田辺聖子

 光源氏、光源氏と、世上の人々はことごとしいあだ名をつけ、浮わついた色ごのみの公達、ともてはやすのを、当の源氏自身はあじけないことに思っている。
 彼は真実のところ、まめやかでまじめな心持の青年である。
 世間ふつうの好色物のように、あちらこちらでありふれた色恋沙汰に日をつぶすようなことはしない。
 帝の御子という身分がらや、中将という官位、それに、左大臣家の思惑もあるし、軽率な浮かれごとはつつしんでもいた。左大臣は、源氏の北の方、葵の上の父である。源氏は人の口の端にあからさまに取り沙汰されることを用心していた。この青年は怜悧で、心ざまが深かった。
 それなのに、世間で、いかにも風流男のようにいい做すのは、人々の(ことに女の)あこがれや夢のせいであろう。
 彼の美貌や、その詩的な生いたち──帝と亡き桐壺の更衣との悲恋によって生まれ、物心もつかぬまに、母に死に別れたという薄幸な運命が、人々の心をそそるためらしかった。

3 thoughts on “田辺聖子

  1. shinichi Post author

     光源氏、光源氏と、世上の人々はことごとしいあだ名をつけ、浮わついた色ごのみの公達、ともてはやすのを、当の源氏自身はあじけないことに思っている。
     彼は真実のところ、まめやかでまじめな心持の青年である。
     世間ふつうの好色物のように、あちらこちらでありふれた色恋沙汰に日をつぶすようなことはしない。
     帝の御子という身分がらや、中将という官位、それに、左大臣家の思惑もあるし、軽率な浮かれごとはつつしんでもいた。左大臣は、源氏の北の方、葵の上の父である。源氏は人の口の端にあからさまに取り沙汰されることを用心していた。この青年は怜悧で、心ざまが深かった。
     それなのに、世間で、いかにも風流男のようにいい做すのは、人々の(ことに女の)あこがれや夢のせいであろう。
     彼の美貌や、その詩的な生いたち──帝と亡き桐壺の更衣との悲恋によって生まれ、物心もつかぬまに、母に死に別れたという薄幸な運命が、人々の心をそそるためらしかった。
     帝にはあまたの女御やお妃がいられたが、誰にもまして熱愛されたのは桐壺の更衣であった。夜も昼もお側からお離しにならず、世間は玄宗皇帝と楊貴妃の例まで引き合いに出して噂するほどであった。まして、他の後宮(こうきゅう)の女人たちの嫉妬やそねみはいうまでもない。
     心やさしい桐壺の更衣は帝のご愛情だけを頼りに生きていたが、物思いがこうじて病がちになり、ついにはかなく、みまかってしまった。
     帝のお悲しみはいうまでもない。更衣の心ばせの素直でおだやかだったこと、姿かたちの美しさ、物腰の優雅でゆかしかったことなど、それからそれへと思い出されると、いまも面影が目の前に立つようで、
     (人のそしりを受けてまで更衣を寵愛したのも、所詮は添いとげられぬ、みじかい縁であったからだろうか)
     と、涙に沈まれるのであった。
     更衣の遺した御子はそのころ三つで、光り輝くような美しさだった。母君の死も分からず、涙にくれていられる父帝を、ふしぎそうに見守っていた。
     帝は恋人の忘れがたみであるこの若宮を東宮にお立てになりたかったのであるが、しっかりした後見人もなく、政治的な後ろ盾もない上に、世間が納得するはずもなかった。そういうことを仄めかされたら、かえって若宮の身に危険が及ぶと判断されて、色にもお出しにならなかった。若宮は母の実家で、祖母に養育されたが、六つの年にその祖母も亡くなった。
     このときは物心ついていたので、若宮はおばあちゃまを亡き慕った。
     肉親に縁うすい、可憐な若宮を慈しまれた帝は御所に引きとられ、お手もとで育てられることになった。学問にも芸術にも秀で、たぐいまれな美しい少年は、宮中での人気者となった。
     そのころ、高麗人の人相見が、若宮を見て首をかたむけておどろいたことがあった。
     「ふしぎでございますな。この御子は天使の位に昇るべき相がおありですが、そうとしてみると国が乱れ、民が苦しむことになりましょう。国家の柱石として国政を補佐する、という方面から見ますと、また、ちがうようにも思われます」
     帝はお心にうなずかれるところがおありであった。かねて若宮を、親王になさらなかったのも、深いお考えのあることだった。皇族とは名ばかりで、後楯も支持者もない不安定な人生よりは、むしろ臣下に降して朝政に参与させた方が、将来の運も開け、才能も発揮できるであろうと判断されたのであった。
     元服した若宮は、源氏の姓を賜わり、いまはもう「宮」ではなく、ただびととなった。──みずからに結った髪を解いて、冠をいただいた源氏は、「光君」というあだなの通り、輝くばかり美しかった。
     亡き更衣が、これを見たらどんなに喜ぶであろうかと、帝は耐えられず、ひそかに涙をこぼされるのであった。そのかみの帝と更衣との激しい恋や、更衣のはかない死など、昔の事情を知っている人々は、成長した源氏の姿に感慨をもち、涙ぐむのであった。
     源氏には、ほかの人間にない陰影があるというのは、その過去のせいである。
     生い立ちにある、父と母の情熱の火照りがいまも彼の身のまわりにゆらめいている。彼が身じろぎするたびに、妖しいゆらめきが放たれる。人はそれに酔わされ、魅惑される。
     ことに彼の匂うような美青年ぶりは、ほんの一挙手一投足でも、らちもない噂をさざ波のように走らせずにはおかない。
     源氏は身をつつしみ、まめやかに内輪にしていた。
     源氏の本心は、心の底に苦しい恋を秘しかくしている。そのため、ありふれた色ごとに身をやつす気にはなれないのだった。
     といっても、さすがに折々は、風変わりな、屈折した恋に出あうと、心をそそられることがないともいえないけれど……。
     空蝉という人妻と忍び会ったのも、思えばその、風変わりな、点を面白く思ったためであろう。
     夏のころで、夜は暑く、しのぎにくかった。
     源氏は左大臣の邸へ出かけた。
     ふだんはほとんど宮中へ詰めているが、私邸の二条邸にいる。葵の上の、左大臣邸へ出かけるのは、妻とすごすことよりも、義父の左大臣がよくつくしてくれる心遣いに、こたえるためである。
     「さびしいのですよ……」
     と、源氏はいつか、これも秘めた恋人の一人、六条御息所(みやすんどころ)に、そっとうちあけたことがある。
     御息所は先年、みまかられた皇太子の妃で世が世なら、皇后の宮に立たれるべき方だった。皇太子亡きのち、世を避けてひっそりと過ごしていられる高貴な女人と、源氏は、いつか人目をしのぶ仲になっている。
     源氏が、かるがるしい路傍の色恋沙汰に目もくれぬ、というのは、こういう、世をおそれ人目をはばかる気むずかしい恋の方が、気に入っているせいなのだった。
     「もうすこし妻が、世間ふつうの夫婦のようにうちとけ、泣きも笑いもし、怨みごとをいってもくれるならば、あの邸へいくのも、なんぼうか楽しみにもなりましょうが……」
     「それは、あなたの浮気ごころに拗ねていらっしゃるのではなくて?」
     と、貴婦人は笑いながらいった。
     「そんな、かわいいところはないのですよ。いい家柄のうまれで人にかしずかれ慣れて、女らしい心もちを失ってしまったのかもしれない……いやいや、高い身分に生まれても、あなたのように、情緒ぶかい方もあるのだ。これは人それぞれの、うまれつきですね?……」
     「さあ、どうですか。わたくしは北の方を存じあげませんもの。女が女のことをとやかくいうのは、はしたないことですわ……」
     源氏は、妻の邸へきて、ひそかに情人とのたのしかった会話など、思い返している。あの年上の、高雅で洗練された貴婦人と一夜をすごす方が、いくらうれしいかしれはしない……源氏は、葵の上が挨拶に出て来たきり、引っこんでしまったので所在なく、気の利いた若い女房たちを相手に冗談などいって、時間をつぶしていた。

