ゴキブリの仲間は世界から約3700種も記録され、日本にも50種以上が分布しています。しかし、そのほとんどは人間の生活とは関係なく、 腐食などを食べて細ぼそと暮らしている野の虫で、家の中の“おじゃま虫”になっているのはほんの一握りの種類だけです。日本で知られている屋内性の種類はせいぜい10種たらずです。
ゴキブリは原始的な昆虫で、その化石が3億年以上も前の石炭紀後期の地層からいくつも発見されています。彼らから見れば人間とのつき合いは“ついきのう”始まったばかりです。が、その間、一部の種類は野外から人間の家屋に進出することに成功しました。もちろん、野外とはあまりにも違う屋内に適応できた種類はわずかしかいません。しかし、この壁を乗り越え、“ただの虫”から“害虫”へと変身を遂げた瞬間から彼らには今日の繁栄が約束されていました。
屋内性のゴキブリのなかには、もうすっかり人間との同居生活に適応し、本来の原産地がどこなのか定かではない種類までいます。 彼らが「人造害虫」と呼ばれているゆえんです。
以前、ある生物学の大家がゴキブリのあまりの横行に、「人類のあと地球を継承するのはゴキブリであろう」との新説を唱えたことがあります。 しかし、決してそうはならないでしょう。試しに、冬のさなかに数日間暖房を切って窓を開けておけばゴキブリは全滅します。それが彼らの本来の姿です。屋内性のゴキブリはまさしく人類とは“運命共同体”です。生活を依存している人間の文明が失われたら彼らの生活も終わり、再びもとの自然界に戻ることすら難しいことになるでしょう。 その前に、人類が次の時代をほかの動物にゆだねるような、そんなりっぱな滅亡の仕方ができるかどうかの方が問題かもしれません。
ゴキブリ列伝
by 梅谷献二
公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会
https://www.jataff.jp/konchu/gokiburi/index.html
嫌いな虫のアンケートをすると、その第1位には決まってゴキブリが入ります。開発がわれわれの身近な場所からなじみの虫の姿を消し、 見慣れた虫はゴキブリだけとなっている現在では、これも無理ないことかもしれません。
しかし、これほど嫌われているゴキブリと人間とのかかわりについて理解している人はほとんどいません。
この章ではゴキブリたちになり代わってその“生活と意見”を紹介します。どうか嫌がらないで目を通して下さい。
野外から屋内への道
ゴキブリはゴキブリ目に属する昆虫の総称で、シロアリの仲間とは親戚筋に当たります。
ゴキブリの仲間は世界から約3700種も記録され、日本にも50種以上が分布しています。しかし、そのほとんどは人間の生活とは関係なく、 腐食などを食べて細ぼそと暮らしている野の虫で、家の中の“おじゃま虫”になっているのはほんの一握りの種類だけです。
日本でも知られている屋内性の種類はせいぜい10種たらずで、しかもそのうち、在来の種類は後述のヤマトゴキブリだけです。 他はみんな比較的近年に外国からやって来た侵入種です。
だから、これほどなじみの虫なのに、ゴキブリに由来することわざは「ゴキブリ亭主」のように近代のものしかありません。
ゴキブリは原始的な昆虫で、現在と姿形が余り変わらないその化石が3億年以上も前の石炭紀後期の地層からいくつも発見されています。
彼らから見れば人間とのつき合いは“ついきのう”始まったばかりです。が、その間、一部の種類は野外から人間の家屋に進出することに成功しました。
さらに、大航海時代に始まる交通機関の発達と、暖房設備の急速な完備は、彼らの世界への進出と、本来は生活できない寒冷地への定着を可能にしました。
もちろん、野外とはあまりにも違う屋内に適応できた種類はわずかしかいません。しかし、この壁を乗り越え、“ただの虫”から“害虫”へと変身を遂げた瞬間から彼らには今日の繁栄が約束されていました。
人間の住居、とりわけ台所は思いがけない安住の新天地でした。水と食物がなければ生活できない彼らに、台所はそれを生涯保証してくれました。強力な競争相手も天敵もほとんどいませんし、隠れ場所にも事欠きません。苦手の冬の寒さは暖房が守ってくれます。
近代になってから家主が化学合成殺虫剤を連用し、この洗礼には困りましたが、それも多少の犠牲を払えば、強力な抵抗性を発達させるという、おそらくはゴキブリ自身も予期できなかった驚くべき能力で切り抜けました。
文明害虫
ほとんどが熱帯起源の屋内性のゴキブリたちは、寒がりで、通常ならば日本の冬は越せません。世界的にもっとも普通に見られる小型のチャバネゴキブリは、 日本に侵入した時期が一番早く、ほぼ江戸時代の中期ころと考えられています。
