Category Archives: art

墨絵

墨で書いた絵をじっと見ていたら
ないはずの色が見えてきた
絵はモノクロの写真に似て
空は空の色を
雲は雲の色を
内蔵しているかのようだ

日が昇り 光を取り戻した街が
色彩でいっぱいになるように
絵のなかに隠された色が
墨のなかからにじみ出て
墨のないところまで
色づいてゆく

絵の余白に現れた色は
言葉にならないほど 美しい
その色が
色相や明度や彩度で表されることは
ない

こころのなかに あらわれた色は
ぼんやりとして
やがて消えた
目の前の絵は
墨の絵に戻っていたけれど
その墨はもう
前の色ではなかった

芸術

江戸時代までは
芸術という言葉はなかった
言葉がなかったくらいだから
芸術家もいなかった
もちろんアートはなく
アーティストもいなかった

絵師や彫師や摺師はいた
浮世絵師と呼ばれる人もいた
でも芸術家やアーティストはいなかったのだ

明治時代になるまでは
美術という言葉もなかった
明治政府は
 音楽画学像ヲ作ルノ術詩学等ヲ美術ト云フ
と定め
 美術の字穏当ならずと雖も 今姑く之を襲用す
などと言ってその場を凌いだ

宮大工 家大工 建具師 指物師 曲物師
そんな職人をアーティストと呼んだら
せっかくの出来上がりがウンチクばかりになってしまうし
庭師をアーティストと呼び 庭をアートと言えば
庭から情緒が消え 庭園になってしまう

私たちの場所には芸術はいらない
もちろんアートなどいらない
大事なことは職人がやってくれる
語る人はいらない

君への気持ちを言葉にして伝えるのは なにか違う気がする
芸術もアートも必要ないように 言葉も必要ない
言葉にした途端 本当のことが本当でなくなる
君への気持ちが嘘になる
だから伝わることを期待して ただ 佇む
伝わらないことは承知で ただ ただ 佇む

文化施設

海を見下ろす高台に並べられたものたちが
なぜかアートと呼ばれ
インターネットから事前に入館料を払った人たちが
決められた時間に見学に来る

神社にあった石は
神社にあってこその石なのに
神社とは関係ない場所に置かれ
アートというものに成り下がっている

寺の門は
寺の入口にあってこその門なのに
寺とは関係ない場所に建ち
アートになっている

石舞台のミニチュアは
なんの神秘も感じさせず
茶を点てることのない茶室は
なんの輝きも持たない

人の立つことのない舞台に
立とうとしたら
監視員が飛んできて
立たないでくださいと丁寧に咎める

雨音を聞くためというトタンの屋根は
わざとらしさをあざとく纏い
衣食住を感じさせない場所では
無機質なものたちが自然を演出する

気持ち悪いくらいに整った庭
反射することのない硝子
錆びることのない錆びた感じの鉄
雨が降ると濡れた感じになる石

散歩のために用意された見せかけの竹林と
収穫がショーになる蜜柑の木と
歩きにくそうなのに歩きやすい石畳とが
アートらしきものを観光の道具にする

ここを訪れて思い出したのは
美術館に置かれて拝まれることのなくなった仏像
移設されて住む人のいなくなった住宅
シナリオ通りに進むスポーツというショー

そこにいることに腹を立てながら
見える海をきれいだと思い
バカらしいと思いながら
写真を撮る

こんな気持ちにさせるのも
計算のうちなのだろうか
そう思って前を見たら
係員とわかる人が微笑んだ

雨が降っていたならば
月が照っていたならば
そう思って空を見上げていたら
送迎バスがやって来た

誰がために

聴く人のいない音楽や
見る人のいない映画は
読む人のいない物語に似ている

聴く人が
メロディーを変えることはなく
見る人が
映像を乱すこともない
読む人が
物語に入り込むなんてありえない

出来上がった音楽は
譜面の上にあり
出来上がった映画は
ディスクのなかに埋もれ
出来上がった物語は
紙の上で固まっている

録音されなかった音楽は
演奏するたびに異なった音を紡ぎ
撮影されなかった演劇は
上演されるたびに台詞が違い
紙の上に固定されなかった物語は
語られるたびに彩を変えた

聴く人を知らない音楽には
興奮や喜びがなく
見る人を知らない映画には
笑いも涙もない
受けとる人を知らない物語は
始まる前から終わっている

流れのない音楽には
淀みしかなく
画面の変わらない映画には
輝きはない
心のない物語からは
事実しか伝わってこない

それでも人は
聴く人のいない音楽を編み出し
懲りることなく
見る人のいない映画を制作し
あてどなく
読む人のいない物語を書き続ける

聴いてほしい人は自分の音楽に酔っていて
他人の音楽を聴くだけの余裕はなく
見てほしい人は映像の制作で手いっぱいで
他人の映画を見ることなど考えない
読んでほしい人は書くことに夢中で
他人の物語を読む時間を持たない