     日が昏れてから、今夜は、この邸は方角がわるいので、方たがえにいらっしゃらなければ、と近臣たちや女房がさわぎたてた。
     じつは源氏はそれを承知で、左大臣邸へ来たのだ。はじめから方違えにいっては、またどこぞのかくしたゆき先があるのではないかと、左大臣たちの方が気を揉むのにちがいなく、片はらいたくも気の毒に思うせいである。
     「疲れたよ、もう、いい」
     などと却って源氏は横になってしまう。
     「それはいけません。不吉でございます。紀伊の守の邸はいかがですか、涼しそうですから……」
     などすすめられて、源氏は「面倒だな」としぶしぶ、出かけた。ほんのわずかの供廻りだけで、身を忍ぶようにして出ることにする。
     紀伊の守は恐縮し、光栄にも思って大いに心を使って接待した。
     川の水を堰入れて涼しげな邸である。田舎風に柴垣などめぐらし、夏草の繁みに蛍など飛び交って、水辺のさまが、いかにも涼しかった。
     酒をすこし飲んで、かりの居場所にしつらえた寝殿の人隅に休んでいると、奥の方で、ひそひそと女たちのささやきがきこえる。
     (紀伊の守が、親族の女どもが来ておりますので、とことわっていた、あれだな……)
     と源氏は思った。
     紀伊の守の父、伊予の介のわかい後妻の一行らしかった。
     女の衣ずれの音がさらさらして、忍び笑いなどしている。
     源氏はそっと立って、襖障子のかげで耳をすました。
     女たちは母屋にいて、ひめやかに話している。
     「まじめぶっていらして。お年のお若いのに、もう立派なところの姫君を北の方にしていらっしゃるなんてつまらないわね」
     「わかるものですか、かげではお忍びの恋人がいくたりもおありという噂よ……」
     自分のことだ、と源氏は思った。女たちは「秘めた相手」の噂の名をあげはじめた。当っているのもあり、当らぬのもある。源氏が式部卿の宮の姫君に贈った歌を、すこしまちがえていう者もいた。
     源氏は「あの人」の名が出ないかと、一瞬ドキッとして、心のつぶれる思いを味わった。
     それは、六条御息所ではないのだった。源氏自身でさえ、その名を唇にのぼらせられない。
     女たちは、伊予の介北の方の女房らしかったが、こんなにうかうかした噂ばなしを喜んでするなら、女あるじの、その北の方も、すこし見劣りする人柄かもしれない。しかし、源氏は、その北の方がまだ娘の時分、親が、宮仕えさせたいと希望していたという噂を思い出し、どんな女か、見たいと思った。
     父親が、早く亡くなり、宮仕えどころか、今は親子ほどにも年のちがう、一介の受領(ずりょう)(諸国の長官)の後妻になってしまったのを、その女はどう思っているのであろうか。
     親がそんなに期待をかけていたくらいだから、美しかったのかもしれない。あたら美人が、惜しいことだ……などと源氏は思ったりしている。それからそれへと想像はふくれ上がってゆく。

