児玉徳美

見聞ということばがある。見聞とは「見たり聞いたりすること」であり、また「そうして得た知識」でもある。人は見たり聞くことをすべて正確に記憶し再現できるわけではない。外部からの刺激のうち、受け手にとって意味あるものを取捨選択して記憶として身につけ、その後の行動に役立てていく。つまり、外部から送られる情報に反応して知識として蓄積していく。情報と知識は別物であり、両者の間に介在するものが思考である。外部から送られる情報がすべて受け入れられるわけではなく、思考過程で拒否されたり、特定のものが選ばれたり、補強されたりして知識となる。
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日常生活で出くわす矛盾や不平等、「あたりまえ」とされている制度や常識などへの疑問は身辺に無数に存在する。情報はこのような問題を考える基礎材料を提供してくれることもあるが、直接回答を与えてくれるものではない。問題を発見し、問題解決の筋道をつける作業は情報の受け手や情報と無関係に人の思考・知識に委ねられている。

4 thoughts on “児玉徳美

  1. shinichi Post author

    情報の役割:その光と影

    by 児玉徳美

    http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/620/620PDF/kodama.pdf

    https://kushima38.kagoyacloud.com/?p=43504

    1.情報と思考と知識

    見聞ということばがある。見聞とは「見たり聞いたりすること」であり、また「そうして得た知識」でもある。人は見たり聞くことをすべて正確に記憶し再現できるわけではない。外部からの刺激のうち、受け手にとって意味あるものを取捨選択して記憶として身につけ、その後の行動に役立てていく。つまり、外部から送られる情報に反応して知識として蓄積していく。情報と知識は別物であり、両者の間に介在するものが思考である。外部から送られる情報がすべて受け入れられるわけではなく、思考過程で拒否されたり、特定のものが選ばれたり、補強されたりして知識となる。

    言語活動において人はそれぞれの思いや意図や主張を互いに伝え合う。その際、話題となる事態についての理解をできるだけ正確にし、それに対する自分の意見をできるだけ明確にしようとする。多くの対話はこのようにして成立している。互いの思いや主張はそれまでに得た情報や経験に基づく知識によって形成され、ことばを介して相手に伝えられる。Aより伝えられる思いや主張は相手のBにとっては1つの「情報」とみなされ、Bがそれに合意するか否かは別である。「知識」が情報や経験に基づいて「思考」過程を介して主体的に「知る(know)こと、知り得て習得するもの」であるのに対して、「情報」は「外部から情報を得る(be informed)こと、受信情報」にも、逆に自ら「外部へ情報を発する(inform)こと、発信情報」にも用いられる。

    情報・思考・知識の三者は常に同じようにふるまうわけではなく、まして等号で結ばれるものではない。三者の関係は時代により個人により、あるいは状況により異なる。外部からの情報が指令として思考や知識を無視したり、逆に過大な知識が思考や情報を無視したり、刺激となる情報や知識が欠如した状況でも創造的に思考が思索や幻想の世界に入ることもある。

    現代は情報化時代と呼ばれ、20世紀後半よりテレビ、携帯電話、CD、DVD、パソコン、iPadなどにより、われわれは情報の洪水に囲まれている。ここでの「情報」の多くは外部から受け取る受動的な’be informed’ の受信情報であるが、携帯電話やパソコン・iPadのインターネットによっては外部へ送る能動的な‘inform’の発信情報も可能である。今日ではIT(information technology情報工学)の発達により大量の情報を処理する機器が簡単に入手できるようになった。下記の(1)(2)は同じ日の新聞(『朝日新聞』2010年7月10日)に載った別々の記事の見出しである。

    (1)なぜ今iPadなのか
    (2)IT駆使して医療を可視化

    (1)はある大学が2011年4月に人文情報学科を立ち上げる広告内での1つの小見出しである。その新しい学科では「学生全員に新型マルチメディア端末「iPad(アイパッド)」を配布し、今までにない新しいスタイルの教育・研究活動を展開します」という。確かにiPadは電子書籍・最新のニュース・記録・映画などの動画・音楽・ゲームなど、あらゆる情報を提供し、文字入力はもちろん、スケッチブック・ナビゲーター・双方向の情報交換としてのツイッター・必要な情報のコピーなどに利用できる。今や「情報通信の主役はパソコンではなく、いつでもどこでもスイッチを入れるだけでアクセスできるiPad」に代わろうとしている。その広告では「新しい価値観が詰まった新しいツールを手にし」て今日の情報を利用すると同時に、情報に反応して「気づいたことをツイート(つぶやき)」したり、「次代のコンテンツ・ビルダーを育成」して「新しい価値の創造に挑戦」するとうたっている。ここではiPadが情報処理の中心的役割を果している。

    (2)は医療へのIT活用の現状を紹介した記事である。今では「CT(computerized tomographyコンピュータによる断層撮影法)で撮影した体内の画像を立体化したり、画面上で長さや面積が測れ」ることが可能になり、「臓器や患部の位置を腹の上から確認でき、手術個所の正確なイメージを把握できる」。CT画像を転送したり取り込むこともでき、iPadを横に置いておけば、以前のように大型ディスプレーを見るためいちいち顔を上に向ける必要もなく、最小限の移動で手術も可能になり、医療の可視化が大きく進展したと述べている。

    2010年はiPad元年ともいえる。(1)(2)ではiPadがあらゆる情報を駆使できる「汎用機」またはITの最先端機器とみなされている。iPadは大量生産され、誰もが安価で入手し、多様な情報を容易に利用でき、コピーして「自作」のものをiPadに取り込むこともできる。例えば紙の書籍も一冊数分で自動読み取りでき、電子書籍としてiPadに収めて持ち歩きできるようになった。iPadは便利な機器であり、それを利用すること自体に全く異論はない。しかしiPadの利用が(1)のように人文情報学科立ち上げの「柱」になるか否かは別問題である。情報はあくまでも人の思考や行動を支える手段であり、思考や行動そのものではない。情報の役割についてその効用と限界を明確に認識しておくことが重要である。

    iPadが情報の利用に大きな変革をもたらしているが、(1)と(2)の間にはiPadの効用において大きな違いがみられる。(2)において目に見えないものを可視化する技術はすでにCTで完成していたが、簡便なiPadは手術を容易にするだけでない。病気や臓器などについて正確な知識の獲得を可能にしている。例えばCTの画像データを転送したiPadを学生に渡し、何の病気であるか診断する課題を与え、学生は画像を拡大したり縮小したり、試行錯誤して正解を見つけることもできる。iPadの出現が医学そのものの進歩に貢献している。これに対して(1)の人文情報学科は文学部に置くもので「理工系の学部との大きな違いは「人間」の視点から情報を考えて人にやさしい情報発信をめざしている」とうたっているが、iPadの出現が人文学そのものの進歩にどのように貢献するのかが不明である。広告は「人にやさしい情報発信」がどのようなものかについて具体的に何も示していない。自然科学と人文社会科学では情報の役割がどのように異なるのであろうか。

