田邉正俊

ニーチェは1879年にバーゼル大学教授を辞するが、それ以降、一カ所に定住することなく ─もちろん、ニーチェの健康が一か所への定住を許さなかったという事情はある ─、主として夏にはスイス、冬にはイタリアや南フランスを転々とする「漂泊者」となった。漂泊者ニーチェにとっては、風土こそが問題になる。すなわち、その土地が自分にとって「合うか合わないか」、また、その土地に滞在することでどのような思想が得られるかが問題になったのである。たとえば、「僕の本性には、このプロヴァンス沿岸地方の気候がすばらしくしっくりくる」という南フランスのプロヴァンス地方(主にニース)、「この高地の一区画以上に、僕の体質にふさわしいところはない」というスイスのシルス・マリア、1880年以降、冬には(ニースと並んで)好んで滞在し、「日なたで身を丸めて幸せそうに寝転がって … 一人きりで海とひそかに戯れていた」ジェノヴァ、最晩年の1888年になって初めて訪れたにもかかわらず、「あらゆる点で高貴な平穏が守り抜かれ」、「私の第三の居住地〔第一の居住地はシルス・マリア、第二の居住地はニース〕として整備した」と絶賛したトリノ…。このように、ニーチェはさまざまな土地を訪れ、時にはしばらくの間滞在し、いかに自分と合っているか(時として合わないか)、それぞれの印象を残している。そして、冷涼にして透徹したシルス・マリアで「襲われた」永劫回帰の思想、ジェノヴァの日なたで身を丸めたり、散歩したりしながら生み出された明るみをもつ『曙光』の思想、トリノのポー川の橋の上で夕方目の当たりにした「善悪の彼岸」などに現れているように、ニーチェの思想展開において、彼が実際に訪れ、滞在した土地の風土の問題は無視できない。『この人を見よ』において、偉大な使命を果たさなければならない者にとって「土地と風土の問題」は避けて通れないものであり、「天才は乾いた空気と澄みきった空から生み出される」と、ニーチェは強調していた。ニーチェが好んで滞在した地は、基本的にはこの「乾いた空気と澄みきった空」という条件を満たしている。逆に、ニーチェが苦々しく思っていたのは、ドイツや(教授として過ごした)バーゼルであった。

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