佐藤達夫

扱った植物は、庭で育てたものや、次女のいけ花のおさがりや、東京ちかくの野や丘で採取してきたものなど、ごく身ぢかなものが大部分である。我流の、まったくお恥ずかしい絵だが、すべて実物をお手本にいっしょうけんめいに描いた。へたながらも、草木にたいするわたしの愛情がすこしでも滲みでていたらうれしいと思う。
忙しい公職をもつわたしが、こんなのんきな本を出したりすると、いかにも、本職をおろそかにして、わき道に熱中しているように誤解されそうである。しかし、これは、まったく業余の息ぬきであり、ひとさまがゴルフや麻雀を楽しみ、野球放送などに興じておられる時間をあてての、わたしなりのレクリエーションなのだから、このくらいのあそびは許していただけるだろう。

8 thoughts on “佐藤達夫

  1. shinichi Post author

    佐藤達夫 (法制官僚)

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/佐藤達夫_(法制官僚)

    佐藤達夫(1904年5月1日 – 1974年9月12日)は、日本の法制官僚。法制局長官、人事院総裁。

    福岡県出身。内務官僚・佐藤孝三郎の長男として生まれる。中学明善校、第五高等学校一部丙類を経て、1928年3月、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。同年10月、高等試験行政科試験に合格し、同年11月、内務省に入り内務属として地方局に配属された。地方事務官・群馬県などを経て、1932年3月、法制局に移り参事官となり、以後、法制局で勤務。1941年10月、法制局第二部長心得に就任し、専任法制局参事官、法制局第二部長を歴任し終戦を迎えた。

    1945年11月、法制局第一部長に就任。以後、日本国憲法の作成に関わる。法制局次長、兼行政調査部部員を経て、1947年6月、片山内閣の法制局長官に就任。その後、法制局長官は法務庁法制局長、法務府法制意見長官、法制局長官と変遷したが、第5次吉田内閣の1954年12月まで7年半在任した。

    1955年1月、国立国会図書館専門調査員に就任。1962年9月から人事院総裁を務め、人事院勧告の完全実施に尽力し、現職で死去した。

    その他、随筆、絵画、植物研究家としても知られた。

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  2. shinichi Post author

    佐藤達夫関係文書

    国立国会図書館

    https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/satoutatsuo1.php

    資料形態 原資料

    数量 5,978点

    書架延長 26.5m

    旧蔵者 佐藤達夫 (さとうたつお)

    旧蔵者生没年 1904 – 1974

    旧蔵者履歴 1904.5.1福岡生まれ、1924.3第5高等学校卒、1928.3東京帝国大学法学部卒、1928.11内務省入省、内務属・地方局勤務、1932.1群馬県社会課長、1932.3法制局参事官、1941.10法制局第2部長心得、1942.6専任法制局参事官、1944.9法制局第2部長、1945.11法制局第1部長、1946.3法制局次長、1946.10兼行政調査部部員、1947.6法制局長官、1949.6法制府法制意見長官、1952.8内閣法制局長官、1954.12辞職、1955.1国立国会図書館専門調査員、1962.9人事院総裁、1974.9.12在職中死去。

    受入公開 1975年、個人より寄託を経て、1978年寄贈

    主な内容 戦後間もない時期の政府部内調査、憲法問題調査会、GHQ草案の提示、帝国議会での審議から公布・施行に至るまでの憲法制定過程のほぼ全期間に及ぶ資料が残されている。当室「入江俊郎関係文書」との重複も多いが、佐藤自筆の書き込みのある資料も多く、憲法制定過程における日本側の対応については両文書を相補う必要がある。特にマッカーサー草案に基づいて、日本側が作成した改正草案に関するGHQ側との折衝には、佐藤がほぼ一人で関わっており、「三月四、五両日司令部ニ於ケル顛末」と題された手記に、その経過が克明に記されている。その他、皇室・栄典関係法規、国会法、選挙法、新憲法制定に伴う関連諸法の整備関係(国家公務員法等の制定・改正など)、行政機構改革、官公労関係、地方制度調査会、国語審議会等の幅広い分野の資料がある。


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  3. shinichi Post author

    日本国憲法の誕生 ⑱「日本化への苦闘」もしくは「日米案翻訳戦争」

    by たんぽぽ

    https://wind1953.blogspot.com/2019/04/blog-post.html

    GHQ案に大きな反発を覚えた松本蒸治は、「憲法改正案説明補充」という大部の再説明書を書いて2月18日に民政局へ提出し、GHQの再考を促したが、「これについて再考の余地はない」と一蹴される。