     美しい夏の夜は更けていった。給仕にでた少年がかわいいので目をとめていると、紀伊の守が、
     「継母の弟でございます……」
     という。
     「幼くして父におくれましたので、姉につながる縁でここに来ております。殿上童など望んでおりますが、父も亡く、つてもないので、うまくいかないようでございます」
     「かわいそうに。この子の姉さんが君の母上とは、また、不似合いに若い親だね。その人の父は、娘を入内させたいといっていたそうではないか。それが君の若い継母になるとは、男女の縁というのはわからないものだね」
     源氏は若いくせに、老成した口を利いた。
     「まことにさようで。思いがけず、父と結婚したのでございます。世の中はわからぬものでございますな。とりわけ、女は、流されゆくままの運命で、思えばあわれなものでございます」
     「それはもう、いうまでもございません」
     と、紀伊の守はにがにがしそうにいった。
     「内心、妻を主人と崇めているようでござます。いい年をしてでれでれしておりますので、私はじめ子供たちはみな、反撥しておるのでございます」
     「といって、君たちみたいな似合いの年頃の、当世風の若者にゆずるものか。伊予の介はあれでなかなか粋な中年男だからね」
     源氏はかるく、
     「……その人たち、どこにいるのだね」
     と聞いた。
     「下屋にさがらせましたが、まだいる者もあるかもしれません」
     紀伊の守はそういった。
     酒がまわったとみえ、供の人々はみな、濡れ縁に臥して寝静まった。
     源氏はおちついて寝ていられない。あたらせっかくの夜を独り寝かと思うと目が冴えてくる。北の障子の向うに人の気配がするので心ひかれてそっと起き、立ち聞きしていた。あたりは、あやめも分からぬ闇である。「お姉さま……どこなの?」
     という澄んだ女の声は、少年によく似ているので、これが例の女人か、と源氏はうなずいた。少年はひそひそと、
     「ええ、廂の間で。噂どおり、光るばかりの美しい方でした」
    「そう……昼間だったら、そっと拝見するんだったけれど……」
      と、女は夜着をかぶったのか、くぐもった声でいう。「ああ暗い。じゃ、ぼくわここでねます」
     少年はそういい、灯をかきたとたりしているらしく、ぽっと明るくなる。
     「中将はどこへいったの?」
     女は、女房の名をあげてきき、すると彼方の闇で寝ているらしい女が、
     「お場を使いにまいりました。すぐ参いますと申していました」
     とねむそうに答えていた。
     深沈と、あたりは静まり、濃い闇ばかりが邸うちにたれこめている。
     源氏障子の掛金をはずしてみた。
     向うの部屋からは僥倖にも、鍵はかかっていない。
     几帳で灯りを遠ざけている。唐櫃らしいものがいくつか、それに女の着物、ごまごました道具がある中を、そっとあるいてゆくと、小さなかさで取せっている女がいる。
     女はうとうとと、寝入っていた。うすい衣を、顔にかけていたのを、そっとはぎとられたが、女房の中将かと思い、しどけないままでいた。
     「中将をお呼びになったでしょうt……。私の思いが届いたのだと思うとうれしくて」
     と源氏は声をひそめていった。
     女は夢ともうつつともわからない。
     声をあげようとしたが、男の袖が、顔にふれて、声にならなかった。源氏は声を低め、 「出来心と思われるかもしれませんが……そうではないのですよ。年ごろ、ずっと、あなたを思っていたのです。得がたい折と思うともう、辛抱しきれないで。決して、あさはかな心持ではないのですよ」
     と、しめやかにものをいう。女はさわぎ立てることもできず、とっさに動転しながら、
     「お人ちがいでございますよ」
     というのも、かすれがすれの、可憐な声だった。
     「まちがうわけはありませんよ……恋する者の直観でわかります。誓って失礼なことはしません。日頃の思いを聞いて頂きたいだけですよ」
     源氏はささやいて、小柄な空蝉の体を難なく抱きあげ、障子口まで来た。と、向こうから中将とよばれた召使がやってくるのにばったり出あってしまった。あ、という源氏の声と、たきこめた彼の衣の香に、中将は動転したが、並の男なら女主人のために力をこめて押しとどめることできようけれど、高貴な身分の源氏では、あながちな振舞いもできない。あ人に知られても、女あるじのためにはよくないことだった。おろおろしてついてゆくと、源氏は静かに母屋の寝所にはいり、女をおろして襖障子をしめ、中将を見返りもせず、
     「あけ方、お迎えに来るように」
     といい捨てた。
     空蝉は、外の中将が何と思うであろうかと、身を切られるように切なく、羞(は)ずかしかった。源氏のものなれた態度は、いままで何度もこうした経験を経た、恋の手だれであることを示している。自分も、そういう女のひとりと思わたのかと、空蝉は矜を傷つけられて心は熱くなった。
    源氏はさまざまに、ロあたりのいい言葉をえらんで、甘美な毒のように耳もとにそそぐ。「どうしてこんなに、あなたに執着してしまったものか、われとわが心がわかりませんよ……世間によくある好き者の常套文句と思いにならないでほし……」
     などという言葉も、ふと、真実かしら?
    と思わせる、しめやかなひびきがある。
     それは空蝉の心をからめてしまう。匂うばかりに色濃い源氏の美しさや、真実から嘘へ竝のように色うつりしてゆく、目くらむようなくどき文句のときめき、遠い任地にいる天を心の隅に意識している罪のおびえ、更には、夫にはない 放自在な源氏の若々しいそれらに、空蝉は殆ど惑乱して、まるで呪術にかかったょうにぼうっとする。
     しかし、男の魔力が強ければ強いほど、空蝉の中でも、自尊心が
    ふくれあがっていった。
    「お許し下さいまし……いくら身分が、あなたさまより低いと申しましても、こんな扱いをうけるいわれはございません」
     「身分など関係ない。わかっているのは、あなたを、私がこれほど好きだ、ということだけですよ」
     女は黒髪に顔をそむけ、さすがにはしたないあらがいかたはしないまでも、いつまでもやわらかく、押しとどめるしぐさをしていた。
     じっとりと汗ばみ、こまかく 顫えながらもまるでなよ竹の、風に撓みながら折れないように、源氏の意に添おうとしない。

