川本三郎

家内が亡くなって二ヶ月ほど経った夏のある日、この店に行くと、おかみさんに「最近、奥さんを見ないけど」と聞かれた。「六月に亡くなりました」と言うと、おかみさんはびっくりした。家内はよくここで豆腐を買っていて親しく話をしていたという。
おかみさんは、頭にかぶっていた手拭いをとって深々と頭を下げてくれた。私の知らなかった家内がいる。近所の人に親しく記憶されている。そのことがうれしかった。
この気のいいおかみさんは、息子さんを若くして亡くしていると以前、家内から聞いたことがある。どんなに明るく見える人でも、悲しみを抱えて生きているものなのだと思う。

2 thoughts on “川本三郎

  1. shinichi

    家内、川本恵子は平成二十年(二○○八)六月十七日の午前一時四十四分に逝った。五十七歳だった。
    私より七歳年下の家内がこんなにも早く逝ってしまうとは夢にも思っていなかった。本当にこたえた。
    一九七三年に結婚した。三十五年連れ添ったことになる。一緒にいるのがもう自然の、当たり前の状態になっていたから、一人になって正直なところ毎日、寂しい。家内に何もしてやれなかったという後悔、無力感に襲われる。

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    感傷的にだけはなるまい、極力冷静になろうと、原稿は出来る限り、朝の早い時間から書き始めた。朝、起きて、御飯を炊き、それを家内の仏前に供えてから原稿用紙に向かう。ひとつの「儀式」だった。
    癌と分かってから、つらい悲しいことばかりだったが、家内との結婚生活は楽しかった。だからなるべく楽しい思い出、家内の愉快な面を書くように心がけた。

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    一九七三年に結婚した。
    六九年に朝日新聞社に入社し、『週刊朝日』、そのあと『朝日ジャーナル』の記者になった。当時は各大学で全共闘運動が盛んで、その取材で武蔵野美術大学に行った時、二年生だった彼女に会った。全共闘の運動に共感はしていたが、活動家ではなかった。ファッションのデザインの仕事をしたいと言っていた。
    それから親しく付き合うようになったが、そのさなかの七二年の一月、私は公安事件の取材の過程で致命的なミスを犯し、警察に逮捕され、新聞社を辞めざるを得なくなった。
    この先、どうなるか分からない。どう生きていったらいいか分からない。とても結婚など出来る身ではない。結婚の約束はしていたが、こうなった以上、身を引きたいと彼女に伝えた。
    すると彼女は「私は朝日新聞社と結婚するのではありません」と、心を変えることなく結婚したいと言ってきた。苦労することが分かっているのに。当時、私は二十七歳。二月生まれの彼女は二十一歳。その若さで、よくそんな決断をしたと思う。

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    家内と知り合ったのは、私が『朝日ジャーナル』の記者をしていた一九七一年。下火になったとは言え、大学紛争がまだ続いていた。家内が通っていた小平市の武蔵野美術大学のキャンパスに取材に行った。
    学生たちに大学紛争をどう思うか、何人かに聞いた。そのなかの一人が大塚恵子だった。週刊誌の記者と名乗ると、ふんと小馬鹿にする学生が多かったなかで、彼女は、こちらに興味を持ってくれた。私が質問すると、同じくらい彼女のほうが質問してきた。
    あなたは大学紛争をどう思っているのか、とか、ヴェトナム戦争をどう思っているのかとか。昭和四十六年(一九七一)の春。東大安田講堂事件から二年経っていたが、大学のキャンパスにはまだ熱気が残っていた。
    彼女に会った時、正直、心がときめいた。何よりも、やせっぽちで、どこか妖精のようだった。取材のルールを超えて、個人的に名前と住所を聞き出した。

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    フリーの物書きになった三十代のはじめの頃、ある雑誌に匿名の映画コラムを連載で書いていた。匿名をいいことに、よく映画の批判を書いた。エラソーでいま思うと恥ずかしくなる。
    ある時、家内が言った。
    「匿名で人の悪口を書くなんてよくないわよ。あなたいつも言っているじゃない。西部劇の悪人は、丸腰の相手を撃つって。それと同じじゃない」
    これは西部劇の好きな私にとって痛烈な批判だった。その通りだと思った。それから、気に入った映画、好きな映画のことだけを書くようになった。
    文芸評論もそうするようになった。考えてみれば若い頃に傾倒したドイツ文学者の種村季弘さんもフランス文学者の澁澤龍彦さんも自分の好きなことしか書いていない。
    それでいいのだ。自分もそうしようと心に決めた。以来、ずっとそれが自分の批評のスタイルになっている。あの時、家内に言われなかったら、こうはならなかったかもしれない。

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    一人になってしまったいま、いちばん寂しいのは、こんな無駄話が出来なくなってしまったことだ。「善福寺川緑地の桜がもうじき満開になるよ」「塚山公園に行ったらこのあいだまでいた野良猫が姿を消していた」。
    そんななんでもない会話をする相手がいない。仕方がないから位牌や写真に向かって話しかける。
    子供がいなかったから夫婦の会話は他愛ないものが多かった。いま思い出してみるとそれが楽しかった。

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    家内が亡くなって二ヶ月ほど経った夏のある日、この店に行くと、おかみさんに「最近、奥さんを見ないけど」と聞かれた。「六月に亡くなりました」と言うと、おかみさんはびっくりした。家内はよくここで豆腐を買っていて親しく話をしていたという。
    おかみさんは、頭にかぶっていた手拭いをとって深々と頭を下げてくれた。私の知らなかった家内がいる。近所の人に親しく記憶されている。そのことがうれしかった。
    この気のいいおかみさんは、息子さんを若くして亡くしていると以前、家内から聞いたことがある。どんなに明るく見える人でも、悲しみを抱えて生きているものなのだと思う。

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    作業の中心になったのは二人の若い大工さん。まだ二十代と三十代。朝の九時から夕方の六時頃まで黙々と働く。一日の作業が終ると、きれいに片づける。仕事を終えたあとの片づけは骨が折れるだろうが、骨身を惜しまない。思わずこちらが「どうせまた明日、汚れるのだからそのままでいいですよ」と言っても「もう少しですから」と手を抜かない。
    「僕」でも「俺」でもなく「自分」というのが面白い。最後の日は、夜の九時まで働き、あとかたづけをし「自分たちはこれで失礼します」と帰っていった。
    家内は心付けを渡し、見送ったあと「もうあの子たちが来ないと思うと寂しいね」と言った。「あんな子が子供だったらいいね」とも。毎日、二人におやつを出すのが楽しかったと言う。いろいろな事情でわが家にはいなかったが、やはり家内は子供が欲しかったのだろう。
    この夏、小さなリフォームをすることになった。またあの時の若いほうのKさんが来てくれた。
    「あの、奥さんは」と聞かれ、事情を話すと、Kさんは言葉を失ない、ほとんど呆然としばらく玄関のところに立ち尽くしていた。

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    家内は小学生の頃から父に連れられて山登りをしていたという。家内の手術の日、一宮から東京に出て来た義父は「子供の頃から恵子は弱音を吐かず、大人と一緒に山頂まで登った。我慢強い子だった。この手術もきっと耐えてくれる」と言っていた。
    それだけに大事な娘の死は老父にはこたえたのだろう。家内の死の直前、娘の手をにぎり、「俺より先に逝くな」と男泣きしていた姿が忘れられない。

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