    本節の初めでみたように、情報は思考や知識を誘発する上で重要な役割を果すが、情報そのものの限界もあり、思考や知識がすべて情報によって誘発されるわけでもない。重要なことは人間が多様な情報をいかに操るかであり、情報によって操られてはならない。iPadに収められている多様な情報が利用分野によって利用効力に違いがあるとすれば、情報をいかに利用するかが問われてくる。

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  2. shinichi Post author

    2.情報の利用

    2.1.情報の「価値」

    今日われわれは情報化社会の中にある。情報(information)が特定の人に独占される時代ではなく、情報の密室化が非難される。もちろん、すべての情報が公開されるわけではないが、われわれは多様な情報を容易に入手できる状況にある。情報の中には外国政府の隠密活動や敵国の軍事計画などについて収集する秘密情報(intelligence)も含まれる。本論はこのような特殊な情報を主要な対象としない。しかし、後ほど3.1節でみるように、政府が秘密にしている映像や文書がインターネット上に流出することがふえ、今日では秘密情報の保持が従来と変わり、情報の適正な公開と秘密・内部情報の告発や暴露との境界があいまいになっていることを指摘しておく。

    iPadには多様な情報が詰まっており、迅速に利用できる点で画期的なものである。しかしそこに入力されている情報は、これまで紙の書籍、映画、CD、DVD、パソコン、CTなどに入っていたものと変らない。(1)はiPadが「新しい価値観が詰まった新しいツール」とみているが、iPadの情報に「新しい価値観」が加わるわけではない。紙の書籍で読む『1Q84』と電子書籍で読む『1Q84』に価値の違いがあるわけではない。多様な情報を迅速に利用できる「利便性」自体は1つの「価値」であるが、その「価値」と、流されている情報の「価値」を同一視するのは錯覚であり、混同である。

    送られる情報のうち、音質や画質の良し悪しは利便性の良し悪しと同じように価値に関連するが、一般的には、情報を獲得することでその後の思考や行動に何らかの影響を与える場合、情報に「価値」があるといえる。情報価値は利用者が情報に何を求めるかによって異なり、絶対的なものではない。一般論として「価値」を提供する情報には次のような種類がある。

    (3)a. 知らない知識または新しい事実や計画案を提供する情報
      b. 娯楽や生活などに関する情報
      c. 目に見えないものを可視化する情報
      d. 誰もが真実として共通認識をもてる情報

    (3a)の情報はわからない漢字を教えてくれる辞書や日々の出来事を伝えるニュースに限らない。新しい事実の発見や新しい視点の提供なども含まれ、それが新しい状況を生み出すこともある。2011年1月、北アフリカのチュニジアでは23年間政権を率いていたベンアリ大統領が政変により外国へ逃亡した。この政変では特定の指導者がいたわけではない。失業問題などに抗議した青年の焼身自殺をきっかけに、インターネット情報を通じて集まった市民のデモに向かって警官隊が発砲し、多くの死者が出たことに端を発し、それまでの強権支配に対する市民の怒りが一気に噴き出した。この政変は「インターネット革命」とも呼ばれる。(3b)にはゲーム・音楽・映画などの娯楽情報や、安い商品・切符などの生活情報が含まれる。数年前に私がある自動車販売会社に○○型中古車があるか問い合わせたところ、インターネットを通じて調べ、日本全国にある○○型中古車と値段のリストを送ってきたことがある。今日では遠い土地での家探しや100年前に出版された書籍を購入するにも、インターネットを通じて各種商品の在庫や製造量などをすぐに確認でき、以前に比べて売買そのものが大きく変ってきている。(3c)の可視化にはこれまで密室で行なわれていたもので、例えば取り調べなどを適正化するため、その経過をすべて録音・録画することも含まれるが、ここでは見た目に映らないものを誰にも認識されるようにする情報を扱う。(2)でみた医療での可視化が代表的なものである。医療ではCT画像を通して得られる情報が専門家に共通の認識(3d)となり、病気の診断・患部の正確な位置・手術などで絶大な威力を発揮している。もちろん情報によっては(3a-d)の複数の領域にまたがるものもある。文芸作品などの書籍は一方で(3b)の娯楽として楽しみ、他方でそれまで気づかなかったことに気づかせ、新しい感動を与えることがある。これはある意味で(3c)のCT画像のように、「目に見えないものを可視化するもの」ともいえる。しかし文芸作品などは人による評価が異なる場合が多い。(3d)において事実を伝えるCT画像と違って、必ずしもすべての人が共通の認識にたてない。ここでは人間の評価がかかわり、1節の末尾で述べた人文社会現象と自然現象との違いがみられる。

    人文社会現象が(3d)においてなぜ共通の認識にたてない場合があるのかという問題がある。人文社会現象にはどのような特徴があるのであろうか。第1に、何らかの形で人や社会が介在している。人はデカルトが指摘したように、それぞれが「考える」存在物である。動物や機械と違って、同じ刺激や状況に対して必ずしも同じ反応を示さないし、刺激がなくても思考・行動をとることができる。このような言動の創造性は個人だけでなく社会にも同じように適用される。ここには思考に導かれた多様な価値観が働いている。第2に、コンテクストを含む多様な要素(部分)が相互に依存しながら、人文社会現象(全体)を形成している。第3に、千差万別の人の評価が絡んで現象を支える多様な諸要素や現象全体に対して評価が分かれることになる。人文社会現象に普遍的な価値というものが存在するとしても、価値の普遍性は常に個人や社会の現実に根ざしたものであり、一様に律することが困難な場合が多い。

    もちろん自然現象もすべてが天体の運行のように、予測可能で不変の法則に従っているわけではない。多様な要素が絡み合いながら、複雑系現象が起きている。例えば地震がいつどこで起こり、建物などにどのような被害を及ぼすのか、庭の木の葉がどこに落ちるのか、蛾や蜂がいつどこに大量発生するのかなど、複雑系現象は身辺に無数に存在する。しかし自然現象の背後には真理として確立された法則が存在する。例えば地震は日本に起きても南米に起きても、地震が起きるメカニズムは普遍的で変りがない。各地震の違いはメカニズムを支える条件の違いにすぎない。一方、人文社会現象は、真理として確立した法則がいまだに見出されず、すべてが複雑系現象に属する。「歴史は繰り返される」とよくいわれるが、これは繰り返される天体の運行とは別物である。歴史的に例えば戦争が繰り返されてきたが、その原因や条件はそれぞれ異なる。自然現象と人文社会現象はいずれも過去のデータからある程度の予測ができるにしても、両者の現象の間にはそのメカニズムに法則性があるか否か、主要に人が介在しているか否かの点で大きな違いがある。その結果、地震のような自然現象の多くは人の力の及ばぬところで生じ、それを阻止することが不可能であるが、戦争のような人文社会現象の多くは人間自身の行為であるためそれを食い止めることが可能である。