     源氏の若い心はいら立ち、堰は切れた。
     「もうすこし、情の分るかたと思っていたのだが……」
     空蝉は彼の腕の中に強い力で引きこまれ、次々とつづく男の動作になかば死ぬような思いを味わった。源氏の人もなげな振舞いは、情熱や愛執のためというより、かりそめの好き心の烈しさとしか、思いようがなかった。
     こんな運命になってしまったことを、空蝉は悲しく、憂く辛く思い、涙がこぼれる。
     「なぜそう、泣くのです。人生って、思いがけぬ、深いうれしい運命が時にはまちうけているもの、と、こんな風にお考えになれませんか?……あなたはもう、男や女の情趣をお汲みとりになれるお年頃だ。そんな泣きかたは何も知らぬ、ばかな年若い娘のすることですよ……」
     だが空蝉の泣くのは情趣を解しないためではないのだ。いちどに、わが身の来し方の拙い運命が思い出されてきたからだった。
     「まだわたくしが、親の家にいる娘のままの身でありましたら、今夜のこの契りにも夢をもてたでございましょうね……でも、もう今はわたくしは夫のある身ですもの。どんな夢も、思い描けないのですわ。せめて、みんな、お忘れ下さいまし……」
     空蝉のとぎれとぎれの言葉は真実のひびきがあったから、源氏は絶句した。
     彼は、空蝉のやさしくて執拗だったあらがいかたや、屈折せた深い心ざまに、あらためて魅力をおぼえていた。源氏と心ならず持った一夜に、空蝉が悩んで苦しんでいるさまにも、ふしぎな魅力があった。
     女には気の毒だが、もしこの女と、一夜を過ごさなければ後悔しただろうと思われるようなものが、
    空蝉にはあった。「手紙をさしあげたいが……これからどうやって連落すればいいだろう……忘れられないひとになってしまった」
     と源氏は女の手をとった。
     鶏が鳴き出し、人々が起き出したらしく、邸内はざわめいてくる。
     「御車を」
     という声も聞こえる。もう脱け出すべき刻であったが、人妻である空蝉とは、再びあえる機会があるかどうかは、知るよしもなかった。
     源氏は、女のことで心を占められて、忘れる間はなかった。手だてを考えあぐね、ついに紀伊の守を呼んで、いってみた。
     「いっかの、可愛い少年を、私にくれないか。身近に使いたいのだ。そして殿上童にさせよう」
     それはありがとう存じます。姉にさっそく、申しましょう」
     と紀伊の守は何心もなく、喜んでいった。