    日本政府案の提出期限である20日にはとてもまにあわないので、とりあえず22日までの延期を申し入れる。
    その22日、松本はホイットニーと会談し、いくつもの条件を出す。
    たとえば、

    • GHQ案は、人民の発議になっているが、大日本帝国憲法は、第73条で、天皇の発議以外には憲法を改正できないとしている。
    • 戦争放棄の条項は、前文に入れられないか?
    • 我が国の国情から二院制が必要だ。

    ホイットニーは二院制だけを認め、ほかはほとんど拒否。

    同じ22日、幣原首相は参内し、天皇にこれまでの経緯を言上。
    天皇の”御聖断”は次のようなものだった(GHQの対日占領公式記録「日本政治の再編成」から)。

    「内閣総理大臣は、最後の手段として吉田と楢橋を伴い天皇のご意見を伺った。
    裕仁(ヒロヒト)は躊躇されなかった。
    彼は幣原に最も徹底的な改革を、たとえ天皇ご自身から、政治的機能の全てを剥奪するようなものであっても、全面的に支持すると勧告された」

    ここにいたって、松本蒸治はGHQ案を骨抜きにした日本政府案をつくろうと決意する。

    宮沢俊義に協力を断られた松本蒸治は、法制局次長の入江俊郎と第一部長の佐藤達夫をスタッフに選んだ。
    2人とも元憲法問題調査会のメンバーだ。

    松本らは3月11日ごろ完成を目標に極秘で作業を進めた。
    当然GHQ案を忠実に翻訳するような仕事ではなく、3人のエリートが総力をあげて日本案を作ろうとした。
    が、GHQからの強い催促により、3月2日までにできていた政府案(「3月2日案」あるいは「日本案」ともいわれている)を閣議も経ずに日本語のまま3月4日、民政局に提出することになる。

    3月4日午前10時から民政局で行われた会議には、日本側からは松本蒸治(国務大臣)、佐藤達夫(法制局第1部長)、白洲次郎(終戦連絡事務局次長)、外務省から小畑薫良と長谷川元吉が出席。
    民政局側からはホイットニー(民政局長)、運営委員会のケーディス、ハッシー、ラウエルの3人、加えてヘイズ、ロウスト、プール、そして通訳としてベアテ・シロタも参加していた。

    日本側としては、これをたたき台にして交渉を続けながら時間をかけて最終案を作っていくつもりだった。
    ところがケーディスは、その日本案の英訳をすぐに始め、逐条できあがった英文から検討を始めた。
    つまり、民政局はこの会議で日本国憲法の最終案を確定するつもりだったのだ。

    なぜそこまで急ぐのか。
    理由はすでに触れたとおり極東委員会の発足だった。
    極東委員会が日本国憲法に手をつける前に既成事実をつくるということだ。
    そうでなければ天皇制は守れないだろう。

    このあたり、どちらが日本の「国体護持」のために力を尽くしたのかと思ってしまう。

    松本蒸治の敗北

    民政局で始まった会議では、すぐに日本案に「前文」が付いていないことをケーディスが発見し、「これはいかん、GHQ案の前文をそのまま付けろ」と最初から激しいやりとりになる。
    日本案の翻訳が進むにつれ、会議はますます険悪になっていく。

    GHQ案 日本案
    第1条 天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。この地位は、主権を有する国民の総意に基づくものであって、それ以外の何物でもない。 第1条 天皇ハ日本国民至高ノ総意ニ基キ日本国ノ象徴及日本国民統合ノ標章タル地位ヲ保有ス。
    第2条 皇位は、世襲のものであり、国会の制定する皇室典範に従って継承される。 第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ世襲シテ継承ス。

    ケーディスは第1条の「それ以外の何物でもない」が日本案ではなぜなくなっているのか、第2条の皇室典範は「国会の制定する」をなぜ取ったのか、といちいちかみついてくる。
    ただ、「主権を有する国民」、つまり国民主権を日本案では「国民至高」と表現している部分については、翻訳で sovereign(主権)になっていたので気づかれずにすんでいる。
    この部分はのちの国会での論議(共産党の指摘)で問題になる。

    続く第3条でも大もめにもめる。
    GHQの案では、天皇の国事行為には「内閣の助言と同意を必要とする」とあったが、日本案は「補弼(ほひつ)を必要とする」に変えられている。

    日本人にしてみれば、助言とか同意という言葉は天皇に対して畏れ多いのである。
    補弼という表現は明治憲法を踏襲した単語だ(明治憲法第55条「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」)。
    まあできるだけ明治憲法から逸脱したくないというのが日本側、というより松本蒸治の本音だ。