    ITの発達は20世紀後半期のテレビの出現から今日のiPadに至るまで多様な視聴覚情報を提供している。地球の反対側で起きている出来事も居間で寝ころんだまま同時進行の形で見聞することができる。容易に入手できる情報の多様化と迅速化は、質・量において飛躍的に進歩をとげ、多くの利便性をもたらしている。情報の受容において領域による違いがあるにしても、多様な情報を伝達する点で人間の生活を一変させている。急激な変化には功罪が伴ない、情報化社会は多くの負の問題も生み出している。

    2.2.情報の問題点

    情報化社会にあって多様な情報に取り囲まれ、日常生活を送るのに必要な情報を手にしさえすれば、何の不自由もないという錯覚さえ生まれている。しかし情報には大きく2つの問題がある。

    (4)a. 情報そのものに本来限界がある。
      b. 情報の受け手が容易に入手できる情報に過剰に依存し、情報依存症とも呼べる状況が生まれている。

    まず(4a)の問題からみてみよう。情報が語るものがすべではない。情報の送り手が為政者であれ市井の人であれ、自分の思いや意図をすべて発信しているわけではない。また自分にとって価値がないと判断したり自分にとって不都合と感じることがらは発信されない。無意識的に語られないものだけでなく、意図的に情報として語られない「不作為の作為」と呼ばれるものもある。このような情報の限界は大なり小なり情報が元来もっている特徴であり、これまでに印刷された文書や報道ニュースにもいえることである。情報の受け手としては語られるものだけでなく、背後に隠れている、語られないものを含めて情報を解釈することが求められる。

    情報の限界として、語られる情報の中身と関連する問題もある。情報に「真実」とか「虚偽」のラベルがついているわけではなく、現実には玉石混交の情報が流れている。情報の真偽を含めて、情報の「価値」を判断する責任は情報の受け手に委ねられている。また漢字の書き方や読み方、列車の発車時刻のような単純な問題は、人に聞いてすぐに解決されるものであり、辞書や交通情報も入力されている電子機器でその情報を容易に入手できる。しかし人が生活していく中で出くわす多くの疑問に対して、情報に答えが用意されているわけではない。「人生とは何ぞや」のような哲学的な問題はともかく、日常生活で出くわす矛盾や不平等、「あたりまえ」とされている制度や常識などへの疑問は身辺に無数に存在する。情報はこのような問題を考える基礎材料を提供してくれることもあるが、直接回答を与えてくれるものではない。問題を発見し、問題解決の筋道をつける作業は情報の受け手や情報と無関係に人の思考・知識に委ねられている。

    (4b)の問題として、情報の受け手が情報へ過剰に依存した結果、どのような状況がうまれているのであろうか。今日の情報化時代は視聴覚優位の時代と重なっているのが特徴である。正確には視聴覚優位の時代が少し前から始まっている。20世紀後半期よりテレビ・CD・DVD・マンガなどの出現で映像・音楽などの視聴覚情報の力が増し、相対的にことばが力を失い、『人は見た目が9割』という新書本(竹内一郎著、2005、新潮社)さえ出る状況となった。映像や音楽、あるいは見た目は直接人間の感覚に訴え、人の性格や発言の虚偽を見破ることもある。映像や音楽などにはことばにない力が潜んでいる。ドラマにしても、ラジオでは聞き手はことばと音を手掛かりに登場人物の動きや心理を想像していたが、テレビでは映像がほぼすべてを語り、ことばは映像に従属するものとなっている。視聴者自身あまり想像を働かすこともなく、映像に導かれるままである。こうした状況の中で世紀転換期以後、携帯電話・パソコン・iPhone・iPadなどが普及し、情報化時代を迎えた。多様な情報は試行錯誤を繰り返し、ことばを介して思考するプロセスを経て得られるものではなく、電子機器を操作するだけでゲームにも似た形で入手可能となった。ここでは情報とことば・思考が必ずしも直結していない。視聴覚情報や多様な情報に慣れ親しむ中で、いつの間にかことばがいっそう弱体化し、ことばの弱体化は抽象化や想像力を必要とする思索を敬遠し、結果的に思考の弱体化を招いている。思考や行動の判断基準が表層的・即物的・感覚的・断片的・受動的になっている。

    ことばや思考が弱体化した事例にはこと欠かない。事実を隠蔽したり、虚偽やごまかしを語ったあと、その矛盾やことばの食い違いを指摘されると、ボタンを押し直すかのように気軽に弁解したり前言を取り消したりする.その場しのぎのことばが主張や責任をあいまいにし、信頼できる「賞味期限」の欠けたことばが消費されていく。例えば2010年9月初旬に行なわれた民主党代表選挙である。6月初めに「政治とカネ」や普天間基地移設問題で引責辞任したはずの鳩山前首相と小沢前幹事長は舌の根も乾かぬ内に代表選挙で暗躍した。二人は代表立候補締め切り直前の8月末に輿石参院議員会長を交えて党の運営について菅首相に注文をつけた。「挙党態勢」や「トロイカ(+1)方式」と称して、「挙党」ではなく「巨頭」の重要役職を要求したが、合意に至らなかった。その結果、小沢前幹事長が代表選挙に立候補し、2週間にわたる代表選挙戦に突入した。民主党代表の選挙とはいえ、実質上日本の首相を選ぶ選挙であった。さらに民主党としてはつい3ヶ月前に自ら選んだ首相を代えることも覚悟した選挙であった。これまで菅首相の続投を支持していた鳩山前首相は三「巨頭」の要求が受け入れられないとわかると急に態度を変え、小沢前幹事長支持を表明した。この間の舞台裏は公然の「秘密」になっているが、代表選挙に立候補した菅首相と小沢前幹事長は公開討論会で二人の間では役職を巡って相談はいっさいなかったとし、代表選挙でいずれが代表に選ばれても、今後二人は協力して民主党政権を守っていくとその場を取り繕った。本来競うべき政策ではなく権力を競っての茶番劇は、民意から離れた「コップの中」で演じられ、結果は菅首相の勝利で終わった。単純な権力争いやカネへの欲求を糊塗しようとして言辞を弄するため、ことばがますます軽くなっていく。

    ことばが軽い時代には、realとvirtual、あるいは真理・事実・偽装・虚偽の境目が不明確になる。かつて多くのエネルギーを要したと思われる犯罪の「壁」も軽く飛び越えられる。情報を発信するマス・メデイアは20世紀前半まではラジオや新聞・雑誌が中心であったが、今日の中心はテレビ・iPadなどのIT機器による情報に代わり、マス・メデイアの影響は格段に強くなっている。視覚優位の時代の中でマス・メデイアに登場する露出度に基づく人気が力や権威と錯覚され、マス・メデイアが流行価値を先導している。重大ニュース・殺人・占い・CMなどの意図や価値が峻別されることもなく、並列的に流され、メデイアでの頻度に応じて価値を増し、殺人の方法まで容易にコピーされている。