    少年の姉は、すなわち、紀伊っ守の継母の空蝉である。源氏はまるでうぶな少年のように、心にひびいて、動揺するのだった。彼はあの夜の女の、思い屈したような心のみだれ、源氏に魅せられながら、自尊心と、罪のおののきに引き裂かれて、たゆたい、苦しんでいた美しいさまに、いつか、ほんものの恋を感じていた。
     源氏は、そういう心のひだの深い女を、ゆかしく思うのであった。
     五、六日して少年は来た。すっるりした気品のある子である。源氏は可愛がって、そば近く使い、あれこれ話をしながら、それとなく空蝉のことを匂わせる。少年は小君といった。
     何にも知らず、小君は、源氏の手紙をことづかって、姉の所へいった。
     空蝉は、源氏σたよりを、心ひそかに待ちつづけていたのだが、小君には、
     「お目あてちがいと申しあげなさい。お手紙のあてさきには、これをうけとる人は居りません、と申しあげるのよ」
     ときびしくいった。
     「でも……まちがいなく、お前の姉に、とおっしゃったものを」
     と小君はこまつていた。
     源氏は、空蝉返事を待っていたが、小君は手ぶらで帰ってをきた。
     「たのみ甲斐ない子だね……ぉ前の姉上はほんとは、伊予の介より先に、私と愛し合っていたのだよ」
     小君は目を丸くしてきいている。
     「それなのに、私が若くてたのもしくないと思ったのか、あのたくましい中年男の方にのりかえてしまったのだ。つれないひとだ。でも、お前だけは、私の味方になってくれるね」
     小君は、源氏のことばを純真に信じきったさまで、大きくうなずき、
     「ハイ」
     というのだった。
     源氏は、小君にことづけて再々、空蝉に便りをするのだが、空蝉は一度も返事をしなかった。
     彼女は、いまでは、あの夜の源氏の無体な仕打ちも、恋の一種であったと思うようになっている。あれは、あのとき、あの場で完結した恋なのだった。空蝉は、さかしく、恋の行末を読みとっていた。
     あの夜の恋を大切に秘すればこそ、二度と逢瀬を重ねるつもりはなかった。激情にほだされて、
    逢うのは容易だけれども、あの恋を、より一そう美しく彩れる、という自信はなかった。
     恋に、色の上塗りはありえないのだ……。
     塗れば塗るほど、それは、色あせてゆくものなのだ……。
     それに、男が、一度の恋に、ますます執着し、それによって彼女への好印象が深まるのも、手にとるようにわかる気がした。空蝉はその美しいまやかしの恋のままに、自分を、飾って、おきたかった。あの夜以後、どんなに源氏に言い寄られても空蝉はかたくなに拒んでいた。

     源氏は、方違えと称してまた、紀伊の守の邸へいった。
     小君を責めて、会おうとしたが、人が多く戸締りが厳重で、いい折がない。
     「何とかせよ……もう一度だけお目にかかりたいのだから」
     と源氏に言いつけられて小君は、胸をいためた。
     「では、うまくいくかどうかわかりませんけれど……」
     と、闇にまぎれて、邸の内ふかく連れてはいっていった。
     南面の隅から、格子をたたいて、小君は、
     「あけて下さい。いま帰ったの」
     と呼ぶ。
     「どうして、この暑いのに、格子をおろしたの?」
     と小君が聞くと、女房らしい女の声で、
     「西のお方がおいでになって、碁をお打ちになっているものですから」
     といっている。
     源氏は、小君の入った格子から、そっと身を入れた。
     灯があったので、奥の方はよく見えた。
     母屋の柱によりっかって、きゃしゃな、美しい小柄な女人が、坐っていた。濃い紫のひとえを身にまとい、顔が半分、みえている。
     姿かたちのありさまでは、かの夜の、恋しい女(ひと)であるらしかった。源氏はひどく心おどりを感じて、じっと目をつけた。まぶたのはれぼったい、鼻すじもはっきりしない、ふけた、地味なかんじの女人であるが、何とも、しっとりとおもむきある物ごし、身のとりなしであある。
     そうか。あの女がそうだったのか。闇の中の手ざわりと、あかるいけざやかな灯の下でみる、情趣ありげな風情は、いかにも、ぴたりと一致するように思われた。

     空蝉は美人というのではないが、身のとりなしが、得もいえず艶で、源氏の好みにあう。
     もう一人の女は、顔がよくみえた。これは当世風な、ぱっと目に立つ美人だった。白いうすものの単衣襲に、うす藍色の小袿らしいものをしどけなく着て、紅の袴の腰紐がみえるくらいまで襟元をはだけ、白い胸があらわになっていた。むっちりとした肉づきの、白く清らかに太って、目もと口もとに愛嬌のある美人である。──これで、しっとりした所を添えれば完全な美女だがなあ、と源氏は惜しみつつも、男の好きごころの常で、(こちらの方も、どうして中々わるくない)と思うのだった。
     美人の方は、性質も陽気らしく、碁が終わってはしゃいでいる。奥の方の人は静かに、
     「お待ちなさいな、そこは持でしょう。この劫を……」
     というが、耳にも入れず、才走ったさま巡でで、
     「いぐえ、今度は負けよ。ここの隅、何目かしら、十、二十、三十、四十」
     と指をっててきぱきと数えたりしている。
     源氏は、こんなにくつろいでいる女たちの素顔を、今まで見たことがなかった。女たちはみな、彼の前ではとりつくろい、作り声をし、を伏せ、言葉を飾っていた。どんな女も様子ぶって、本心が容易にみえなかった。ただひとりの、あのひとりをのぞいては――。
     (あの佳き女は、繊細な率直さをもってていられる)
     と、源氏は心に秘めた恋人のことを思う。
     しかしいま、ゆくりなくのぞき見した女たちは、まさか男に見られているとは思わないので、くつろいでたのしそうに振舞っていた。
     それが氏には興ふかく思われた。 事に思いを懸けた人が、つつましく趣きふかいさまなのが気にった。