しかし、このゴキブリは特に寒さに弱く、一年中暖房が完備した飲食店や船舶などの常連ではありましたが、一般家庭にはほとんど住み着くことができませんでした。 それが、近年は暖房設備の進化によって、かつては分布すらできなかった北海道を含めて一般家庭でも普通に見られるようになりました。
皮肉なことに、チャバネゴキブリの勢力拡大は豊かな生活の証拠として喜ぶべきことなのでしょう。
また、屋内性のゴキブリのなかには、もうすっかり人間との同居生活に適応し、本来の原産地がどこなのか定かではない種類までいます。 彼らが「人造害虫(マンメイドペスト)」と呼ばれているゆえんです。
以前、ある生物学の大家がゴキブリのあまりの横行に、「人類のあと地球を継承するのはゴキブリであろう」との新説を唱えたことがあります。 しかし、決してそうはならないでしょう。試しに、冬のさなかに数日間暖房を切って窓を開けておけばゴキブリは全滅します。それが彼らの本来の姿です。
屋内性のゴキブリはまさしく人類とは“運命共同体”です。生活を依存している人間の文明が失われたら彼らの生活も終わり、再びもとの自然界に戻ることすら難しいことになるでしょう。 その前に、人類が次の時代をほかの動物にゆだねるような、そんなりっぱな滅亡の仕方ができるかどうかの方が問題かもしれません。
ゴキブリの生活
ゴキブリは江戸時代から「あぶら虫」とか「ごきかぶり」とか呼ばれていました。
前者は今でも呼び名に使われ、植物にむらがる「アブラムシ」の仲間とよく混同されます。また後者は「御器噛り」の意味で、 ゴキブリが食器をなめることに由来する分かりやすい名です。
ところが、明治時代にある先生が教科書の中で「ゴキブリ」と“誤記”したばかりに、これが踏襲されて意味不明な名になってしまいました。
また、野口雨情の「こがね虫は金持ちだ」に始まる有名な童謡の“コガネムシ”は、金属光沢のある甲虫のコガネムシではなく、 チャバネゴキブリだという説があります。雨情の故郷の茨城県ではゴキブリを方言でキガネムシと呼んでいたことに加えて、その体系が小判に似ていること、 雌は腹端に昔の財布(きんちゃく)のような形の卵の袋(卵鞘)をつけて持ち歩くことなど、この童謡の主人公としてふさわしいかもしれません。
ゴキブリは短期間にやたらに増えると思われていますが、卵から成虫になるまでにチャバネゴキブリで約3か月、大型種では2年もかかります。 成虫の寿命は前者で10か月、後者で1年以上に及び、その間に何回も産卵を繰り返します。また、屋内では天敵が少ないために、途中で死亡する個体は少なく、 増殖効率はかなりいいようです。
ゴキブリの仲間は夜行性で、昼はガスレンジや冷蔵庫の回りなどの暖かく狭い場所に親子一族郎党が集団で潜んでいます。たまたま時間外に迷い出た奴をスリッパで叩くと、 精神衛生には良くてもその裏には何十倍の仲間が温存されています。
隠れ家の集団を維持しているのは直腸からお互いが分泌する集合フェロモンによるものです。なお、翅がなく腹部がむき出しになったゴキブリを見かけ、 人によっては翅のあるゴキブリよりも嫌っています。野生の種類には成虫になっても翅のない種類がたくさんありますが、屋内で見られる翅のないゴキブリは幼虫で、最後の脱皮で翅のある成虫に変身します。
ゴキブリの成虫は飛ぶことができますが、ヘリコプターのような具合にはゆかず、そのためには助走が必要な飛行機型です。だから、 ビンの口の内側にバターを塗っておくとこれに引かれて中に落ちたゴキブリは脱出できなくなります。しかし、このビン(バタートラップ)を洗わずに使い続けると、 だんだん効果が落ちてきます。どうやら先に捕まって死んだ個体が危険を知らせる分散フェロモンを出しているようです。
また、昭和46年(1971)には、画期的なゴキブリ捕獲器「ゴキブリホイホイ」が登場し、3か月で27億円を売り上げるという画期的なヒット商品になりました。 しかし、このトラップは餌のない条件下では効果を示すものの、台所のような場所で全滅を期待するのは無理なようです。
ゴキブリの功罪
ゴキブリは塩以外の人間のたいてい食物は何でも食べ、食性は腐敗したものから人糞にまで及び、当然病原菌をまき散らします。実際にゴキブリからさまざまな重要な病原微生物が検出され、 ベルギーのある病院の小児科病棟ではゴキブリのサルモネラ菌による集団食中毒まで記録されています。
加工食品からゴキブリの死体でも出てこようものなら、その企業の浮沈にかかわる大事件です。これが第一級の衛生害虫であることにだれも異論をはさみません。
しかし、あえて反論を承知で言わせていただけば、ゴキブリは本当にそんなに悪者でしょうか?