    最近、パソコンやiPadでのインターネットを通じて行なわれる140字以内のミニブログであるツイッターが盛んである。有名人と市井の人の間、あるいは政治家と有権者の間などで交され、フォロワー(読者)数が多いほど「価値」があるとみなされている。個人が外部へ向かって発信でき、誰とでも情報交換できる。事故や事件についてはその現場にいる人がマス・メデイアより早く情報を発信できる。こうした利点のほかに、他人の名前を騙ってデマを発信することも可能である。より大きな問題はツイッターの受容の仕方にある。140字以内の文章で何が語られるのであろうか。感覚的で刹那的な印象交換にすぎない。「ツイッター」という内向きな「つぶやき」で議論や真のコミュニケーションができるとみるのは大いなる錯誤である。しかもフォロワー数の多さが、内実を問わないまま、人気や「価値」と結びついている。ツイッターの隆盛はことばや思考が弱体化した現状の反映である。先にあげた(1)の記事はiPadのツイッターに、双方向的な情報交換のツールとして新しい価値を見出しているかにみえる。これも情報依存症にかかり、マス・メデイアの流行価値を信じているためであろうか。

    マス・メディアの発達ははたして人間の幸福にとってプラスなのかマイナスなのかという問題がある。かつてテレビが出始めた頃、Chase(1953, Power of Words, Harcourt, Brace & World)はメディアの貸借対照表を作り、当時までの計算では負債のほうが多いとした。その最大の原因は「ヒトラーのような人物がマス・メディアを利用し、大衆の不安につけ込んで独裁者の地位につくことができた」ことにあり、ラジオがなかったらヒトラーも出現しなかったであろうと述べた。確かに、一人の独裁者のことばがマス・メディアを利用して大衆を動かしたが、今日ではマス・メディアの影響力がChase(1953)の頃より広範囲にわたり、ことばの力が格段に弱体化していると考えられる。しかし人に訴える力がことばに全くなくなっているわけではない。ことばとともに思考が鈍化していく中では、単純でわかりやすく、強く激しいことばほど人を惹きつけ、扇動するという危うさがあり、第二のヒトラーをくい止めることができる保証はない。

    先ほど「思考や行動の判断基準が表層的・即物的・感覚的…になっている」と述べたが、これは情報を受信する側だけでなく情報を発信するマス・メディアにも当てはまる。塩野七生が「なぜ人々は、マス・コミから離れるのか」(『文藝春秋』2010年10月号)で指摘しているように、今日マス・メディアの記事は低俗化し、ゴシップや皮相な意見や情報で埋まっている。例えば政治ニュースならば、政局については騒々しいくらいに論ずるのに、政治のあり方を正面から取り上げるものがほとんど見かけられなくなっている。購読者数の減少により新聞・雑誌の運営が苦しくなっているのは世界的な現象であるが、これはIT化による情報提供機関の多様化というより、マス・メディア自身の低俗化に起因しているという。

    今日のマス・メディアの実態や貸借対照表をどう評価すべきかの問題もあるが、それには立ち入らない。より重要なことはマス・メディアを含む多様な情報にどう対応するかである。情報化社会にあって多様な情報が減少することはまず考えられない。2.1節で述べた情報の利点を伸ばすためにも、2.2節の過剰な情報によるマイナス面をできるだけ少なくすることが求められる。そのためには玉石混交の情報を選別し、思考が本来の役割をはたすよう思考を活性化する必要がある。情報は判断基準の1つの材料にすぎない。目的に照らして問題の発見や解決に向けて思考する場をもつことが情報依存症から脱出できる唯一の道かもしれない。

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  3. shinichi Post author

    3.知識の継承

    3.1.自然現象と人文社会現象

    歴史的に人間の知識を継承する上で文字が大きな役割をはたしてきた。そのことは白川(2002『漢字百話』中央公論新社)やJaynes(1976, The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind, 柴田祐史訳、2005『神々の沈黙:意識の誕生と文明の興亡』紀伊国屋書店)によって実証されている。二人が対象にしたのはアジアとヨーロッパで異なるが、いずれもほぼ同じ時期の古代社会に文字が成立し、文字は最初神の声を伝えるものであったが、やがて人間の心に変化をもたらし、神の声から独立し、ことばや社会を変えていったという点で一致している。21世紀にも文字をもたない「未開」種族がわずかにアフリカや南米の奥地に見られるが、そこには白川やJaynesが指摘するように、呪能や神託が生活の中心にすわっている。確かに文字はそれぞれの時代を次の時代に伝え、その継承過程で人間の意識に変化を生んでいる。

    文字が確立したあと、諸制度や諸組織をもつ社会の構築は言語を介して実現される。例えば犯罪者を特定の施設(例えば刑務所)へ隔離排除するためには、その時代の社会・政治・家族・教育などの諸制度が密接に連携しながら、隔離を促す言説が形成され、犯罪学という知の助けも必要になってくる。Foucaultが主張するように、言説(の秩序)は知と権力の協働による産物といえる。言説・制度・組織・「常識」などを含む文化も、それぞれの時代の思想や価値観を生み出す知への欲求と、制度・組織などを支配する権力によって形成されている。

    人間のふるまいにおいて知識が歴史的にはたしてきた役割は大きいが、知識は一様に形成継承されるものではない。言説の秩序や諸制度が地域によって異なるように、どのように知識が形成継承されるかは地域や領域、あるいは個人によって異なる。その最も大きな違いは自然現象と人文社会現象についての知識にあり、それを反映したものが自然科学と人文社会科学にみられる。2.1節でみたように、自然現象が生じるメカニズムには多くの法則性があり、自然科学はその法則性が普遍的な真理であることを実証してきた。これが可能であるのも、自然現象を構成する要素が比較的に固有の機能を保持するためである。これに対して人文社会現象は過去のデータから出来事の生じる確立をある程度予測できるが、その確立は自然現象のように正確なものではなく、1つの傾向とでもいえるものである。その原因は人文社会現象の諸要素が変幻自在に他の要素と結合し、その機能に大きな柔軟性があることによる。2.1節の末尾では「戦争のような人文社会現象の多くは人間自身の行為であるためそれを食い止めることが可能である」と述べたが、いまだに中東やアフガニスタンでは戦争が続いている。20世紀末には政治上対立した「東西問題」がほぼ解消したが、宗教対立が依然として残り、新たに21世紀には貧富の経済問題が「南北問題」として強く意識されるようになっている。経済については貧富の格差だけが問題ではない。2010年の各国はアメリカを筆頭に自国の経済危機を回避するため、輸出増進のための通貨安戦争に突入した。ドル安になった為替レートに対して国際的協調がままならず、2010年後半期の世界経済は2008年のリーマン・ショック以後再び深刻な不況に陥っている。つい1年前の2009年12月にはオバマ米大統領が核兵器のない世界に向けての核軍縮や地球温暖化阻止のために国際的指導を発揮したとしてノーベル平和賞を授与されたが、今のオバマ大統領には世界を視野に入れた発信はみられない。各国は内向きに国益に走り、残念ながら、戦争やテロを招く宗教対立や経済格差を含む世界の経済を地球規模で解決しようという方向から遠ざかっている。