     小君が来たので、そっと源氏は渡殿の戸口に離れていた。小君源氏をこんな所へ立たせたままなのに恐縮もし、さればといって姉の寝所へみちびく手だてもなく、子供ながら当惑しきっていた。
     『客がおりまして側へいけなないのですけど」
     「寝静るのを待とう。あとで、入れておくれ」
     「はい。……でもうまくいきますかどうか……」
     客の、継娘は今夜こちらに泊まるようであった。追い追いに、邸のざわめきが消え、風の音ばかりになった。
     小君は妻戸を叩いて開けさせ、廂間に横になって空寝をしていた。そのうち、やっとたくさんの女房たちも寝静まったらしいので屏風をひろげて灯をさえぎり、そっと源氏を引き入れた。人に見つかれば、みっともないことだがと思いつつ、源氏は恋の冒険の誘惑に抗しきれないのであるる。母屋の几帳の帷を引きあげて、そっと闇の中へ滑り入った。
     空蝉はこのごろ、物思わしいときが多く、ねむれない夜を送っていた。あの夜、一夜ぎりで源氏を拒絶しつづけ、源氏もあきらめたようなさまを、ほっとしつづ、それでもいつまでも、あの夜のことが忘れられない。
     疾風に捲かれるような青年の情熱や、否応いわさぬ無体な仕打ちは(それが人に明かすことのできぬひめごとだけに)彼女の心に、ふかい刻み目をつけていた。
     碁の相手をした継娘は、無邪気な世間話をしていたが、いつか寝入ったようである。
     ふと、空蝉の耳は、やわらかな着物のふれ合う、衣ずれの音を捉えた。それに、夏の夜風が運んでくる、衣にたきしめた香の匂い。
     あたまをそっとあげてみると、暗い中に近寄る人かげがあった。空蝉はおどろいたが、とっさに生絹の単衣一枚を羽織って、静かにすべり出してしまった。
     源氏は女がひとり臥せっているので安心して寄り、衣をそっと引き剥いだが、どうも大柄な気がする。その上、この間とは雰囲気がちがい、しどけなく寝入っているさまも心得ない。女は空蝉ではない。さては逃げられたかと、彼女の情の剛(つよさ)をうとましくさえ、思った。
     娘は今は目をさましてびっくりしている。人ちがいだったと知られるのも格好わるいしこの娘にも気の毒だった。また、この娘の継母に懸想していたと悟られては、夫のある身で浮名の立つのを死ぬほど恐れている空蝉を傷つけることになる。どうせ、ああまで逃げまわっている空蝉を追い求めても甲斐ない気もするし、それに、さきほど灯影でかいまみた、現代風な美女がこの娘であるなら、ええ、ままよという気になった。
     娘をおびえさせないように、そっとやわらかく抱きよせて、低い声で源氏は、かねてから、あなたに思いをかけて、方違えに来ていたのだ、といいつくろった。
     娘は案外世なれていて、ひどくおびえたり騒いだりしない。源氏の言葉をたやすく受け入れ、忍んできた男の何者かも、すぐわかったようだった。
     若いだけに信じやすいのが可憐にも思われたが、源氏は空蝉を手に入れたときほどの充実感は得られなかった、それにつけても、こうまではぐらかされると、つれない人への執着はますます、物狂おしくなってゆくのである。今ごろは、どこかの隅で、自分のことをばかな男と笑っているかもしれない。この恋心は真実なのに、と空蝉を怨みながら、あの手ごわい女が恋しいのだった。あの人は、この娘のようにやすやすと身を任せたりしなかった。……そう思いながら源氏は娘の耳に、
     「また忍んできます。小君に手紙を託しますよ。人に気づかれないようにして下さい」
     などといっているのだ。源氏は、空蝉が脱ぎ捨てていった薄衣をそっと取りあげて出た。