    このあたりの日本語のニュアンスをアメリカ人に理解させることは容易ではなく、当然おたがい激論になる。
    松本はこのとき68歳。
    憲法学者ではなかったが、法学博士であり、戦前は東京帝大教授、法制局長官や商工大臣、関西大学学長などを歴任。
    相当の自信家で、自分ほどえらいものはいないと思っていたかどうかはわからないが、この松本が、ケーディスのような若造(39歳)に対等以上の議論をふっかけられてがまんのできるはずがない。
    14時過ぎ、ついに松本は席を立って帰ってしまう。

    以後、松本は憲法に関して表舞台に出ることはない。
    「松本にとって、3月4日のケーディスとの折衝は、法律家としての敗戦、あるいは玉砕といった方がよい体験であった」(古関彰一)

    佐藤達夫の孤軍奮闘

    松本が去ったあとは、民政局と対等にわたりあえる日本側の代表は佐藤達夫法制局部長ひとりとなった。
    白洲次郎終戦連絡事務局次長がいたが、彼の役割については私自身よくわかっていない(数年前にNHKが彼の戦後の役回りをドラマ化した番組を作ったが私は見ていない)。

    逐一条文中の日本語と英語のちがいを明確にしながら、延々と会議は続いた。

    佐藤対民政局の激論はすべての条文に及んだと思われるが、中でもよく取り上げられるのが女性の権利条項だ。

    真夜中の2時過ぎ、ベアテ・シロタが苦心惨憺して作った草案を運営委員会でケーディスにより次々と削除され、わずかに残っていた「婚姻における両性の平等」などの女性の権利について佐藤が全面削除を主張した。

    いわく、「日本には、女性が男性と同じ権利を持つ土壌はない。日本の女性には適さない条文が目立つ」(「1945年のクリスマス」から)。

    ベアテ・シロタはこの佐藤の主張を正確に通訳しなければならなかった。

    このときのベアテ・シロタの苦衷を救ったのがあのケーディスの次の発言だった。

    「しかし、マッカーサー元帥は、占領政策の最初に夫人の選挙権の授与を認めたように、女性の解放を望んでおられる。
    しかも、この条項は、この日本で育って、日本をよく知っているミス・シロタが、日本女性の立場や気持ちを考えながら、一心不乱に書いたものです。
    悪いことが書かれているはずはありません。これをパスさせませんか?」(同上)

    この「1945年のクリスマス」では、シロタがこの条文の草稿をかいたとシロタ自身がケーディスに言わせているが、NHKのシロタ晩年のインタビューを見ると、この会議でのケーディスの発言は、シロタが草稿を書いたということは一言も言わず、ただこのシロタがこの条文をとても大切に思っているというような発言になっている。

    どちらにしても、このケーディスの言葉に日本側は民政局に譲歩する。
    つまり、日本側は過去日本に10年も暮らし、今も優秀な通訳として(また若く美しい?)けなげにがんばっているシロタに大きな好意を抱いていたからだった。

    民政局と佐藤達夫との各条項における激論は古関の「日本国憲法の誕生」第9章「日本化への苦闘」にくわしいが、個々の言葉の誤訳や矛盾がないような細かい検討も大変な作業であり、結局会議が始まって30数時間が過ぎた3月5日の夕方にすべてが終わった。

    古関は「日本化への苦闘」といい、ベアテ・シロタは「日米案翻訳戦争」と書いている。

    早々と白旗を揚げた松本蒸治にかわり、このときの佐藤達夫の奮闘は特筆に値するのではないだろうか。

    佐藤はこの後片山内閣や吉田内閣で法制局長官として活躍し、1962年からは人事院総裁を務めている。
    また、植物研究家としても知られ、多くの花の本を出版したりしていて個人的に親近感を持ってしまう。

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  4. shinichi Post author

    松本烝治

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/松本烝治

    松本 烝治(1877年10月14日 – 1954年10月8日)は、日本の商法学者。東京府士族。法学博士。戦後、憲法草案(松本試案)を作成したことで知られる。

    日本全国に鉄道を敷設することに尽力した松本荘一郎の長男として東京府に生まれる。

    1888年(明治21年)に高等師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)卒業。1894年に高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。旧制一高を経て、東京帝国大学卒業後、農商務省参事官を経て帝大に戻り1903年(明治36年)に助教授となる。

