3 thoughts on “豊臣秀吉

  1. shinichi Post author

    一、北条事、近年蔑 公儀不能上洛、殊於関東任雅意致狼 籍条不及是非、然間去年可被加御誅罰処、駿河大納言 家康卿依為縁者、種々懇望候間、以条数被仰出候へハ、 御請申付而被成御赦免、則美濃守罷上御礼申上候事、
    一、先年家康被相定条数、家康表裏様ニ申上候間、美濃守 被成御対面上ハ、堺目等之儀被聞召届、有様ニ可被仰 付候間、家之良従差越候へと被仰出候之処、江雪指上 訖、家康与北条国切之約諾儀、如何と御尋候処、其意 趣者、甲斐・信濃之中城々者、家康。。。

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  2. shinichi Post author

    北条攻めの弾劾状は、「北条事、近年公儀を蔑し、上洛するにあたわず、殊に関東において雅意に任せ狼藉の条、是非に及ばず」で始まり、次の五条が示されている。
    一、徳川家の婿である北条氏直を大事に思い、今まで誅罰をしなかった
    一、真田昌幸を宥めて、秀吉の裁量で沼田城を北条氏直に与えた
    一、北条氏政が上洛すると云うから、人質として家臣の津田信勝・富田知信の二人を、小田原に遣わした
    一、陳謝に来た使者・石巻康敬は、北条家の評定衆ではなく不遜である
    一、秀吉は一僕の身を信長公に取り立てられ、今や天下仕置の身分にある
    末尾には「来歳は必ず節旗を携え進発せしめ、氏直の頚をはぬべきこと、踵をめぐらすべからざるものなり」と秀吉の決意を示した。
    秀吉は、この弾劾状を新庄直頼に持たせ、徳川家に届けさせ、徳川家の石川数正はこれを北条氏直に渡した。
    秀吉からの弾劾状に驚いた北条氏直は、津田信勝と富田知信に、父氏政の上洛が遅れたことと名胡桃城奪取について弁明し、秀吉との仲介を依頼した。
    しかし、一年前から北条攻めを準備している秀吉に、弁明が通る筈もなく、…

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  3. shinichi Post author

    巧詐不如拙誠

    巧みに偽り人を欺こうとするよりも、拙くとも誠意を示すほうが、ずっといい。

    窮地に陥ったからといって、下手に言い逃れしようとしたり、取り繕うとしては、傷口を広げるだけ。覚悟を決めて、正直に向かい合うほうが、信用を失わないで済む。

    巧みに騙したつもりになっても、相手に見抜かれては、2度と信用を回復できない。

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