     小君が源氏を伴って妻戸をあけると、老女が、
     「おや、こんな夜中にどなた」
     と外へ出てきた。小君はうるさくなって、
     「もうお一人は?」
     と老女は月影にすかし見て、丈の高い女房とまちがえたらしく、
     「あなたも、今夜は宿直(とのい)ですか、。私はおなか具合がわるくてね。下って休んでいたんだけれどお召し上がったので上がったんですよ。でもやっぱり痛くて。痛!痛!」
     といいながら、あっちへいってしまったので、やっと外へ出ることができた。こころの冷える冒険は、どんな目にあわぬとも限らないから、つつしむべきだな、と源氏は思った。
     源氏は小君を車に乗せて、二条院へ帰ったが、みちみち、小君にいきさつを語った。やっぱり子供は子供、あてにできないよ、などと怨みがましくいうので、小君は申しわけない気持ちでうなだれている。
     「わたしは伊予の介よりも劣った男なのだろうかね、こんなに嫌われて……」
     源氏はそういいつつ、かの薄衣を抱きよせて寝た。それはまるで?の脱けがらのようである。彼は小君に終夜、怨み言をきかせた。
     小君は姉のもとへ帰ってもこっぴどく叱られた。
     「ひどい目にあいましたよ。どうしてご案内なんかしたの?何を考えてるの、お前は、世間の人にへんな噂をたてられたらどうするの、どうにかかくれたのだけれど……」
     小君は両方から叱られ、責められてかなしく思いながら、源氏の手紙をさし出した。
     空蝉は、さすがに、開けずにはいられなかった。走り書きのようにして、美しい手蹟で、
      〈空蝉の身をかへてける 木のもとに なほ人がらのなつかしきかな〉
     「まあ。じゃ、あの単衣はお持ち帰りになったの?」
     と空蝉は、みるみる羞恥で、?が染まるような気がした。汗ばんではいなかったろうか、あのうすものは……。見苦しくはなかったか。
     「御召物の下に引き入れておやすみになっていましたよ」
     という小君に、l空蝉は、返事もできなかった。小君は、姉が、気むずかしく怒っているさまにみえたが、実はそうではなく、空蝉は感動していたのだ。源氏の愛執が肌に迫るばかり思われ、彼の息遣いをいまも耳もとで聞くような気がした。
     「もう、おそいのよ……おそずぎるのよ……」
     と空蝉はつい、つぶやきが唇から洩れる。
     「おそいって、何が?お姉さま?」
     「いいえ、こっちのこと……」
     源氏が言い寄ってくれたのが、まだ娘のころだったら……と、返らぬことを思いこんで空蝉は 
     「いいえ、こっちのこと……」
     源氏が言い寄ってくれたのが、まだ娘のころだったら……と、返らぬことを思いこんで空蝉は内心、身悶えするばかり苦しかった。男の恋が、出来ごころの浮気ではなさそうだとわかった所で、夫をもつ今の身の上では詮ないことであった。
     かといって、空蝉は、美事に逃げおおせて彼の手にぬけがらの薄衣一枚をのこした自分のやりくちを、よくした、とも思えなかった。
     ああするほか、ないのだと思いつつ、ゆえ知らぬ心のこりが、重たく沈んでいる。
     (しかたないわ、もっと前にお目にかかれなかった、わたくしの運命が拙ないのだ……こんなお文をいただいたところで、何になろう……おそすぎた出会い、というものはあるのだ。
     空蝉は白いあごを衿もとにうずめ、放心したようにじっと考え込んでいた。
     西の対の、空蝉の継娘──軒端荻は、小君の姿が見えたので、胸おどらせていた。もしや、あの人からの使者ではないかと思ったが、小君は一向に手紙らしいものを持ってくる様子もない。あのひめごとは、女房の誰も知らぬことだけに、誰にいうこともできなくて、軒端荻はひとり胸にたたんでいた。世なれぬおぼこ娘というのではないので、彼女は秘密の重みに充分、堪えているのだが、源氏をやっぱり忘れることはできないのだった。

     そのころ、源氏は宮中の宿直の部屋で、心おけぬ友人の頭の中将とくつろいで話していた。
     宵からの雨が、そのまま、夜に入っても止まず、殿上は人ずくなで、いつもより静まっている。
     頭の中将は、源氏の正妻・葵の上の兄君である。左大臣と、内親王の出である北の方との間に生まれた嫡男で。源氏と同じほどな年ごろでもあり、学問でも遊芸でも好敵手の間柄だった。源氏は女たちの恋文を頭の中将に見せたりしている。無論、もっとも大切なものは深く秘めてはいるが……。
    「いや、ずいぶんいろいろ集まりましたね」
     と中将はいって、これは誰、これは誰と当て推量をした。そんなことから、話が女性論になった。
    「非のうちどころもない女、なんていやしないものですよ」
    と頭の中将はいっていた。
    「まあ、どこにも取り柄のない女、というのもいないものだが。それにしても、上流の女は、これはちょっとよくわからない。大切に箱入り娘で風にもあてず育てられていますからね。恋の狩人として面白い獲物は、中産階級の女でしょうな。あまり下賤のものは、われわれとしては興味をもちにくいし。中流の、受領あたりの階級の女に、あんがい掘出しものが多いんじゃないんですかね」
     源氏は黙ってうなずいたが、かの空蝉のことを、胸に思い返していた。

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    第一帖 桐壺

     いづれの御時にか、 女御、更衣あまた さぶらひたまひけるなかに、 いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めきたまふありけり。
     はじめより我はと 思ひ上がりたまへる御方がた、 めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。 同じほど、それより下臈の更衣たちは、 ましてやすからず。
    朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、 恨みを負ふ積もり にやありけむ、いと 篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、 いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人の そしりをも え憚らせたまはず、世のためしにも なりぬべき御もてなしなり。
     上達部、上人なども、 あいなく目を側めつつ、「 いとまばゆき 人の御おぼえなり。
    唐土にも、かかる事の起こりにこそ、世も乱れ、悪しかりけれ」と、やうやう天の下にもあぢきなう、人のもてなやみぐさになりて、 楊貴妃の例も 引き出でつべくなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、 かたじけなき御心ばへのたぐひなきを頼みにて まじらひたまふ。
     父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、親うち具し、さしあたりて世のおぼえはなやかなる御方がたにも いたう劣らず、なにごとの儀式をももてなしたまひけれど、とりたててはかばかしき 後見しなければ、事ある時は、なほ拠り所なく心細げなり。