    その後1906年から09年(明治39–42年)にかけてヨーロッパへ留学し、帰国後の1910年(明治43年)に東京帝大教授となる。

    1919年(大正8年)に満鉄理事に就任、副総裁を務めた後、1923年(大正12年)に第2次山本内閣の法制局長官を務めた。1924年(大正13年)1月2日に貴族院勅選議員に勅任される(1946年6月25日まで在任)。また帝国学士院会員に選ばれる。またこの年関西大学学長に就任、1928年(昭和3年)までその職にあった。1934年(昭和9年)に斎藤内閣で商工大臣を務めた。

    1945年(昭和20年)に幣原内閣が成立すると、憲法改正担当の国務大臣として入閣、自ら中心となって憲法草案(松本試案)を作成した。しかしこの草案は内容が保守的にすぎるとしてGHQに拒絶されている。1946年(昭和21年)、満鉄監事を理由に公職追放となった。

    その後は学究活動の傍ら、米国のローファームのような企業法務専門の法律事務所を日本にも根付かせたいと考えて、日本工業倶楽部ビル内に松本烝治法律事務所を開設、幾つもの会社で顧問弁護士や監査役をもつとめてもいる。晩年には東京交響楽団設立委員会会長も務めている。

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  5. shinichi Post author

    宮澤俊義

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/宮澤俊義

    宮澤 俊義(1899年3月6日 – 1976年9月4日)は、日本の法学者。専攻は憲法。東京大学名誉教授。貴族院議員。長野県長野市出身。憲法学の権威と謡われていた。

    美濃部達吉の弟子。美濃部の後継として東京帝国大学(のち東京大学)法学部教授を務め、東京大学退官後は末延三次らと共に、立教大学法学部の創設に尽力した。

    日本国憲法の制定時に学術面から寄与し、後の憲法学界に多大な影響を残した。司法試験などの受験界では「宮沢説」は通説とされ、弟子の芦部信喜以下東大の教授陣に引き継がれている。

    長男の宮澤彬は日本銀行監事を務めた。

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  6. shinichi Post author

    入江俊郎

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/入江俊郎

    入江 俊郎(いりえ としお、1901年1月10日 – 1972年7月18日)は、日本の官僚、政治家、裁判官。法制局長官、貴族院議員、衆議院法制局長、最高裁判所判事。東京都出身。

    府立三中、第一高等学校、東京帝国大学卒業。1924年に内務省に入り、1927年、法制局参事官となる。

    戦後の1945年9月には法制局第一部長、同年11月には法制局次長、1946年3月には法制局長官となり、日本国憲法の立案責任者になった。1946年5月18日、昭和天皇により貴族院議員に勅選された。

    日本国憲法により帝国議会及び貴族院は廃止され、国立国会図書館専門調査員であったところ、芦田内閣期の1948年7月に衆議院の法制局長に任命された。

    1950年、第3次吉田内閣期の衆議院法制局では公職選挙法法案に関する委員会にも出席した。

    1952年8月26日、後任の法制局長が定まらないまま衆議院法制局長を辞職したが、同月30日には吉田茂総理大臣による任命で、史上最年少の51歳で最高裁判所判事となる。この人事に最高裁内部から反発があったが、最終的に内閣は入江の起用を決定し、認証式は那須御用邸で行われた[6]。苫米地事件、チャタレー事件、砂川事件、八幡製鉄事件、練馬事件、朝日訴訟など裁判に関わる。1971年1月9日、定年で退官した。最高裁判事在任期間は18年5か月(6707日間)で歴代1位である(2015年10月現在)。

    退官後は駒澤大学教授を務めた。

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  7. shinichi Post author

    田中耕太郎

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    https://ja.wikipedia.org/wiki/田中耕太郎

    田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 – 1974年(昭和49年)3月1日)は、日本の法学者、法哲学者。法学博士。東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官、国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章、勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲、正二位を追贈された。

    裁判官・検察官であった田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。父の出身地は佐賀県杵島郡北方村(現在の武雄市)。高等小学校2年次に岡山中学入学。次いで父の赴任に従って新潟中学を経て、福岡県立中学修猷館(後の修猷館高校)卒業。修猷館の同期には、青山学院院長、古坂嵓城がおり、親友であった。第一高等学校と海軍兵学校の両方に合格し、父の勧めで第一高等学校へ進学。卒業後は東京帝國大學法科大学法律学科に進学。在学中の1914年(大正3年)には高等文官試験行政科に首席合格している。1915年(大正4年)、東大を首席で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。同期には、唐沢俊樹らがいた。