音楽も映画も物語も
みんなみんな自分のため
作り手も自分のため
受け手も自分のため
でもそのほうが
他人のためというよりも
ずっといいのかもしれない

岡倉天心

実に遺憾にたえないことには、現今美術に対する表面的の熱狂は、真の感じに根拠をおいていない。われわれのこの民本主義の時代においては、人は自己の感情には無頓着に世間一般から最も良いと考えられている物を得ようとかしましく騒ぐ。高雅なものではなくて、高価なものを欲し、美しいものではなくて、流行品を欲するのである。一般民衆にとっては、彼らみずからの工業主義の尊い産物である絵入りの定期刊行物をながめるほうが、彼らが感心したふりをしている初期のイタリア作品や、足利時代の傑作よりも美術鑑賞の糧としてもっと消化しやすいであろう。彼らにとっては、作品の良否よりも美術家の名が重要である。数世紀前、シナのある批評家の歎じたごとく、世人は耳によって絵画を批評する。今日いずれの方面を見ても、擬古典的嫌悪を感ずるのは、すなわちこの真の鑑賞力の欠けているためである。

佐藤達夫

扱った植物は、庭で育てたものや、次女のいけ花のおさがりや、東京ちかくの野や丘で採取してきたものなど、ごく身ぢかなものが大部分である。我流の、まったくお恥ずかしい絵だが、すべて実物をお手本にいっしょうけんめいに描いた。へたながらも、草木にたいするわたしの愛情がすこしでも滲みでていたらうれしいと思う。
忙しい公職をもつわたしが、こんなのんきな本を出したりすると、いかにも、本職をおろそかにして、わき道に熱中しているように誤解されそうである。しかし、これは、まったく業余の息ぬきであり、ひとさまがゴルフや麻雀を楽しみ、野球放送などに興じておられる時間をあてての、わたしなりのレクリエーションなのだから、このくらいのあそびは許していただけるだろう。

STEM to STEAM

In this climate of economic uncertainty, America is once again turning to innovation as the way to ensure a prosperous future.
Yet innovation remains tightly coupled with Science, Technology, Engineering and Math – the STEM subjects. Art + Design are poised to transform our economy in the 21st century just as science and technology did in the last century.
We need to add Art + Design to the equation — to transform STEM into STEAM.
STEM + Art = STEAM
STEAM is a movement championed by Rhode Island School of Design (RISD) and widely adopted by institutions, corporations and individuals.
The objectives of the STEAM movement are to:

  • transform research policy to place Art + Design at the center of STEM
  • encourage integration of Art + Design in K–20 education
  • influence employers to hire artists and designers to drive innovation

山口周

課題を解くアプローチとして、私が考えているのが、「サイエンス」「クラフト」「アート」の3つです。サイエンス、つまり科学的アプローチで解決できるのは、いわゆるマニュアル業務でしょう。LABORの場合、既存のマニュアルに頼れば一定の仕事の成果を上げることができます。
ところがCEOに近づくほど、サイエンスでは解けない問題が増えていきます。ここで次に頼るのが「クラフト」です。これはいわば経験や勘によるアプローチ。マニュアルに書かれていない課題にぶつかったとき、クラフトが活きてくる場面は少なくないでしょう。
ところが、現代のように変化が早い時代に入ると、クラフトを使っても対応できない課題が増えてしまう。過去の成功体験のとおりやってみても、前提となる社会環境が変わってしまっているため、うまくいかないのです。
サイエンスで解けず、クラフトも効かない――。そんなとき最後に頼るアプローチが、内在的に「真・善・美」を判断する美意識による「アート思考」です。今、世界のエリートたちが早朝のギャラリートークに参加して美意識を鍛えているのも、単に教養を身につける目的ではなく、ビジネス上の極めて功利的な目的によるものなのです。

Arthur Schopenhauer

Never in my life having enjoyed the true happiness of love I shall erect a memorial to this loveliest of all dreams in which, from the first to the last, love shall, for once, find utter fulfillment.

Carol Vogeldec

In the preface to his only novel, “The Picture of Dorian Gray,” Oscar Wilde famously proclaimed that “all art is quite useless.” The statement seemed so intriguing to a contemporary, an Oxford University student named Bernulf Clegg, that in 1891 he wrote Wilde asking him where in his other work he “may find developed that idea of the total uselessness of all art.”
Wilde, not directly answering Clegg’s question, responded: “Art is useless because its aim is simply to create a mood. It is not meant to instruct or influence action in any way. It is superbly sterile, and the note of its pleasure is sterility.

