    ここから過剰なほどの自己肯定、現状肯定を望み、自分にとって不都合なことは無視する傾向も生まれてくる。困った事にこの傾向が、一部の経営者や政治家にまで広がっていることだ。

    不都合な事は無視し、自己肯定という愉悦だけを求める。深刻にとらえなければいけないのは、現在はびこっているこの様な傾向である。ここから不都合な過去や未来を無視するという態度も生まれてくる。

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  2. shinichi Post author

    内山節数字で表せない幸せ感

    by 挾土秀平

    http://blog.syuhei.jp/?eid=238063#sequel

    1月の、この新聞記事がとても腑に落ちて、ずっとカバンの中に持っていた。

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    我々左官の本質も、
    数字では表せないところに魅力がある

    大いに充実しているものは
    空っぽのように見えると言うが、

    こうした
    この数字では表せないはずの自分達の魅力を

    数字にかえて
    数値の世界の土俵に立って伝えようとするほど
    勘違いしている行為はない。

    数値で健康を表したり
    数値で耐久性を表したりする中にあって

    我々の仕事は数字で
    とらえられない場所で生きているのであり
    言葉にも置きかえられない幸せ感であることをことを
    まず自分に強く知っておかなければならない。


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