    人文社会現象を生み出している人間についていえば、一方では歴史的にそれぞれの時代にそってふるまうことで時代によって異なる状況が生まれるが、他方では「考える」存在物として同じ状況に対して必ずしも同じ反応を示さないことがある。同じ出来事に対してそれを構成する諸要素への評価が多様に異なるためである。例えば、同じ動物を殺しても牛や豚と鯨やイルカでは食文化の違いから単なる食用とみなすか「虐殺」とみなすかなど、罪意識において反応が異なり、列(queue)への割り込みやゴミのポイ捨てなどの社会ルール違反も個人や社会によって規範意識が異なる。法はしばしば「正義」を成文化し実現するものとみなされるが、必ずしも万人の同意を得たものではない。例えば死刑の存廃については国や個人によって意見が分かれる。日本では法の下での平等をうたっているが、外国人が選挙権をもつべきか否かでは意見が二分され、再婚については男性が離婚した翌日から可能であるが、女性は離婚後6ヶ月経過する必要がある。スペインのカタルーニャ自治州議会は2010年7月に「闘牛は動物の残酷な取り扱いにあたる」として禁止することをスペイン本土で初めて可決した。

    人文社会現象の大きな特徴は、特定の判断解釈が多様な選択肢の中から選ばれ、その適否を即断できないまま実行に移されることである。その結果、しばしば実行後に判断解釈のまちがいが露呈されることにもなる。2010年9月の日本では、「正義」とかかわる公式の言説で現実を糊塗する言語表現や稚拙な議論のやり方が目立つ出来事が多かった。それは2.1節でみた民主党代表選挙に限らない。代表選挙の直後には、大阪地検特捜部が郵政不正事件で押収したフロッピィーディスク(FD)のデータを改ざんしたことが裁判の過程で明らかになった。ある検事が事件の核心にかかわる証拠を改ざんし、特捜部という組織がそれを放置したことは、個人的にも組織的にも前代未聞の事態であり、「正義」の番人としての裁判そのものの根底を揺るがすものであった。

    9月後半には尖閣諸島沖で中国漁船と日本の巡視船が衝突する事件が起きた。那覇地検が公務執行妨害の疑いで中国人船長を逮捕して以降、中国政府は船長逮捕が違法であると強く反発した。民間人・閣僚などの交流停止やレアアースの日本への禁輸を発表し、さらには軍事施設を撮影したスパイ容疑でフジタ職員4人を拘束するなど、強行措置を次々と講じた。それを受けて那覇地検は大局的に日中関係を考慮し、処分保留で拘留中の船長の釈放を発表した。表向きに検察当局と政府は互いの接触を否定し、政府は司法当局の判断に従うと言明した。三権分立とはいえ、これは外交上の政治問題であり、政府が接触しなかったとすれば政治家としての責任放棄であり、対応が検察のみの判断によるとしたら司法の領域を越えた越権行為となる。内外のメディアは中国の対抗措置を「報復・圧力」、日本の措置を「弱腰・苦渋の外交」と評した。9月末に衆議院では臨時の予算委員会で尖閣諸島問題の集中審議が開かれた。野党は今回の日本の措置で政治介入があったのか否かをイエス・ノーで答えよと菅首相に迫った。イエス・ノーで答えを迫るやり方はかつて40年前の大学紛争時代の大衆団交で学生が何事についても大学当局にイエス・ノーの答えを迫ったやり方と同じで、議論の仕方が少しも変わっていない。政府は外交の問題であり、検察当局が関連省庁と相談したことを認めながらも、「検察の自主的な判断に従い、政治介入はしなかった」と答え、今回の事態の最終的な責任が政府にあるとは明言しなかった。この審議では「政治」「介入」「責任」の中身が規定されないまま行なわれ、不毛な攻防に終止し、議論は深まらなかった。

    今回の事件の背後には日中間で見解の違いがみられたが、それは歴史的事実の無知や歪曲に由来するものであった。日本は尖閣諸島が日本固有の領土とみなすのに対し、中国は1950年代まで尖閣諸島が日本の領土であることを教科書でも教えていたし、第2次大戦後米国が沖縄を占領していた当時、中国政府も尖閣諸島が沖縄に含まれることを認めていたが、1960年代に諸島周辺に石油や天然ガスなどの天然資源が眠っていることがわかり、1970年代になって初めて尖閣諸島の帰属が日中間で解決すべき領土問題であるとし、現在は中国の領土であると言明している。歴史的に中国が見解を変えたことにより、1970年代以降日中の主張は平行線をたどっている。那覇地検の釈放発表の翌日に船長が釈放されたのを受けて、中国政府は一方で日本側に謝罪と賠償を求め、他方で日中間で戦略的互恵関係を進める方針が不変であると表明したが、その後しばらく強硬姿勢を崩さなかった。日本の政府やマスメディアは尖閣諸島が日本の領土であり中国の主張が不当であると繰り返したが、歴史的になぜ不当であるかを中国や世界へ向けて何も発信しなかった。その点では中国が尖閣諸島を中国の領土であるとするのと同じレベルのお粗末な主張である。中国は尖閣諸島のほかに南シナ海に浮かぶいくつかの島についても現在周辺諸国(フィリピン・マレーシア・ベトナム・ブルネイ)と領有権をめぐって争っている。中国の領有権主張の背後には海洋権益の拡大戦略への転換がうかがえる。外交の要諦として、永続的な味方や敵があるのではなく、あるのは自国の国益を守り発展させることだけであるとする政治家が多い。今回の日中の政治言説は、双方ともこの旧式な要諦に固執している。歴史的変化への考察もなく、現行の法遵守という名のもとで、威嚇・報復・屈服・妥協・国益などが入り乱れており、表面の意味と異なる含意が明白に認められる。言説の表と裏の意味にあまり違いがないことが成熟した政治といえるが、今回はそれからほど遠いものであった。もちろん、旧式な外交の要諦は日中の政治家にのみ見られる現象ではない。先ほど各国が通貨安戦争に走り、経済上の国際的協調ができない状況にあると述べたが、これも旧式の要諦に従ったものである。地球規模でいかに経済不況を回避するかの道筋はまだ見出されていない。