いけばな嵯峨御流

日本は美しい自然に恵まれ、四季折々の風景は心の安らぎを与えてくれます。昔から人々は、常に変化していく植物の美しさを瓶に移し、神仏に捧げ、花と語らい、そして少しでも長もちさせたいと考えました。

そこにより深い感動を持たせようとしたとき、芸術としての「いけばな」が生まれたのです。


平安の初め、嵯峨天皇が大覚寺の大沢池で、菊ガ島に咲く可憐な菊を手折り殿上の花瓶に挿されました。その姿が「天、地、人」三才の美しさを備えていたことに感動され、「後世花を生くるものは宜しく之を以って範とすべし」とおっしゃいました。これがいけばな嵯峨御流の始まりであると伝えられています。嵯峨天皇の自然や草木に対する慈しみの心が、嵯峨御流の礎になっています。

熊田千佳慕、熊田すぎ子

熊田   一番のもとは戦災で焼けたということなんです。これが僕にはとても福になったんです。
熊田夫人 五月二十九日の空襲は朝でしたから、物を防空壕へ非難させる暇がなかったんです。朝起きない人で、普通は早く起きてきても十時ですから、まだ寝ていたんです。
熊田   きれいさっぱり焼けてしまったので、師匠の山名文夫先生の所に行ったら、全部道具を集めてくださったのです。いつもなら素直にいただいてくるのに、何か抵抗があるんですね。「鉛筆一本で結構です」と言うと「えっ!」とびっくりされた。消しゴムも要らない。鉛筆一本と紙をいただいて帰ってきたんです。
そしたら一本の線を引くにも、普通の方は何本も引いて要らないところは消して一本の線を引く。それができないから、物を見るときによく見るんですね。見て、もう一つは見つめるんです。そして最後に、あっ、これだと見極める。見て、見つめて、見極める。このプロセスを神から授かったんですね。
それで、あっ、この線だなと思うときにスッと引く。こういうスケッチがそれから始まったんです。そこまでいかないといけない。そうすると頭に入りますね。そういう環境にならなかったら、今の絵はなかったわけですよ。

小西麻美


青花 梅竹山水人物文 八角水滴: 青花とは、中国や朝鮮での染付の呼び方。酸化コバルトを発色の主成分とした呉須顔料で絵付けを施したやきもののこと。側壁に梅と竹、上面に山水文をあらわした、八角に面取りされた水滴です。水滴とは、硯に水を注ぐための容器。傾けることで、側面についた小さな注ぎ口から、少量の水を差すことができます。面をきっちりとった潔い器形ですが、手取りは重く、安定感があります。加えて、上面に厚く掛かった釉薬が、青花の青色と良く馴染み、柔らかい発色となっているのが特徴。シャープな器形ながらも、角のとれた上品さも兼ね備えている作品です。

Bianca Bromberger, Rebecca Sternschein, Page Widick, William Smith, II, Anjan Chatterjee

Historically, art and esthetics have been well ensconced in the humanities and have not been considered seriously within the sciences. Fechner (1876) began the field of empirical esthetics. More than a century later, neuroscience is playing catch-up, and is finally coming of age (Skov and Vartanian, 2009; Chatterjee, 2011). Theoretical positions and a few books linking neuroscience to art have appeared (Ramachandran and Hirstein, 1999; Zeki, 1999; Livingstone, 2002; Chatterjee, 2004a). Empirical studies using imaging techniques looking at our responses to beauty (Aharon et al., 2001; Ishai, 2007; Winston et al., 2007; Chatterjee et al., 2009) as well as to different kinds of artwork (Kawabata and Zeki, 2004; Vartanian and Goel, 2004; Jacobsen et al., 2005; Ishai et al., 2007; Cela-Conde et al., 2009) are being published. Recent conferences devoted to art and neuroscience (Nadal and Pearce, 2011) attest to the growing interest in the biology of esthetics. In this paper, we examine the state of one important aspect of neuroesthetics, the neuropsychology of art (Chatterjee, 2004b; Bogousslavsky and Boller, 2005; Zaidel, 2005). We outline reasons that this aspect of neuroesthetics has been relatively undeveloped and report our initial attempts to rectify this situation.