病原菌の運び屋といっても“洗わない手”だって似たものです。病原菌の“質”となれば、ハエやノミやカの方がはるかに大物です。しかも、 ゴキブリは本来清潔な昆虫で、皮膚からは殺菌作用のあるフェノールやクレゾールを分泌しているという最近の報告もあります。上記の食中毒の事例も、 それが稀なケースだったからこそ記録されたのでしょう。人間の食物をかすめるといっても、農業害虫に比べればタカが知れています。
それにしてはゴキブリの嫌われ方はちょっと極端に過ぎないでしょうか。嫌いな虫のアンケートでも、ゴキブリは必ず第1位が“指定席”です。 結局、ゴキブリの最大の害は、その姿かたちが人間、とりわけ台所で遭遇のチャンスの多い主婦の感性に合わないというタワイナイことに過ぎません(と、 ボクは思います)。
ひるがえってゴキブリの功績を検証すると、これがなかなかのものです。
ゴキブリは低コストで大量に増殖することができ、重要な実験動物として世界中の生物系の大学や研究機関で常時飼育されています。
この虫ほど、切った張ったの大手術に耐えられる丈夫な虫はほかにあまりいません。ゴキブリのおかげで幾多の生理・生化学的な新事実が解明され、 生物学の発展に果たした役割には計り知れないものがあります。また、多くの殺虫剤もゴキブリの命と引き替えに開発されました
食用・薬用としてのゴキブリも世界的に多彩な事例が報告されています。ものの本からそのいくつかを紹介しておきます。
今世紀の初めころまで、イギリスの船員は船の中でゴキブリを捕らえて、重要なタンパク源として生で食べました。エビのような味がするといいます。 タイの少数民族では、子供たちがゴキブリをフライにして好んで食べます。日本でもある料理学校の校長の最近のスペシャル・メニューにゴキブリのフライを粉にして小麦粉と混ぜたスイトンがあります。 中国では古くからゴキブリが食用として利用されれきました。
さらに薬用となると、その効用は万病に及んでいます。たとえば、ゴキブリを煎じて血管拡張や神経痛に(中国)。 ゴキブリとナメクジとブタの胆汁を混ぜて梅毒に(中国)、ゴキブリを煎じた茶が破傷風に(アメリカ)、ゴキブリ酒が風邪に(ペルー)、黒焼きが寝小便、 すりつぶして霜焼け軟膏に(日本)用いられたなどなど、枚挙に暇がありません。
しかも、その効用がただの迷信とは限りません。ヨーロッパでは昔、チャバネゴキブリで作った心臓薬が広く市販されていましたが、その有効成分には、 腎臓の上皮細胞を刺激して分泌機能を活性化させる作用があることが判明しています。
ゴキブリと国民性
前述のように、日本の屋内性ゴキブリのうち在来種はヤマトゴキブリだけで、この種類だけは現在でも屋内と野外の両方で見られます。 また文献記録から推定すると、侵入種のうちではチャバネゴキブリが江戸時代の比較的早くから定着を果たし、次いでクロゴキブリも侵入したようです。
しかし、“木と紙でできている”と称された日本家屋の構造は、暖房の不備からその発生はたかが知れていたと思われます。 少なくとも家庭の主婦がこれほどゴキブリとのつき合いが深くなったのは戦後のことです。
つまり、欧米に比べてゴキブリとの縁は浅いといえます。あまり見慣れない昆虫に加えて、身体が脂ぎって大きく、行動が素早く、台所にいつもいるとなると、 薄気味悪いと思っても無理はないかもしれません。おかげで、日本人のゴキブリ嫌いはちょっと極端で、つき合いの古い欧米とはおのずと対応が違っています。
ゴキブリは必ずしも世界中で迫害されているわけではありません。イギリスでは地方によってはゴキブリを生命の保護者として尊敬し、 引っ越しのときには数匹のゴキブリもつれて行くといいます。
また、アメリカではマダガスカル産の巨大な野生種のオオゴキブリの仲間がペットとして人気があります。この仲間は手で捕まえるとキーキー悲しげに鳴きますが、 この鳴き声も楽しんでいるようです。
巨大で、翅がなく腹がむき出しのこのゴキブリのペット化は日本ではとても考えられません。
欧米人はホタルや鳴く虫にはまったく無関心ですが、ゴキブリなどへの嫌悪感も明らかに希薄なようです。もしかしたら、日本人の鳴く虫を愛する感性とゴキブリを嫌悪する感性は、 身近な生き物に無関心ではいられないという意味で同根なのかもしれません。
それにしても日本人は、この生物界の大先輩にもう少し寛容になれないものでしょうか。一度でも、ゴキブリをびんにいれて、その姿形をつくづくと見て下さい。 そこに刻まれた悠久の進化を適応の明かしを見ることができるでしょう。
事情を良くわかっていて、ゴキブリを見かけるとすぐスリッパに手を伸ばす僕自身の反省を込めて。