    その後尖閣諸島沖での事件は日中間で沈静に向かっていたが、11月初めに再燃した。中国漁船が日本の巡視船に向かって意図的に2度激突する44分間のビデオ映像がインターネット上に流出したためである。日本政府はそれまで映像の公開に慎重で海上保安庁や検察庁で厳重に保管していたはずである。しかし映像が流出した途端、誰が何の目的で流出させたのか、政府は事件直後になぜ映像を公開しなかったのかなどが議論された。より大きい問題として政府の対応に一貫性がなく、政府の危機管理能力の欠如が問われ、このような事態を招いた政府の責任が追及された。10月末には警視庁の内部資料である國際テロに関する公安情報がインターネットに流出したことが露見しており、情報管理能力の甘さについて国際的にも不信の念がますます高まっていた。国内問題ではないが、11月末には内部告発情報をネット上で暴露することを目的とするウィキリース(Wiki Leaks)が2006年の創設後に入手した米国の極秘文書25万件の一部を公開した。暴露された情報は各国首脳を酷評しており、オバマ政権に深刻な痛手を与えた。

    現代のネット社会ではビデオ映像や秘密文書がいったんネット上に流れると、その拡散を食い止めることはまず不可能である。匿名によるこのような秘密情報の流出は職責上犯罪行為になるが、内部告発として悪事を暴露することもあれば、当事者に不当な中傷妨害を加えることもある。そのことは、公開されている情報が必ずしも真実をすべて語るものでないことに気づかせ、やがてはことばへの不信を招くことにもなる。

    私はかつてことばが力を失い、ことばを空洞化させるものとして、権力のことば・情報の過剰化・言説の秩序の3つの要素を挙げた(児玉(2006『ヒト・ことば・社会』開拓社)181-189参照)。この3要素は相互に関連しながら今日の言語状況を生み出している。権力をもつ為政者は過剰な情報を処理する知恵やことばをまだ見出していないし、各国は宗教対立や経済危機の中で従来通り自国の利益のみを追求し、他国と強調して対立や危機を克服する道筋をまだ見出していない。これは為政者や国に限らない。為政者や国を個人に言い換えても同じことである。今日の言語状況の危機は、国や個人が情報機器を含む科学技術のめざましい発展の中で急速に地球規模で変化する現実社会に対応できないところにある。換言すれば、現実社会に対処する知恵をまだ見出していないため、ことばがますます空洞化している。

    表裏の意味にギャップがある場合、本論の冒頭で述べた情報・知識・思考の関係が問題になる。流布されている情報を無条件に受け入れ、歴史的に積み上げてきた知識を無視して行動に出るとすれば、行動の判断基準で思考が働くこともなくなる。特定の個人や社会の利害に誘導された情報のみが前面に出て、知識が行動指針にならず、思考がゼロに近づいている。本来、情報は脇役で知識や思考こそが主役であるが、情報・知識・思考の働きが本来の姿から逆転している。このような状況の下では扇動や虚偽がしのび込んだり、物理的な力や精神的な圧力などの不条理によって物事が決定されたりする。人間が自然の姿を保持するためには、情報・知識・思考の三者がことばを介して本来の関係を取り戻すことが必要である。

    情報が絶えず変化するように、知識や思考も静的・固定的なものではない。新しい状況に応じて新たな知識や思考が構築されることになる。ある言説や事態に接するとき、話し手・聞き手は絶えず変化する情報とそれまでに蓄積された知識や経験に基づいて言説や事態を判断解釈しようとする。この判断解釈の過程が思考である。心の中での思考過程ではさまざまな思いや想定が交錯し、せめぎ合っている。交錯する思いや想定を形成する主要なものは、ことばに埋め込まれている意味である。人がどのように世界を認識把握しているかは、ことばの意味を通して理解される。この意味は新しい情報としての言説や事態が直接明示する意味に限らない。言説や事態から間接的に誘引される意味も含まれる。間接的な意味の中には話し手・聞き手、あるいは共同体社会の知識・価値観・信念体系・意図・言説の秩序・慣習・組織・制度・権力など、雑多なものが含まれる(詳しくは児玉 (2010『いまあえてことば・言語分析・言語理論のあり方を問う』開拓社)49,146参照)。人は交錯する思いや想定をつなぎ合わせて最終的な判断や解釈をしていく。特定の言説や事態に対して個人や社会の判断解釈が異なるのも、多様な意味のうち何を選び、何を重視するかの違いによる。特定の判断解釈の経験を重ねるにつれて、その判断解釈は当事者にとってやがて知識として蓄積されていく。

    人間の歴史は社会集団や個人によって形成され、一朝にして変るものではなく、類似の問題が繰り返されることにもなる。かつて神の意志で動いていた人間が自らの意志をもつようになり、その後は武力や政治・経済の圧力を通して、あるいは「正義」や「論理」の名のもとで歴史をつくってきた。その歴史を背後から支えてきたのが知識や権力や慣習であり、さらには人の思いが埋め込まれている言説である。諸要素が交錯しながら歴史をつくっており、特定の要素が決定的な役割をはたすわけではない。人間のふるまいにはそれぞれ理由があり、例えば「正義」に基づくものであるにしても、「正義」は時代や地域・文化・個人によって異なる。したがって人文社会現象の問題には決着のつかない「神学論争」がしばしば繰り返されることにもなる。

    3.2.自然科学と人文社会科学

    歴史を形成する諸要素のうち、特定の要素に決定的な役割を期待することができないにしても、知識の継承は歴史上重要な役割をはたしてきた。特に現代の情報化社会において重要なことは、情報との関連で人間が積み上げてきた知識がどのように継承されるかにある。自然科学では観察データや新たな観察事実の発見を通じて自然現象の法則性や普遍性が追究されてきた。天動説から地動説への理論転換、万有引力やDNAの発見、量子力学の構築など、すべての科学の成果に共通していえることである。いったん自然現象の法則が確立すると、それに違反する現象が生じない限り、その法則の正しさが身近な科学の技術に具現され,再確認されていく。その法則を知らないと自然現象が説明できなくなり,情報機器などの科学技術への応用や電気・ガス・水道などの工事も不可能になってくる。真理とみなされる知識が科学の進歩と結びつき,日常生活で着実に積み重ねられている。これと対照的に、人文社会科学では人文社会現象に対して共通の評価や認識をもつことが困難であり,まして自然科学のように諸現象をつなぐ法則性や厳密な普遍性は確立していない。核となる原理原則が見出されないため、時代ごとの諸要因を考慮して現象の原因を究明しようとしてきた。その過程で過去の知識である原理原則がそのまま,あるいは修正を加えながら継承されたり、視点を変えて過去の知識から断絶し全く異なる原理原則が提案されたりする。