Fernando Pessoa

Art consists in making others feel what we feel, in freeing them from themselves by offering them our own personality. The true substance of whatever I feel is absolutely incommunicable, and the more profoundly I feel it, the more incommunicable it is. In order to convey to someone else what I feel, I must translate my feelings into his language – saying things, that is, as if they were what I feel, so that he, reading them, will feel exactly what I felt. And since this someone is presumed by art to be not this or that person but everyone (i.e. that person common to all persons), what I must finally do is convert my feelings into a typical human feeling, even if it means perverting the true nature of what I felt.

Ruben Östlund

So many directors kill people left and right. I have never experienced anything like that in my life. And I want my films to be true to my experience.

深澤直人

俳句は、いいものがあって詠むわけではなくて、特別ではない、ふつうの領域が、妙にアーティスティックに高まるということがすごい。きっとデザインと同じように、何らかのことを入力したり考えたりしていたことが、ある瞬間に、ふっとひとつの調和した線みたいなものが見えたときに、ポンとでるのかなあ。デザインと俳句はすごく似ているんじゃないかと思います。

France

1 % des sommes consacrées par l’État pour chaque construction d’établissement scolaire ou universitaire devra financer la réalisation d’une œuvre d’art contemporaine intégrée au projet architectural.

Les communes, les départements et les régions doivent consacrer 1 % du montant de l’investissement à l’insertion d’oeuvres d’art dans toutes les constructions qui faisaient l’objet, au 23 juillet 1983, date de publication de la loi n° 83-663 du 22 juillet 1983 complétant la loi n° 83-8 du 7 janvier 1983 relative à la répartition de compétences entre les communes, les départements, les régions et l’Etat, de la même obligation à la charge de l’Etat.

東信(あずま まこと)

AMKK(東信、花樹研究所)とは、フラワーアーティスト東信の花・植物を題材とした実験的なクリエイションを展開していく集団であり、その活動は、花・植物のみが有しているもっとも神秘的な形を見つけ、それを芸術的レベルに変換し表現する事で、植物の存在価値を高める事に一貫している。

篠山紀信


想像を超えた美の存在に遭遇したとき、僕は近未来の迷宮にいるような不安を感じる。この心の動揺こそが僕に写真を撮らせているようだ。

水野聡

経典に「善悪不二、邪正一如」とある。本来良い・悪いなど何をもって定めるのか。ただ時により用に足るものを良い、足りないものを悪いとするだけのこと。この芸の品々というものも、その時代の人々所々により最大多数の好みによって、受け入れられるものが用に足りるため、花となるのだ。ここではこれこれの芸がもてはやされ、あちらではまた別の芸が愛される。これぞ人それぞれの心に咲く花である。いずれがまことの花であろうか。ただ時が選ぶもの、これを花とすべきである。

中田勝康

禅宗で盛んになった水墨画では小さな紙一枚に宇宙を現した。庭園でも同様に方寸の地に宇宙を象徴した。坪庭は建物の間にある、暗くて狭い場所である。このような限られた場所に、禅の物語を盛り込む事は究極の抽象性が求められる。まさに現代抽象芸術だ。

隈研吾

金閣は義満の時代、幕府に力があり、高度成長の時代、権力者が造った。
それに対し数10年しか隔ててないにもかかわらず、すとんと時代(空気)が変る。
義政の時代はバブル崩壊後の日本のような時代。
悪条件の中、美学で反転するような生き方がデザインにあるのではないか。

銀閣の全体のレイアウトでおもしろいのは、例えば2階からの視点、その上にあったといわれる草庵からの視点とかいくつかの視点があり、それらの視点から感じられる世界が立体的に重ねあわされている。
胎蔵界曼荼羅、母胎の胎、母なる宇宙に抱え込まれるみたいな感じが全体の地形にある。
義政は地形の読み方や宇宙の読み方に関して長けたデザイナーだった。

Deyan Sudjic

Kawakubo talks of her admiration of Le Corbusier, and it is not too farfetched to see the influence of his purist Modernism in her own abstraction of fashion into the fundamentals of texture, form and colour.’ Through her examination of clothing as a cerebral and emotional construct, there is a direct line back to the works of the architect. In the strangeness that imbues her pieces, we find her highly personal take on how to live.

