手島郁郎

  • 我らは、日本の精神的荒廃を嘆き、大和魂の振起を願う。
  • 我らは、日本人の心に宗教の復興を願い、原始福音の再興を祈る。
  • 我らは、無教会主義に立つ。従っていかなる教会・教派にも属せず、作らず、ただ旧新約聖書に学ぶものである。
  • 我らは、キリスト教の純化を願うが、日本の他の諸宗教を愛し、祖師たちの人格を崇敬するものである。
  • 我らは、政党・政派を超越して、愛と善意と平和をもって、日本社会の聖化を期し、社会正義と人間愛を宣揚するものである。

キリストは言いたもう、
“すべて労する者、重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません”

2 thoughts on “手島郁郎

  1. shinichi Post author

    「幕屋」という語は、ヘブル語のオヘル、ギリシア語のスケネーskhnhの日本語訳で「移動式天幕、テント」のことです。英訳の tabernacle(タバナクル)は<ちょっと宿泊する>という意味からきている語で、何となく重みに欠けているかもしれません。

     けれども、「幕屋」の本質そのものは、実に、モーセがシナイ山において密雲漂う中に神と出会って十戒を授けられたとき、神との出会いを持続せしめんがために、神がモーセに「自分と民、また汝と出会うために幕屋を作れ」と命じられたことに発祥しております。それで、幕屋のことを、一名「出会いの幕屋」とも言いました(出エジプト記 19・1~20・17、24・12~31・18、35~40章、レビ記 8~9章)。

     モーセの作った幕屋は、外庭、聖所、至聖所から成っていました。至聖所には、金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中には十戒を刻んだ石版が入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていました。それで幕屋のことを、別名、「証の幕屋」とも呼びました。

     神の幕屋こそ、神の住み給う場であり、地上で最も聖なる地点を意味しました。イスラエルの出エジプトの時代から、後代の新約聖書・黙示録の最後に至るまで、この幕屋的礼拝こそは、旧新約聖書を一貫する基本的思潮です。

     イエス・キリストは、「二人または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ伝 18・20)と言われました。キリストの在す所、そこは聖なる場所です。真の神礼拝のなさるべき場所、どこでも聖なる幕屋です。それは建物ではない。特定の場所ではない。キリストの御名によって人の集まる場がエクレシア(召会)です。このキリストの御言こそ、「幕屋」を意味し、新約的なエクレシアの最も良い表現形式です。

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