    具体例として言語学の歴史を簡単にたどってみよう。言語研究は古くから言語実態の記述を中心に進められてきた。品詞分類や主述関係なども古代ギリシャから継承されたものである。言語研究における大きな転換は20世紀半ばからChomskyが展開している生成文法にある。ここでは自然科学にならい、仮説(法則群)を中心に抽象的な言語構造を探っている。自然科学は現象の奥に潜む原理を発見するため、現実に存在している特殊な条件を捨象し、現象の理想化(idealization)を行なうように、Chomsky後の生成文法も、理想化された言語事実(つまり理想上の話し手・聞き手の言語知識)を対象に言語の原理を探っている。そこでは恣意的な条件を含む社会的コンテクストと言語の関係は理想化から遠ざかり、両者の関係を問う研究はもはや「科学」でないことにもなる。Chomsky にとっての関心は人間がどの言語社会に生まれても、4・5歳でその母語を習得できることにあり、有限個の規則を習得して無限の文を生成できる言語能力を明らかにしようとしている。母語の詳細を教えてもらわなくても母語習得が可能であるのは、生得的に普遍的な言語能力が人間に備わっているためであり、言語分析の究極の目的は普遍文法の構築にあると主張している。Chomskyからみれば、普遍文法を追究したポール・ロワイヤルの『文法』や外部の刺激から独立した言語の創造的側面に注目したデカルトを生んだ17世紀は、言語研究の上で例外的に「天才の世紀」ということになる。

    生成文法の衝撃は大きく、言語学界もこのパラダイムの転換を無視できなくなった。その点ではパラダイムの転換は研究面で多様な視点や知識を導入する契機となる。しかしその後、生成文法と対立する認知言語学など他の理論も出現した。認知言語学は言語能力と認知能力一般の間に多くの共通性を見出し、モジュールとしての言語能力を否定し、言語習得は生得的能力によるというよりむしろ生後の経験に基づくとしている。今日の言語学では言語現象としていくつかの普遍的特性が明らかになっている。地球上の動・植・鉱物がことばでほぼ同じように種類分けされ、正確な意思疎通をはかるためには通例ことばが用いられる。またどんな言語も4・5歳までに習得され、語句が形態上名詞・動詞・形容詞・副詞などからなることは諸言語で驚くほどの共通性があり、主語が目的語に前置したり、複数の動詞(形態素)が意味上行為・変化・状態の順序で並ぶことなどは95%以上の言語に共通している。さらに人称には第1・第2・第3の3種類があるが、第4人称が存在せず、事物の数(単数か複数か)・定性(既定か不定か)・総称性(総称的か特定的か)などの区別は名詞句で表されるが、事物の色彩を示す形態素が名詞につくことはないし、出来事が生じるのが過去か現在か未来かはしばしば動詞によって表されるが、出来事が生じるのが昼か夜かを表す動詞は存在しない。このような構造上の普遍性や共通性は生得的な言語能力や認知能力として人間に付与されたものである。しかし言語を使用する歴史的過程の中で普遍的特性の具体的な形態や多様な普遍性の結合の仕方やさらには諸言語固有の特性には諸言語間で多くの違いがあり、その違いがどのような原理原則によって導かれるのかについて確たる法則は皆無に近い。言語習得は生得的能力によるのかそれとも生後の経験によるのか、言語能力と認知能力の発達にどのような関係があるのか、個別言語が属する言語類型を短期間にどのように習得するのか、多様な言語構造間の違いにどのような関連性があるのか、言語と文化・社会の間にどのような関係があるのかなどについて何も決着がついていない。

    本節の目的は生成文法と認知言語学など他の言語理論を比較することではない。確たる普遍的な法則が見出されない人文社会科学の言語学で知識がどのように継承されるかにある。20世紀後半以後は生成文法、認知言語学のほかに、体系文法、関連性理論、Grice後の語用論など、多様な言語理論が展開されており、その多くは言語実態の記述より、言語構造の抽象的な法則性を求める理論化に向かっている。言語研究者は多様な言語理論を比較検討するより、複雑になった各言語理論の精密化に腐心している。その限りでは各言語理論は深化した形でその知識が継承されている。各言語理論が対象とする言語構造は理想化された言語事実であるラングを対象とする生成文法の影響が大きく、文を最大の分析単位とするものが多い。言語学者はそれぞれ自ら信じる言語理論に埋没し、他の理論に無関心であり、言語活動の全体像からほど遠いところで研究を進めている。今日の言語学は分析対象の狭さや文内の構造中心主義の閉塞状況に陥っているともいえる。このような状況では引用文献の多いことが必ずしも「知識」の継承を保証するものではない。遍在的な「知識」はパラダイムを転換することにより、いつ無意味なものに変わるかわからないためである。

    人文社会科学において知識の断絶が生じるのは、交錯している諸要素の多様なつながりが解きほぐせないため、知識そのものが断片的で未発達であり、全体像の中での位置づけが不安定なためだけではない。今日の言語学は精密化に没頭するあまり、他者の言語理論や言語活動全体への注目を怠り、過去の知識から断絶することもある。上田万年は1890年前後に帝国大学のB.H.Chamberlainの下で学び、その後ドイツ留学帰国後1894年に帝国大学の教授に就任し、近代国語学の基礎を築いた。彼はアメリカの言語学者W.D.WhitneyやA.Darmesteterの影響をうけ、言語変化についても論じている。例えば語義の変化について次の4種を提案している(詳しくは高増(2009「上田万年の意義変化論――ホイットニーとダルメステテールの組み合わせ」『大阪千代田短期大学紀要』)38:1-25参照)。

    (5)a. シネクドキー=種の代わりに類、逆に類の代わりに種をあてること:通貨→金、太閤→豊臣秀吉;陶器→瀬戸物、魚→酒菜
      b. 判定語・被判定語=修飾語と被修飾語のいずれか一方を略すこと:あんま→あんまを業とする人、(あれでこそ)男→男たるべき男
      c. メトニミー=随伴する事例により関連する語を用いること:一杯→一杯の酒、西陣→西陣の産物
      d. メタフォル=似た性質の物や働きに転用すること:紙(木の葉に似ているため)→葉、読む→勘定する

    上田は上記4種をさらに下位分類して詳述している。現代の認知言語学では語義の拡大が人間の世界認識に深くかかわり、認識のあり方が語義拡大に反映するとみている。そこでは具体的な空間上の位置や移動の知覚を基礎に、その概念を時間・状態などの抽象的な概念に転用している。認知言語学では上記の(5b)を除く3種の比喩が語義拡大の大きな「柱」になっている。その点、(5)は認知言語学とこそ呼ばれないが、タイムスリップして現代の認知言語学で十分通用する。逆にいえば、現代の認知言語学は上田やDarmesteterに何の言及もせず、100年の間その知識から断絶していたことにもなる。

    過去の知識からの断絶は年月だけのせいではない。人間のすることで見落としも当然ありうる。加藤・吉村・今仁編(2010『否定と言語理論』開拓社)は20人の執筆による500ページ近い大部の本である。編集後記には「否定のことならこの本を」とあり、意気込みが感じられる。しかし30年前に出たそれより大部(750ページ余り)の太田(1980『否定の意味』大修館書店)への言及はわずか3人で、それも単なる文献紹介にすぎない。否定と統語論・意味論・語用論・論理学との関係、否定の作用域、文否定と語否定、否定対極表現など、共通のテーマが論じられているが、30年の間にどのような進展があったのか、継承性が疑われる。知識の断絶により前進しているのか後退しているのかもわからない。

