張競

たしかに「東アジアにおいて、恋愛の受容はたしかにわれわれの想像力と表現力を豊かにした」。しかし、「『恋愛』は近代人の身体、性意識ならびに感情表現を『近代文明』の管理下に置こうとする過程でもある」。たとえば「恋愛を拒否することや、恋愛の儀式にのっとらない行為は、『異常』や『病的』あるいは『非常識』として排除される現象が生じた」りするのだ。

One thought on “張競

  1. shinichi Post author

    「愛してます」と素直にいえない、あなたのために…

    http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Jiyugaoka/990209Ren-ai.htm

    張 競

    『近代中国と「恋愛」の発見』

    岩波書店 1995


    「愛してます」なんて口が裂けても言えない、なんかバタ臭くて…。そんなあなたには本書がおすすめ。

    なぜバタ臭いか? 我々が今普通にかんがえる「恋愛」もまた、近代受容の過程において文明開化期に取り入られた西洋の概念だったからである。

    『近代中国と「恋愛」の発見』によると、このバタ臭さは、中国においてはなおさらだった。

    中国や日本が「西洋」を本格的に受容し始めたのは19世紀。そのころの欧米の恋愛風習は、一言でいうと、未婚男女が自由に恋愛でき、自由に結婚相手を選択できるということである。

    しかし当時の中国では親の取り決めた人と結婚するのが常識。しかも、女は年頃になると外に出てはならないという風習があったから、そもそも異性との出会い自体がなかった。だから、恋を語り合うなんてことは今までやったことがなかったのだ。

    つまりシチュエーションからして既に、西洋の「恋愛」はあり得なかったのである。

    小説においても、「浮生六記」みたいな夫婦間の情愛や、才子佳人小説によくみられる遊郭での恋が、そのころの中国では愛情の物語としての常識だったのだ。

    でも中国近代文学者は「恋愛」小説に感心した。男女が同等にそして自由に、時には大胆に恋愛を語り合うさまは「近代」の自由・平等・民主を連想させたのである。だから彼らは中国でも恋愛小説を作ろうと奮闘を開始した。

    本書『近代中国と「恋愛」の発見』は彼らの奮闘史である。中国人文学者が中国の「恋愛」小説を試行錯誤させながら作り上げてゆく過程を時間軸にそって解説している。時にはすごい勘違いをしながらも、だんだんと「恋愛」らしくなってゆくプロセスは、中国の「近代化」の過程と似てスリリングだ。

    現代の中国小説には深みのあるものが増えてきているが、それもこれも彼らの格闘あってこそだといえるだろう。

    しかしながら、新世紀を生きなければならない我々が押さえておくべきところは、本書の著者が「あとがき」で記した以下のところであろう。

    たしかに「東アジアにおいて、恋愛の受容はたしかにわれわれの想像力と表現力を豊かにした」。しかし、「『恋愛』は近代人の身体、性意識ならびに感情表現を『近代文明』の管理下に置こうとする過程でもある」。たとえば「恋愛を拒否することや、恋愛の儀式にのっとらない行為は、『異常』や『病的』あるいは『非常識』として排除される現象が生じた」りするのだ。

    そう、わたしたちが普段考え実践する恋愛もまた、西洋近代からの輸入品である「恋愛」であって、近代的価値観が普遍的でないのと同様、恋愛という概念もけっして普遍的なものではないのだ。それならば否定はしないまでも、「恋愛」について一歩引いて考え直してから、実践してみることが必要だということ。

    ちなみに、本書によると1989年の統計では、中国の都市部では61.3%、農村部では70.2%が見合い結婚だそうだ。

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