     先の世にも御契りや深かりけむ、世になく清らなる 玉の男御子さへ生まれたまひぬ。 いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、 めづらかなる稚児の御容貌なり。
     一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、 寄せ重く、 疑ひなき儲の君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、 おほかたのやむごとなき御思ひにて、この君をば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。
     初めよりおしなべての上宮仕へ したまふべき際にはあらざりき。 おぼえいとやむごとなく、上衆めかしけれど、わりなくまつはさせたまふあまりに、 さるべき御遊びの折々、何事にもゆゑある事のふしぶしには、まづ参う上らせたまふ。ある時には 大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「 坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。人より先に参りたまひて、 やむごとなき御思ひなべてならず、皇女たちなどもおはしませば、この御方の御諌めをのみぞ、なほわづらはしう心苦しう 思ひきこえさせたまひける。
     かしこき御蔭をば頼みきこえながら、落としめ 疵を求めたまふ人は多く、わが身はか弱くものはかなきありさまにて、なかなかなるもの思ひをぞしたまふ。
    御局は桐壺なり。あまたの御方がたを過ぎさせたまひて、 ひまなき御前渡りに、人の御心を尽くしたまふも、 げにことわりと見えたり。 参う上りたまふにも、あまりうちしきる折々は、打橋、渡殿のここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、 御送り迎への人の衣の裾、堪へがたく、まさなきこともあり。またある時には、え避らぬ馬道の戸を鎖しこめ、こなたかなた心を合はせて、 はしたなめわづらはせたまふ時も多かり。
    事にふれて数知らず苦しきことのみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覧じて、後涼殿にもとよりさぶらひたまふ更衣の曹司を他に移させたまひて、上局に賜はす。その恨みましてやらむ方なし。

      この御子三つになりたまふ年、御袴着のこと 一の宮のたてまつりしに劣らず、内蔵寮、納殿の物を尽くして、 いみじうせさせたまふ。それにつけても、世の誹りのみ多かれど、この御子の およすげもておはする 御容貌心ばへありがたくめづらしきまで見えたまふを、 え嫉みあへたまはず。ものの心知りたまふ人は、「 かかる人も世に出でおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかしたまふ。

     その年の夏、 御息所、 はかなき心地にわづらひて、 まかでなむとしたまふを、 暇さらに許させたまはず。
     年ごろ、 常の篤しさになりたまへれば、御目馴れて、「なほしばしこころみよ」とのみのたまはするに、日々に重りたまひて、ただ五六日のほどにいと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、 まかでさせたてまつりたまふ。
     かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をば留めたてまつりて、忍びてぞ出でたまふ。
     限りあれば、さのみもえ留めさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを、言ふ方なく思ほさる。 いとにほひやかにうつくしげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、 言に出でても聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを 御覧ずるに、来し方行く末思し召されず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御いらへもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの気色にて臥したれば、いかさまにと思し召しまどはる。 輦車の宣旨などのたまはせても、 また入らせたまひて、さらにえ許させたまはず。
    「限りあらむ道にも、後れ先立たじと、 契らせたまひけるを。 さりとも、うち捨てては、 え行きやらじ」
     とのたまはするを、 女もいといみじと、見たてまつりて、
    「限りとて別るる道の悲しきに
     いかまほしきは命なりけり
     と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、 かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思し召すに、「 今日始むべき祈りども、さるべき人びとうけたまはれる、今宵より」と、聞こえ急がせば、わりなく思ほしながら まかでさせたまふ。
     御胸つとふたがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行き交ふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「 夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こし召す御心まどひ、何ごとも思し召しわかれず、籠もりおはします。
     御子は、 かくてもいと御覧ぜまほしけれど、かかるほどにさぶらひたまふ、 例なきことなれば、 まかでたまひなむとす。何事かあらむとも思したらず、さぶらふ人びとの泣きまどひ、 主上も御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを、 よろしきことにだに、かかる別れの悲しからぬはなきわざなるを、 ましてあはれに言ふかひなし。

     限りあれば、例の作法にをさめたてまつるを、母北の方、同じ煙にのぼりなむと、泣きこがれたまひて、 御送りの女房の車に 慕ひ乗りたまひて、 愛宕といふ所にいといかめしうその作法したるに、 おはし着きたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸を見る見る、なほおはするものと思ふが、いとかひなければ、 灰になりたまはむを見たてまつりて、今は亡き人と、ひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしうのたまひつれど、車よりも落ちぬべう まろびたまへば、 さは思ひつかしと、人びともてわづらひきこゆ。
     内裏より御使あり。 三位の位贈りたまふよし、勅使来てその宣命読むなむ、悲しきことなりける。 女御とだに言はせずなりぬるが、あかず口惜しう思さるれば、いま一階の位をだにと、贈らせたまふなりけり。これにつけても憎みたまふ人びと多かり。もの思ひ知りたまふは、 様、容貌などのめでたかりしこと、心ばせのなだらかにめやすく、憎みがたかりしことなど、今ぞ思し出づる。 さま悪しき御もてなしゆゑこそ、すげなう嫉みたまひしか、人柄のあはれに情けありし御心を、主上の女房なども恋ひしのびあへり。 なくてぞとは、かかる折にやと見えたり。

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