    自然科学と人文社会科学の間には、知識や法則を継承する条件の上で大きな違いがみられる。知識や法則を基礎的なレベルから高度なレベルへ着実に積み上げ、その知識や法則を日常生活での科学技術で追認している自然科学と対照的に、高度な知識や法則が確立していない人文社会科学では基礎的・基本的な知識さえ時に忘れられることがある。多くのハンディをもつ人文社会科学では知識を継承したり、新たなパラダイムを構築する上で多くの課題が残されている。

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  4. shinichi Post author

    4.人文社会科学の課題

    言語は人間に固有の能力として生得的に付与されており、人文社会現象の中でも相対的に自然現象に近いものである。そのことはどの言語社会に生まれても誰もがほぼ同じ年頃に母語を習得し、同じ母語話者が多様な母語表現の(不)適格性に対して直感的にほぼ均一の判断を下すことからうかがえる。ここでは自然現象と同じように、言語表現を駆使する母語話者に言語知識として共通の原理原則が埋め込まれていると考えられる。そのような言語の分析においてさえ、前節でみたように、意見の不一致がみられ、言語構造から言説に至る言語活動全体を導く普遍的な法則が見出されていない。他の人文社会科学において、例えば文学・政治・法律・経済・歴史・哲学等において議論が分かれるのは当然といえる。

    自然科学では自然現象が生じるメカニズムに多くの法則性が確立し、諸現象を構成する諸要素が固有の機能を保持するため、たとえ個別の現象を分析しても、その分析結果は自然現象全体の中での位置づけが明確であり、自然現象の説明に貢献する。しかし人文社会科学では人文社会現象をつなぐ法則性や普遍性が何も見出されず、諸現象を構成する諸要素がコンテクストの中で変幻自在にふるまうために、個別の現象をいくら分析しても、コンテクストから分離した分析には多くを期待することができない。人文社会現象全体の中での位置づけが不明確であり、個別現象の分析結果は「浮き草」のように時流によっていつ廃棄されるかわからないためである。

    人文社会現象には議論に共通の基盤がなく、意見の違いが果てしなく続く論争にしばしば接する。例えば英語教育は教養のためか実用のためかが終戦直後から続いており、今も小学校への英語教育導入への是非につながっている。英語の一元化傾向の中で日本語が亡びるとみるか亡ばないとみるか、悲観論と楽観論が交錯している。強者言語が弱者言語を圧迫する英語支配をイデオロギー上不平等・不公平とみなすか、地球上での言語数の減少を思考・文化との関係から英語の母語話者を含めて世界の損失とみなすか、視点によって議論の中身も違ってくる。

    言語は思考を表現するものであり、人文社会現象は言語を介しての思考の産物である。思考が多様な要素からなるだけに、人文社会現象についての議論と同じように、言語の本質や言語の目的についても主張が分かれる。これもグギ・ワ・ジオングが指摘するように、すべての言語が「コミュニケーションの手段であり同時に文化の運搬物である」という二重の性格をもつためである(詳しくは宮本・楠瀬訳(2010『精神の非植民地化』第三書館)67参照)。この二重性格に権力・利害・言語伝達の目的などが複雑にからみ、そのいずれに焦点を当てるかにより立論の仕方も違ってくる。かつてグギ・ワ・ジオングは英語で小説を書いていた。小説家として描きたい人間模様は世界共通のものであり、英語で書けば世界の読者が多いことは確かである。しかし誰のために書いているのかと問われたとき、英語で書いて90%の者が英語の読み書きができないアフリカのために書いているとはいえない。後年の彼は英語で書くことに疑問をいだき、言語を選ぶことは読者を選ぶことであると考え、使用言語を英語からギクユ語やスワヒリ語に変えている。ここには小説家として普遍的な価値と直接の執筆目的との間に葛藤がみられる。作家によっては文学での言語は論理的な因果関係を追求する理性的な思考より、むしろ民族や国家を超え人間の自然な感情を表現するものであり、重要なことは何語で語るかではなく、読者と感情をいかに共有できるかにあると考える者もある。ここでは言語の本質や伝達目的において作家による違いがみられる。

    古くから日本人論・日本論が盛んであり、分析の対象や視点が多様に分岐している。この多様性を捉えて何でもまかり通る「日本文化論のインチキ」と題してこれまでの日本文化論を槍玉にあげている新書本もある。その本の著者は一方で明確な根拠もあげないまま多数の日本(人)論がデタラメであると酷評しながら、他方で特定の著名人のことばを祖述して無批判にその主張を受け入れている。その本自体「インチキ」なのかもしれない。このような「神学論争」には目的や視点にズレがあることが多い。要するに、論争している「土俵」が異なり、勝負はつかない。

    人文社会科学において少なくとも不毛な「神学論争」を避けたい。そのためにはどうすべきであろうか。これまでの私自身の研究への自戒を込め、人文社会科学の分析には次のような課題が求められる。

    (6)a. 過去の知識をできるだけ正確に把握する。
      b. 議論に共通の場を確保するため、考察の目的や視点を明示する。
      c. 人文社会科学が多様な要素を対象に展開しているだけに、できるだけ多くの視点を包含できる分析を追求する。
      d. できるだけ広範囲の現象に適用される普遍的な原理原則を究明し、そこから導かれる法則は反証可能性をもち明示的なものとする。
      e. 考察の領域がそれより上位の全体とそれより下位の部分の関係においてどこに位置するかを明示する。ここではトップダウン的分析とボトムアップ的分析の統合を追求する。
      f. パラダイムの転換をはかる際は、それまでに蓄積された知識の問題点と新たな提言とを比較できるようにする。

    人文社会科学において重要なことは(6)の課題に応えることである。(6)において知識をいかに把握するか、分析の目的・視点、原理原則、法則、あるいは全体と部分の関係などをいかに形成するかは思考・思索による。情報は(6)の作業を推進する上で不可欠な基礎資料を提供するものである。

    現代が情報化時代であるとはいえ、皮肉なことに相反する2つの状況がある。1つは誰もが知りたい情報が必ずしもすべて公開されているわけではなく、重要な情報が隠されていることである。その結果、尖閣諸島沖事件のように、誰もが知りたい秘密情報がいったん流出すると、その拡散は防ぎようがなく、個人による情報流出行為が社会全体を動かすことにもなる。あと1つは入手できる情報が雑多で個人の処理能力を超えていることである。その結果、個人はそれぞれの好みや関心に応じて情報を選択しがちである。友人や仲間内でのオシャベリならそれでよいかもしれない。しかし人文社会科学においては、情報の「価値」は個人のお好みや関心によって決まるものではない。情報が基礎資料として不可欠であるか否かは、人文社会現象の実態を究明し、その背後にある原理を探る(6)の課題との関係でのみ決定される。

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