辻惟雄

わびさびが茶の湯や禅と結びついて日本の美の主流とされる一方、「かざる」美は低く見られてきた。この年になると、わびさびもわかってきますけど(笑)。でも、茶人の小堀遠州が「綺麗さび」を掲げたように、両方を対照的に見せて引き立てる考え方もありました。
それに、「遊び」も日本美術の特質。奇想の画家たちは皆、見る人の笑いを誘う仕掛けを忘れません。歌川国芳は漫画家みたいだし、若冲の水墨画も、長沢蘆雪(ろせつ)が描く虎も遊んでる。世俗的な江戸美術はエンターテインメントという言葉がふさわしい。
美術は堅苦しく学ぶものではない。絵を見る、絵を描く、美術館に行く…アートの世界に首を突っ込むと、ちょっと違う世界が広がる。大げさだけど、生きる喜びにつながると思うんです。

平田オリザ

無駄のない社会は病んだ社会である。すなわち、芸術家のいない社会は病んだ社会だ。かつては村落共同体に芸術家が偏在したが、共同体の崩壊とともに芸術家の存在も消え失せた。だから、日本は病んだ社会だらけということになる。多様性、重層性のある社会は民主主義の根幹である。それを保証するためには、どうしても芸術家の存在が地域社会のなかで必要なのだ。

Shōji Hamada

Visitors to the folk craft museum in Tokyo often complain of the brevity of the descriptions of the objects, written in red on black lacquer tablets, saying that this is inconsiderate and insufficient. Yanagi always insisted that this was a greater kindness because it helped visitors to develop their own perceptions instead of Yanagi always insisted that this was a greater kindness because it helped visitors to develop their own perceptions instead of relying upon written words and other people’s ideas.

志條みよ子

なにかといえばすぐに原爆々々といまだにいわれている。原爆を書かない小説や原爆を取上げない絵画は広島の人間に限り、真の作品ではないごとくいわれている。七年も経った今日、もう昔のことと忘れ去ってしまえというのではないけれど、しかし、もうそろそろ地獄の絵を描いたり、地獄の文章ばかりをひねり上げることからは卒業してもいいのではないか。科学や政治の世界にまで、芸術の神髄が真実の文学が、低迷して行ってはならないと思う。
原爆は、科学であり、政治であり、なに物かへの一つの道具ではあるが、芸術ではない。

湯浅ちひろ

芸術は時に私に喜びを与えてくれました。しかし、芸術だけが喜びを与えてくれたわけではありません。そもそも、芸術は都市にしか存在しないものです。本来、自然とともに生きていくべき動物である人間達が都市に住むことで規律を守り、ストレスを抱え、秩序を乱すものを排除する・・・それを芸術に頼り、芸術で美しさを補い、さらなる刺激を求めているだけなのです。それにもかかわらず、多くのアーティストたちは自分が神になっているような高揚感を覚え、芸術を絶対とし、宗教よりも強く崇拝するようになるのです。
三年ほど前、エジプトのオアシスで砂漠生活をしていたことがありますが、遊牧民の彼らはアート、芸術、そんな言葉を必要としていませんでした。砂漠に沈む太陽を見て、祈り、毎日見ているはずの光景に今日も美しいと言っていました。自然のものが一番美しいとは言えませんし、砂漠に一生は住みたいとも思いませんが、芸術という単語が存在しない異世界がそこにはありました。
芸術は脳の投影を作品にする行為です。私たちは東京と言う大都市に生きているわけですが、完全なまでに不自然な暮らしの中で芸術がカオスに混沌になっているのは理に適っているわけです。

坂東玉三郎

Tamasaburo何かきっかけがあって、人はその出来事をまず「感受」します。やがて、それが自分の頭脳に、いわゆる感情として「浸透」していき、その結果「反応」が生まれてくるわけです。これは生理的に行われるものなのですが、それを意識的に作っていくというのが演技なのです。したがって、演技をする、つまり感情をリメイクしていくというためには、「感受」、「浸透」、「反応」の3つの過程が必要だということになります。
「感受」ですが、これは五感のことです。つまり、見る、聞く、においを嗅ぐ、味を感じる、そして肌で感じる。そして、その場の状況や「感受」した出来事や衝撃、あるいは誰かの行為に対して五感が受けた刺激の大小によって、その人の血圧や脈拍が反応して、浸透の速度が決まるわけです。その結果、自分の身体を使って、人間は「反応」していくわけです。
「演技」をする上で、もう一つ大切なことがあります。それは、内的感情というか、内的煥発とでもいうものです。自分の心の内からこみ上がってきたものに、不意にハッとすることがある。つまり、そこで内的感受ということが起きるわけです。

荒井修

A-9私は親方から仕立てをぜんぶ習って帰って来たんだけど、絵はこれといって習ってなかった。で、独学でやっちゃったんです。箔押しから何やら。だから、あたしに絵を教えたという人はあんまりいないの。ほとんどいない。ただ、しいていえば、感覚的なものはたぶん、私の絵の師匠は、玉三郎さんかもしれない。
坂東玉三郎という人に、「もうちょっと、ここを、こう逃げて」とか、「色は、そうじゃない方がいいんじゃない」とかって、話してもらいながら、最初はずいぶんいろいろ教わったんです。