    内務省に勤務するが、1年半で退官。1917年(大正6年)に東京帝国大学助教授となる。この頃、修猷館・一高・東大の先輩である塚本虎二の紹介で、無教会主義キリスト教の内村鑑三の門下生となっている。欧米留学後、1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任、商法講座を担当した。1924年(大正13年)、商法講座の前任者であった松本烝治の娘峰子と結婚し、峰子の影響によりカトリック信仰の真理性を確信するようになり、1926年(大正15年)4月に岩下壮一を代父として、上智大学初代学長ヘルマン・ホフマンより受洗している。田中はカトリックへの接近に伴って、それまで必要悪とみなしていた法や国家に積極的な意味を見出して研究に意欲を燃やし、そこから商法学における画期的な「商的色彩論」および大著『世界法の理論』をはじめとする豊かな成果が生み出された。1929年(昭和4年)、法学博士の学位を授与される。1937年(昭和12年)、東京帝国大学法学部長に就任する。1941年(昭和16年)5月、帝国学士院(日本学士院の前身)会員に選定される。

    1945年10月には文部省学校教育局長に転ずる。1946年5月に第1次吉田内閣で文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名。6月に貴族院議員に就任。1947年に参議院選挙に立候補し、第6位で当選。緑風会に属し、緑風会綱領の草案を作成。その後も文相として教育基本法制定に尽力した。

    1950年に参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である。長官在任期間は3889日で歴代1位。

    1949年に三淵前長官時代に発生していた最高裁判所誤判事件については1950年6月24日に担当4判事を1万円の過料を科すことで決着させた。

    1953年1月には法曹会の機関誌「法曹時報」に寄稿し、法廷の秩序維持を指摘し「法廷秩序の破壊を目的にした傍聴人の入廷は禁ずる。裁判官やその家族を脅迫する電報などは公務執行妨害や強要罪で処罰する。被告の氏名、住所の黙秘は権利として認められない」など具体例をあげて裁判の維新保持、審理妨害の排除を強調した。

    最高裁長官時代の田中の発言として有名なものとして、松川事件の裁判について、広津和郎が月刊誌『中央公論』で展開していた裁判批判に対し、1955年5月の裁判所の長の合同での「訴訟外裁判批判は雑音である」と述べた訓示や、同事件の最高裁の差戻し審判決の多数意見を「木を見て森を見ざるもの」であるとした少数意見などがある。最高裁判事に思想検事系列の池田克が起用されていたように、「治安維持の一翼」を積極的に担ってゆく方針の下、「公安事件」には厳しい判断を下していった。レッドパージ訴訟では最高裁大法廷の裁判長としてレッドパージを「GHQの指示による超憲法的な措置で解雇や免職は有効」と判決した。1952年の警察予備隊違憲訴訟では最高裁大法廷の裁判長として付随的違憲審査制を採ることを判決した。

    砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、合憲(統治行為論を採用)・下級審差し戻しの判決を下す(1959年12月16日)が、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と外務大臣藤山愛一郎両名による“内密の話し合い”と称した、日米安全保障条約に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に、またマッカーサー大使には「伊達判決は全くの誤り」と述べ破棄を示唆した事が、2011年に機密解除になった公文書に記されている。果ては上告審の日程や結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、機密指定解除となったアメリカ側公文書で2013年4月に明らかになった。当該文書によれば、田中はウイリアム・K・レンハート駐日首席公使に対し、「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに(中略)それ(=駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる」、あるいは「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている。

    1956年2月25日は最高裁裁判官会議で「公権力の行使や国家意思の形成に携わる公務員には日本国籍が必要」との内閣法制局の見解を準用して、外国人を司法修習生に採用しないことを決定して司法修習生の国籍条項を設置した(1977年3月に司法修習生の国籍条項は残したまま「相当と認めるものに限り、採用する」との方針を示し、2009年に国籍条項が撤廃された)。

    長官在任中に上告事件が急激に増えて事件処理が遅れた1957年頃には憲法問題のみを扱う最高裁と民事・刑事を扱う上告裁判所を設置する最高裁機構改革法案に意欲を見せていたが、最高裁機構改革法案は廃案となった。

    1961年から1970年にかけて、国際司法裁判所(ICJ)判事を務めた。5つの事件と1つの勧告的意見に関わり、2つの個別的意見と2つの反対意見を残した。特に、1966年の「南西アフリカ事件」(第二段階)判決に付けた長文の反対意見は、有名であり、非常に権威のあるものとして、今日でもしばしば引用される。ジャーナリストの末浪靖司は、砂川事件差し戻しについて、判決翌年の1960年にアメリカ側にICJ判事選挙立候補を伝え、支持を取り付けている事から、アメリカの論功行賞狙いだったのだろうと見ている。

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