西研

正義という言葉を耳にすると、「正義は相対的なものにすぎない。どこにもほんとうの正義なんてものはないんじゃないか」と思う人もいるだろう。じっさい、イスラエルとパレスチナはそれぞれの正義を掲げて久しく対立しあってきた。アニメのガンダムを例に挙げるまでもなく、一方が全くの正義で他方は全くの悪だ、というような善悪二元論、の図式を、私たちの多くが素朴には信じられなくなっている。
しかしそう思いつつも、残忍きわまる殺人の話を聞くと、私たちは「なんてひどい」と思い、その犯人を捕まえて罰する警察・司法の働きを「正義だ」と感じる。また、検察がきちんとした証拠のないままある人を意図的に犯人に仕立てあげた、という報道があると、「ひどいことをする!」と憤りを感じ、ある人たちがインサイダー取引で儲けたと聞くと「ずるい」と思う。
このように私たちは、正義の基準が時代や社会によって相対的であることを知りつつも、現実のさまざまな行為に対しては、「不正だ!(ひどい・ずるい)」とか「これは正しい」という実感をもつ。このような正義、という現象を、私たちはどのように理解すればよいのだろうか。そして私たちは、私たちの社会の正義としてどのような基準を採用すべきなのだろうか。

One thought on “西研

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *