社会

予期された答えしかない肯定社会
教育や訓練で秩序が保たれる規律社会
なんでもわかってしまう透明社会
なんでも根拠になってしまうエビデンス社会
愛も恋も消えてしまったポルノ社会
変わり続けることで成り立つ加速社会
ほかの世界と隔絶している親密社会
大量の情報に価値をおく情報社会
知識が重要な価値を占める知識社会
誰もが自分のことを見せる展示社会
絶え間なく成果を求められる疲労社会
プライバシーのないポストプライバシー社会
深い退屈に彩られた倫理社会
精神的暴力が支配する監視社会
忘れたことまで暴き出す暴露社会
他人に寛容で優しい繋がる社会
人間が管理されるようになった管理社会
The Society of Positivity
The Disciplinary Society
The Transparency Society
The Society of Evidence
The Society of Pornography
The Society of Acceleration
The Society of Intimacy
The Society of Information
The Knowledge Society
The Society of Exhibition
The Society of Tiredness
The Post-Privacy Society
The Society of Moral
The Surveillance Society
The Society of Unveiling
The Connected Society
The Society of Control

8 thoughts on “社会

  1. shinichi Post author

    『透明社会』
    ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊
    高度情報化社会における新たな「暴力の形態」を探る現代管理社会論
      肯定社会
      展示社会
      エビデンス社会
      ポルノ社会
      加速社会
      親密社会
      情報社会
      暴露社会
      管理社会
      
      

    『疲労社会』
    ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊
    絶え間ない能力の発揮と成果を求められる現代社会。
    互いにせめぎ合い、自己さえ搾取せざるを得ない社会構造。
      疲れたプロメテウス
      精神的暴力
      規律(ディシプリン)社会の彼岸
      深い退屈
      活動的な生
      見ることの教育学
      バートルビーの場合
      疲労社会
      燃え尽き症(バーンアウト)社会
      
      
    『情報支配社会』
    ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2022年刊
    デジタル化は本当に私たちを幸福にするのか?

    AIとアルゴリズムが消費から投票まで干渉し、あらゆる「無駄(コスト)の削減」を図る現代「デジタル」社会。しかしなぜ、「最適化」された空間でフェイクニュース・陰謀論が跋扈し、和解なき議論が延々と続いているのか?

    ますます「対話」が困難になり、人々が分断されていく「他者性の喪失」の原因を、デジタル化による「権力支配構造」に見出し、その民主主義への影響を特異な感性で分析する。
      
      

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  2. shinichi Post author

    2024年6月7日(金)

    今さらながら社会に憤る

    今週の書物/
    『透明社会』
    ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊

    『疲労社会』
    ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊

    『情報支配社会』
    ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2022年刊

    何も引き換えにせずに資本を獲得することを、盗みと言っていいだろう。だとすれば、政府や中央銀行がしていることは、盗みではないか。

    快楽に身を委ね 欲望や消費にはしることを、堕落とみなす人もいる。そういう見方からすれば、多くの男や多くの女は、堕落してはいないか。

    現実を大げさに歪めて伝え 不安におびえさせることを、俗に恐喝と言う。だとすれば、報道機関や広告代理店がしていることは、恐喝ではないか。

    好況のあとに不況を言いつのり 不況のあとに好況を言いつのるのは、躁鬱に似ている。ビジネスや株に携わる人たちは、みな躁鬱ではないか。

    うまくいくかどうかわからないのにカネを動かし カネが膨らむのを期待することを、博打という。だとすれば、金融市場に集まってくる人は、みな博打をしていることになる。

    他人を思いやることを忘れ 他人を出し抜くことしか考えないことを、倫理観の欠如という。だとすれば、組織に身を委ね 回し車のハムスターになっている人たちは、みな倫理観が欠如しているといえる。

    悪いと知っているのに 悪いことをし 嘘と知っているのに 嘘の説明をするのを、人でなしという。だとすれば、高い地位に就いている人たちや その周りにいる人たちは、みな 人ではない。

    社会が、盗賊と 犯罪者と 恐喝者と 躁鬱患者と 中毒患者と 倫理観がない人と 人でなしとで 出来ていると思えば、腹も立たない。社会に憤っても、社会は良くならないし、社会を変えようと思っても、誰にも社会は変えられない。社会は強固で狡猾だ。

    とはいっても、社会に住んでいる私たちが 社会の餌食にならないためには、社会について もっと知る必要がある。社会では、何があたりまえなのかを知る。心が痛まない方法を知る。そうすることで、社会で生きてゆく。

    自らが消費という中毒にかかっていることを認め、自分たちが奪う側にいることを認め、奪うことを止め、奪われることも止める。汚れていることを認め、きれいになろうとする。

    などと、10代の私が書きそうなことを書いてみて、70代の私が顔を出す。70代の私は冷静だ。「何億人もの個人が社会を形作るのだから、社会が個人にとって都合の良いものであるわけがない。自分の思うような社会を作ろうなどという考えは、捨てたほうがいい」と言う。「社会を構成しているのは そのほとんどが善良な人たちなのだ」とも言う。

    「社会を良くしてゆく努力を続けなければ 社会は衰退してしまう」という声に、70代の私は「そんな努力は無駄だ」と言う。そう言いながら、70代の私は社会について、憤っている。不平等、不公平 ー 理不尽なことが多すぎる。優しくない、報われない ー 閉塞感に満ちている。実際、私は、社会に対して怒りのようなものを持っている。怒りのようなものの正体は、わからない。

    それにしても私たちは、私たちの社会を知らない。社会についてもっと知ろう。そう思って手に取ったのが、今週取り上げる『透明社会』(ビョンチョル・ハン 著、守 博紀 訳、花伝社、2021年刊)だ。同じ著者・訳者・出版社で、『疲労社会』(2021年刊)と『情報支配社会』(2022年刊)も出版されている。

    なんでもわかってしまう透明社会(The Transparency Society)、予期された答えしかない肯定社会(The Society of Positivity)、教育や訓練で秩序が保たれる規律社会(The Disciplinary Society)、なんでも根拠になってしまうエビデンス社会(The Society of Evidence)、愛も恋も消えてしまったポルノ社会(The Society of Pornography)、変わり続けることで成り立つ加速社会(The Society of Acceleration)、ほかの世界と隔絶している親密社会(The Society of Intimacy)、大量の情報に価値をおく情報社会(The Society of Information)、知識が重要な価値を占める知識社会(The Knowledge Society)、誰もが自分のことを見せる展示社会(The Society of Exhibition)、絶え間なく成果を求められる疲労社会(The Society of Tiredness)、プライバシーのないポストプライバシ、ー社会(The Post-Privacy Society)、深い退屈に彩られた倫理社会(The Society of Moral)、精神的暴力が支配する監視社会(The Surveillance Society)、忘れたことまで暴き出す暴露社会(The Society of Unveiling)、他人に寛容で優しい繋がる社会(The Connected Society)、人間が管理されるようになった管理社会(The Society of Control)。そんなふうに ビョンチョル・ハンは、今の社会をさまざまな側面から説明する。その説明のひとつひとつは、恐ろしいほどに、見事に的を射ている。

    今日は多くの社会の側面のなかから、本の題名にもなっている「透明社会(The Transparency Society)」について書いてみる。私が読み取ったことは、たぶん ビョンチョル・ハンが言いたいこととは違う。そんなことは承知の上で、書く。

    トランスペアレントという言葉がよく使われるが、トランスペアレントな社会、つまり透明性が高く隠し事のない社会は、道徳か倫理社会の教科書のなかにしか存在しない。隠し事のない人がいないように、隠し事のない社会もありはしない。隠し事をしてはいけないという建前が先に立てば、人間の本音は居場所をなくしてしまう。はたしてそれは、いいことなのだろうか。

    トランスペアレントな社会からは、暴露も消える。隠し事がなくなれば、暴露することもなくなってしまう。隠し事のない息の詰まるような社会では、どんな事情も考慮されない。AI がすべてを明らかにし、説明できないことをなくしてゆく。

    トランスペアレントな社会を作りだすテクノロジーには心がない。だから、真理や道徳を考えたり思ったりはしない。利益をもたらすことや、注目されることで、より多くの収益をあげる。テクノロジーによって現れたトランスペアレントな社会では「良い悪い」よりも「儲かる儲からない」が重要なのだ。

    トランスペアレントな社会からは、プライバシーも消えてしまう。隠し事のない社会では、プライバシーを保とうとすれば隠し事をしていると言われ、まるで悪いことをしているかのように扱われてしまう。より多くのビッグデータを得るために、そしてまたシステムをより効率的に運用するために、プライバシーの放棄が勧められる。

    人間という元来透明性の似合わない生き物に透明性を求めた結果、人間という不可解で非論理的・非合理的な存在は、行き場を失っている。監視され、自由を完全に失ってしまったのだ。トランスペアレントな社会は決していい社会ではない。

    トランスペアレントな社会は、モラルやエシックスから生まれたものではない。世界中に人の数を越えて存在している IoT端末と、Google に代表されるインターネット検索と、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)と、ブロックチェーンと、ビッグデータと、ブロックチェーンと、AI とかが、束になってトランスペアレントな社会を作り出している。

    人は相変わらず隠し事をする。それが習性だと言わんばかりに隠し事をしたがる。ところが世界中の IoT端末とそれを繋ぐネットワークによって「いつ」「どこ」にいて「なに」をしたかが分かってしまう。インターネット上の情報は、高度に発達した検索で簡単に見つかる。自己顕示欲が強い人や承認欲求が強い人は、自分をアピールするため、人から認めてもらうため、そして人と繋がるために SNS に自分についての過剰な情報を載せるが、それもトランスペアレントな社会の広がりを助長している。関連した事実が時系列に並んでいるブロックチェーンを前にして「それは違う」と言える人はひとりもいないし、個人情報は守られているというビッグデータのなかにも関連情報は潜んでいる。そして AI が、バラバラの情報をあっという間にまとめ、どんなに隠したいことも白日の下にさらしてしまう。テクノロジーが隠し事を不可能にし、社会はどんどんトランスペアレントになってゆく。

    誰もテクノロジーの進歩を止められないなかで、社会はますますトランスペアレントになり、隠し事をひとつも持てない恐ろしい世の中がやってくる。その先に待っているのは、何もしていないのに、そして何も言っていないのに、考えただけで、思っただけで、それが知られてしまう社会。なんと恐ろしいことだろう。

    私はそんな社会はいやだ。そう思ってみても、社会はどんどん トランスペアレントになってゆく。人のいない山の中とか海辺とかに住んだとしても、個人は「透明社会」に絡めとられてしまう。

    社会の流れから距離を置き、静かに暮らしたい。ビョンチョル・ハンの本を読んで、心からそう思った。

    **

    タイの田舎の海岸の町で、まだ暗い浜辺に出て日の出を待つ。托鉢をする僧がひとり、歩いている。朝日の昇る気配がしてくる。途切れることのない波の音が心地いい。

    托鉢僧には最新のテクノロジーなど関係ないだろうし、その目にはテクノロジーによる社会の変化など見えてはいまい。でもテクノロジーによる社会の変化は確実に起きている。

    学校では、テクノロジーに囲まれて育っている子どもたちに、何も知らない大人たちが、テクノロジーを教える。そんなある意味滑稽な状況が、あたりまえのように見られる。

    会社では、テクノロジーを使うことが日常になっている部下を前にして、テクノロジーをあまり利用したことのない上司が、テクノロジーについての決定をくだす。決定の意味のなさを部下たちが指摘しても、上司には何がおかしいのかがわからない。

    変化があまりにも速いため、個人がそれについていけない。社会もついてゆけない。法律もついていけていないし、倫理はもちろんついていけていない。

    テクノロジーの進化による社会の変化を放っておけば、混乱すら生まれず、「変化の先端にいる人たちだけが変化を享受し、変化に気づかない人たちが失い続ける」というアンフェアな状態が定着してしまう。

    テクノロジーのアセスメントにもっと真剣にならないと、社会は変な方向に向かってしまう。いや、アセスしようとしまいと、変な方向に向かうことに変わりはあるまい。

    そんなことは、テクノロジーが進化する前から見られていたというかもしれない。でも、今起きていることには、戻れないという特徴がある。不可逆的でない。もう戻れない。もう元のようにはならない。そう思うと、いま社会に起きていることが、ずっしりと重たく感じられるのではないだろうか。

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  3. shinichi Post author

    テクノロジーを止められない社会
     テクノロジーの進化が加速して、社会が大きく変わってゆく。私たちは、情報とネットワークのテクノロジーが進化して、社会のルールや対人関係が変わるのを見て来た。変化はとても大きく、急激な速さで押し寄せてくる。それなのにどんな変化も日常のなかに隠れてしまい、誰もがその変化にあっという間に慣れてしまう。そのためか、変化が意識されることは、あまりない。

     スマートフォンと呼ばれる「通話・通信機能を持った超小型コンピュータ」を誰もが使うようになると、連絡方法やコミュニケーションの方法が大きく変わり、買い物の方法や予約の方法も大きく変わった。
    「Google」や「百度」などのインターネット検索が社会に浸透し、情報のあり方が変わり、知識の意味が変わってしまった。暗記やメモに意味がなくなり、古い情報があっという間に淘汰されてしまう。
     何十億もの人たちが SNS(Social networking service;ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を使い、他人と繋がる。繋がり方はかつて存在しなかったもので、地理的な制約がないこともあって、思ってもみなかったほど大きく広がる。その結果、社会は分断する。
     IoT(Internet of Things;モノのインターネット)という総称で呼ばれるインターネットに繋がったカメラやセンサーが世界中にバラまかれ、人びとの行動が記録される。IoT端末の数は、人の数を超え、増え続けている。それにつれて社会の監視能力も高まり続けている。
     ビッグデータというと、いまだに「アバウトなもの」とか「個人情報は含まれない」というような印象を持つ人が多いが、実際はとんでもない量の質の高いデータが集積され、日常的に売り買いされることで広まり、多様な目的で使われている。ビッグデータの社会への影響は驚くほど大きい。
     ビッグデータの対極にあるのが、ブロックチェーンだ。長いあいだデータベースに記録されてきたデータがブロックチェーンに記録されるようになり、不正に改ざんされることがないという長所が認識されると、その利用は急速に広まった。「自分の医療情報に、どの機関が、いつアクセスしたのか」というようなことがすべて記録され、それを自分で確認でき、しかもその記録が不正に改ざんされることがないのだから、用途は広がり続ける。ブロックチェーンは社会がトランスペアレントになってゆくことに大きく貢献している。
     AI(Artificial Intelligence;人工知能)の明確な定義は、未だに存在しない。それなのに AI はありとあらゆるモノに搭載され、教育現場、研究施設、医療現場、介護施設、金融機関、小売業、流通業、農業などなど、ありとあらゆるところに浸透し始めている。社会への影響は間違いなく大きい。
     そういったテクノロジーの影響は、過剰さが増え続ける社会、目的を持てない社会、予期された答えしか存在しない社会、さらけだされてしまう社会、トランスペアレントな社会、分断された社会、プライバシーのない社会、テクノロジーが監視する社会、何でも展示してしまう社会、コピー・ペーストの情報社会、余計な知識の要らない知識社会というような社会の断面として現れる。
     こうした様々な社会の断面は一見バラバラに見えるけれど、ひとつだけ共通した特徴がある。どれもテクノロジーの進化によって見えてきた社会の断面だということだ。そのために、後戻りすることがない。しかも加速度的に変わり続け、未来の姿は、どんなテクノロジーが出てくるかわからないこともあって、見えてこない。しかも、このような変化は社会体制に関係がない。自由主義の社会だろうが社会主義の社会だろうが、予期された答えしか存在しない社会やトランスペアレントな社会になることは、テクノロジーの進化を止めることができないように、防ぎようがない。
     以下に、テクノロジーの進化によって見えてきた社会の断面について書いてゆくが、このような変化は、誰にもコントロールできない。テクノロジーの進化を止められないように、社会の変化も止められない。残念ながら、変化を知ることで、変化に対応していくしかない。
    テクノロジーの進化を「ビジネス・チャンスだ」などといって経済的な利益ばかりを考え、社会の変化に注意を払わずにいると、社会があらぬ方向に向かっていってしまう。これから書いてゆく社会の断面について、危機感を持って考えていただけたらと思う。
     
     
    過剰さが増え続ける社会
     変化が加速している。テクノロジーの変化も、社会の変化も、大きく加速している。
     コンピュータの記憶装置の容量は3年で10倍になり、6年で100倍になる。30年でなんと100億倍になる。技術的なことが100億倍になることの社会的な影響はとてつもなく大きい。部屋をひとつ占領していたコンピュータシステムでやっていたことが、手になかのスマートフォンでできてしまう。30年前にスーパーコンピュータを使ってもできなかったことが、卓上のコンピュータでできてしまう。テクノロジーの進化は想像をはるかに超えて加速している。テクノロジーを使えば、途方もないことができるようになったのだ。
     立ち止まって現在の社会を見てみれば、社会が大きく変化しているのがわかる。しかも、テクノロジーの進化によって社会の変化も加速している。それなのに、多くの人が変化に気づかずにいる。気づかないふりをしているのかもしれない。毎日の変化が小さいからなのだろうか。それとも、みんな、変化に慣れ切ってしまったからなのか。
     社会の大きな変化は、どれもテクノロジーの進化によるものだ。それなのに、社会の変化は、テクノロジーなしに語られる。社会が分断してしまったのはテクノロジーのせいなのに、政治やマスコミのせいだという。誰もが疲れ切っているのもテクノロジーのせいなのに、会社やマネージメントのせいだという。加速している大きな変化が社会のなかにどのような形で現れたとしても、その原因を探ればテクノロジーにたどり着く。
     情報とコミュニケーションのテクノロジーが、そして AI が、この加速の原因だ。何十年か前に始まったハードウェアの加速度的な進化は、社会の変化に大きな影響を与えている。処理速度は速くなり、大きさは小さくなり、価格は安くなる。大量生産によって作られたハードウェアが身近なものになり、本来、情報とコミュニケーションのテクノロジーとは無縁だった人たちが複雑なハードウェアを操っている。
     ソフトウェアの進化も加速度的だ。例えば医療現場で用いられている「診断・治療支援ソフトウェア」は、AI を組み込むことで格段の進歩をとげている。実際、現在使われている AIソフトウェアは、医師が癌だという診断を下すよりはるか前に、癌の初期兆候を特定できる。
     今の時代を生きる人は、誰もが「変化の加速」の恩恵を被って生きている。しかしその加速は、同時に過剰さをもたらす。過剰な創造、過剰な生産、過剰なコミュニケーション、過剰な商品。膨張し肥大化したものを小さくすることは、最早誰にも出来ない。過剰な機能や過剰なオプションをもった商品が、それを必要としない人のもとに届いてしまう。
     多くの人たちがテクノロジーの進化を肯定的に捉え、テクノロジーが経済的な恩恵をもたらすと思っているために、過剰さはあまり問題にされない。テクノロジーの進化を否定的に捉える人や、進化を止めようとする人は、もうほとんどいない。急成長ののち、緩やかな成長に転じたり、緩やかな下降に転じたりするどこかの国の経済と違って、テクノロジーはいつまでも加速度的に進化し続け、社会もいつまでも加速度的に変化し続ける。過剰さが増え続けた先に何が待っているのかは、誰も知らない。
     
     
    目的を持てない社会
     最近になって「生きる目的がない」、「仕事の目標が思いつかない」、「将来に希望がない」というような文章を目にすることが多くなった。そんなことについて「良い」、「悪い」とか、「誰のせい」、「何のせい」とか、いろいろな説明をする文章にもよく出会う。でも、それもこれも、「変化の加速」がもたらした過剰さによるのではないか。「目的がないのではなく、目的が持てない」、「目標がないのではなく、目標が持てない」、「希望がないのではなく、希望が持てない」というのが現実ではないか?
     過剰さの成長や増殖には、不思議なくらいプロセスがない。過剰さの原因のテクノロジーを検証しても、プロセスは見えてこない。あるのは結果だけ。なんの面白みもない。驚くことに目的もない。目的は持つものではなく、AI を内蔵している情報とコミュニケーションのテクノロジーシステムからもたらされるものなのだ。過剰が目的を越えてしまったのか? そもそも目的はなかったのだろうか?
     本来は、そして私たちが説明を受けてきたのは、「AI はあくまでも人間の補助であり、決めるのは人間だ」というレトリックだった。ところが実際に AI が使われている現場を覗いてみると、人間は何も決めてはいない。人間は結果を、そして結論を、AI から受け取るだけなのだ。AI が組み込まれたソフトウェアを使っているエンジニアは、なぜその結果がもたらされたのかも、なぜその結論が導き出されたのかも、知りはしない。すべて AI 任せなのだ。
     どの国も、AI の開発競争に忙しく、AI の規制を始めようとはしない。言葉を変えれば、AI の進化を止めようとはしない。AI を前にして、人間は無力だ。何をしているかさえもわからないエンジニアに、何を期待するのか? 若い人たちは、そんなエンジニアになるために、10年も20年も勉強をするだろうか?
     AI が人間のように意識を持つという日は、当分来ないだろう。でも、悪意のある人間が AI を利用することは、あるかもしれない。AI が軍事の分野で使われれば、恐ろしいことが起こってしまう。
     ただ、ちょっと深く考えてみれば、ほんとうに恐ろしいのは、悪意のある人間ではなく、何も考えない人間だということに気づく。目的を持てずに育ち、AI から結果や結論を受け取るだけの人間が、どれだけ恐ろしいか。テクノロジーが恐ろしいのではない。テクノロジーが導き出した結果や結論に盲目的に従う人間が恐ろしいのだ。そういう人間は、すでにたくさんいる。そしてこれから増え続ける。減ることは、ない。
     
     
    予期された答えしか存在しない社会
     情報とコミュニケーションのテクノロジーが進化し社会の隅々にまで入り込んでいった結果、「決められた手順」に則ってあらゆる手続きが決められ、システム管理や画面操作がしやすいように社会のなかの事象がデザインされるようになった。
     画面のデザインにあわないようなことは省略され、事象は単純化される。アプリケーションで、氏名の欄に長い名前が入力できないとか、出生地の欄に国名がどうやっても入力できないというようなことが起きた時、アプリケーションの制約に現実を合わせようとする。
     Stefanopoulos-Papadimitriouさんが アプリケーションのなかでは Stefanopoulos-Papadimitrさんになってしまったり、満州国で生まれた人が アプリケーションのなかでは中華人民共和国で生まれたことになっていたりする。アプリケーションのなかで予期された答えしか入力できないというのは我慢できるかもしれないが、遅かれ早かれ、社会でもまた制限された答えしか存在できないようになってしまう。
     「好き」と「嫌い」のあいだのニュアンスは消え、「どちらかといえば好き」は「好き」になり、「少しだけ嫌い」は「嫌い」になる。「雨の日には好き」は「好き」になり、「落ち込んだ時には嫌い」は「嫌い」になる。システムが「好き」と「嫌い」しか受け付けないように、社会もまた単純化された答えしか受け付けなくなる。
     情報とコミュニケーションのシステムや AI のなかでニュアンスが省かれるのは仕方がないとしても、社会からニュアンスが消えるのは、色彩が消え、白と黒としか存在しなくなるかのようで、悲しい。
     進化した情報とコミュニケーションのテクノロジーに慣れ切ってしまった人間が、事物から否定性を取り除き、何もかもを平らで滑らかなものに変えてしまうのは、仕方のないことなのかもしれない。
     ここまで書いて、私は非論理的なことを書きたい誘惑に駆られている。それは「情報とコミュニケーションのシステムや AI がどんなに多くのデータを集めたからといって、データなしの人間の直感と比べていつも優れているとは限らない」ということだ。より少ない情報がより大きな効果をもたらしたりするように、より少ないデータと直感とが正解に導いてくれることだってある。間違っているのだろうが、そう信じたい。
     
     
    さらけだされてしまう社会
     心の内をさらけ出すというのは、今も昔も難しい。迷いながら、躊躇しながら、後ろめたさを感じながら、哲学しながら、心の内にある隠しておきたいことを、勇気を持って正直に話す。そんなことは、できるはずもない。
     それなのに、テクノロジーは心の内を、なんの迷いも躊躇もなく、鮮やかにさらけ出す。コンピュータグラフィックス(CG)技術が成熟し、コンピュータグラフィックスの関連領域が発達したために、ニューロイメージングを使った脳神経学、脳医学、認知神経科学といった専門分化された分野が急速に発展し、また、センサーなどの IoT から集められたデータや、インターネット上のありとあらゆるデータとが、AI によって有効活用できるようにもなり、どの分野の進化のスピードも、まさに加速度的である。
     心の内をさらけ出すという行為は、多くの場合、痛みや苦しみ、悲しみを伴う。それとは反対に、発見や推理、喜びといった快楽を伴ったりもする。ところがテクノロジーが心の内をさらけ出す場合にはすべてが無機的で、「心の内はこうですよ」という結果だけが提示される。そこにはベールを剥がすというようなワクワク感は存在しない。
    「感情」という「ある意味ブレーキの役目を果たすもの」がないから、そういった分野の進歩を止めるものはない。何の役に立つのかも考えずとにかく進化し、後から「こんなことに役立つ」とか「あんなことにも役立つ」などと言っている研究者たちは、まさに21世紀的なのだろう。
     

    分断された社会
    「Google」や「百度」に代表されるインターネット検索を何回繰り返しても、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)をいくら使っても、不思議なことに、興味の一致する人にしか出会わない。インターネットのなかの世界には、自分に似た人しかいない。
     自分の気に入ることだけを切り取ってきた世界には、同じ意見や同じ好みを持った人が集い、その世界にしかない事実が生まれ、その事実を間違っているという人は、その世界には入ってこない。
     外の意見は見事なまでに遮断され、批判的な意識は消え、正しいと信じることが確信になってゆく。親しさに溢れる世界は快適で、公共性は遠いものになり、プライバシーは意味を失ってしまう。
     遠いところのものが取り除かれた近いところだけの世界は、他に世界があることを見事なまでに忘れさせ、外に向かって開こうとすることはなく、外のことを気にすることもない。
     この世界も、あの世界も、どの世界も、この人も、あの人も、どの人も、決して交わることはない。
     社会はいつも2つに分かれる。都市に住む人たちと地方に住む人たち。富裕層と貧困層。老人と若者。保守とリベラル。違うグループの人たちは、違うところに住み、違うものを食べ、違う情報に触れ、交わることなど考えられない。
     境界には線が引かれ、つながりは断ち切られ、格差が大きくても見て見ないふり。忙しい人々に優しさなどなく、信じることのできる人はどこにもいない。
     助ける人は鈍感で、助けられる人を傷つける。理不尽さは説明されず、思考は停まったままだ。誰も自分がどちらにいるのかを知らない。あちらなのか、こちらなのか。内なのか、外なのか。
     誰もが部外者よりも部外者で外人よりも外人に見えてしまう社会で、孤立するのが恐くて分断された社会の一方に与しようとする。
     インターネット検索やSNSを使ったせいで分断が起きたというのに、多くの人がそのことに気づかずにいる。
     
     
    エビデンスという言葉がまかり通る社会
     医者たちはエビデンス(evidence)という言葉を好んで使う。エビデンスがあるからその治療法がいい、エビデンスがあるからその薬を投与する、エビデンスがあるからその検査方法は正しいなどなど、医者たちが都合よく使う。
     科学的根拠がある、つまり実験や調査などの研究結果から導かれた裏付けがあるということのようだが、責任逃れに使われたり、患者や家族の思考を停止させるために使われたりもする。
     医学という人体を扱う領域に絶対はないし、割り切れることは限りなく少ない。ある治療法がいい場合もあるし、悪い場合もある。ある薬の効果がある場合もあるし、ない場合もある。だからエビデンスは絶対ではないのだが、エビデンスという言葉には「だから正しい」というニュアンスが付きまとう。
     医者たちがエビデンスと口にしているうちはいい。医者でない人が医療情報を発信し、どうでもいいことをエビデンスと言っていたりする。こうなると、エビデンスという言葉は「ペテン」と同義語だ。
     エビデンスという言葉は、医学を離れても使われる。根拠はこうだ、証拠はここにある、裏付けはこれだなどという調子で、エビデンスが使われる。
     「新聞に書いてあることは正しい」とか「テレビで言っていることは正しい」と信じ込まされてきた人たちが、短絡的に「ウェブページに書いてあったから正しい」というノリでインターネット上の情報に接して騙される。
     進化しているのはテクノロジーだけではない。騙しのテクニックも進化している。エビデンスだからと言われても、無条件で信じてはいけない。
     ここでもうひとつ、どうしても考えておきたいことがある。「エビデンスが正しいものなのか、間違っているものなのか」ということよりも、ずっと重要なことだ。エビデンス、エビデンスと言うあまり、言葉から揺らぎが消えてしまう。そのことが気にかかってしょうがない。
     「エビデンスはこれだ!」というあまり、「これ」以外の可能性を消してしまう。言葉の意味で言えば、「これだ!」と言われた以外の意味が消えてしまう。第2・第3の意味がなくなってしまうのだ。
     また、エビデンスという言葉には、標準を外れたものが見えてこないという側面もある。個人差を認めない傲慢さがあるのだ。
     エビデンスという言葉で裏付けられた情報ほど、空虚なものはない。人が10人いれば、10通りの意味があり、10通りの数値があり、10通りの説明があるというのに、エビデンスとして与えられるのは、ひとつだけの意味、ひとつだけの数値、ひとつだけの説明。それは本当にエビデンスなのだろうか。
     インターネット検索で見つかるエビデンスは、何かが余分で、何かが欠けていることが多い。インターネット上のエビデンスを素直に受け入れるのは危険だ。そして、社会にまん延しているエビデンスは疑ってかかろう。
     
      
    プライバシーのない社会
     インターネットに「プライバシーへの関心は、これまでになく高まっている」という記事が載る。その一方で、プライバシーの意識が低下してきているという記事が載る。この一見矛盾した見方は、どうして出てきたのだろうか。
     ネットワークに繋がれた監視カメラや自動車に組み込まれたセンサーといった私たちが知っているものから、知らず知らずのうちに部屋のなかに入り込んできている私たちが知らないものまで、社会のあちらこちらにバラ撒かれた IoT端末が、ひとりひとりの行動を見守っている。見守るという言葉が適当ではないのなら、監視という言葉に置き換えてもいい。
     そういう現実のなかで、プライバシーについての意識や感覚は、明らかに変化している。かつて、人びとは管理を避けようとしていた。それが今、人びとは管理を受け入れ、安全を確保し、進んで IoT端末と共存しようとしているように見える。人びとは諦めではなく、割り切ることを選んだのだ。
     個人の私的な部分を聖域化してきたプライバシーが、IoT端末・AI・ブロックチェーンなどを聖域化するプライバシーへと変容しているのではないか。旧来の人権の枠のなかのプライバシーが、テクノロジーの枠のなかのプライバシーに取って代わられつつあるのではないか。
     古い人間にとっては、テクノロジーの枠のなかのプライバシーはプライバシーではない。そういう見方からすると、目の前に現れた社会にはプライバシーはない。
     
     
    テクノロジーが監視する社会
     IoTに代表されるテクノロジーによって社会の監視能力が急激に増大し、社会の透明性が高まってきている。監視というとネガティブなイメージが付きまとうが、監視のおかげで得られた街の安全や人々の安心は、人類がはじめて手に入れたものだ。
     普段はあまり意識することがないが、商用の人工衛星画像の解像度は向上し続けている。会社によっては100基以上の人工衛星を保有していて、さまざまな用途に使われているが、監視という目的にももちろん使われている。近い将来、私たちが宇宙から監視されてしまうのは間違いない。
     人工衛星とまで言わなくても、ロボットに組み込まれた検知装置、警官や警備員がからだに付けているボディカメラ、車に搭載されたドライブレコーダー、建物の中に据え付けられた防犯カメラ、街中に置かれた監視カメラ、そして、何億個ものセンサー。インターネットに接続された IoT デバイスが監視社会を支え、私たちの安心安全を保障している。
     人びとが期待するのは、警官がボディカメラを身につけることで警官の横暴が減るとか、ドライブレコーダーが車に搭載されることで乗客による運転手への暴力が減るとか、商店に防犯カメラが置かれることで盗難や万引きが減るというようなことだろう。
     でも実際には、映像のチェックはあまり行われるようにならない。その代わり、関係者の行動が驚くほど変化する。自分が監視されていると思った人たちが、それに合った行動を取るようになるのだ。カメラを着用した警官は暴力を振るわなくなり、監視システムを導入した商店では従業員の窃盗が減る。映像が証拠として使われることはあまりなく、人びとの行動の変化が際立って大きいのだ。
     もちろん監視テクノロジーによるネガティブな影響も出てくる。映像が管理者によって見られているのを知った従業員が、与えられた仕事だけをするようになる。それ以上のことは誰もしない。意味のない仕事でも考えずにこなす。個人の持つ知恵も知識も経験も仕事に生かされず、問題解決とか危機管理とかとは無縁の仕事場が生まれてしまうのだ。
     そんな無気力な職場が生まれてしまうのを防ぐために、テクノロジーによる監視に対応した職場環境の改善が必要だ。職員が「道徳的なことを含めての判断力」や「問題解決の先にある創造力」を持つことのできる職場環境というものは、そう簡単に作れるものではない。
     それと同時に、外部のこと、つまり大きく変わり続けている社会のことも常に頭に入れておかなければならない。誰もが映像を記録できる社会だということを忘れずに行動しないと、予期せぬ災難が降りかかる。
     以前のように監視する側と監視される側がはっきり区別できた社会と違い、全員が全員を監視している社会には、全く異なるルールが存在している。トランスペアレントであることをいいことだとし、可視的であることが道徳的に正しいとするならば、社会は退化してしまう。
    「誰もが誰をも監視する社会」にはプライバシーがなく、また自由もなく、人間性もない。テクノロジーの進化が止められないとしたら、そして監視し合う社会の深まりを阻止できないとしたら、その先には地獄のような監視社会が待っている。
     権力を監視できるといって単純に喜んだり、安全安心の社会がやってきたといって満足したりしている場合ではない。
     
     
    美が消えてゆく社会
     インターネットはポルノと共に発展してきたという意見がある。コンテンツの量をみるとポルノの占める割合はとても高く、そういう意見があながち嘘ではないように思える。ポルノは、崇高な美とは程遠い。覆いがなく、情緒もない。見せびらかしと言ってもいいほど何も隠さず、直接的に興奮を誘い、ドーパミンの分泌を促す。
     1990年代後半から World Wide Web の利用が普及し、まずは画像が、その後動画が、そしてライブ配信が、最近では AI を利用したディープフェイク・ポルノまで出てきて、インターネットポルノは一大成長を遂げた。テクノロジーのおかげと緩い規制のおかげでポルノは一大産業にまで成長し、検索すれば果てしない数の過激なポルノが無料で手に入る状況が生まれてしまった。
     小さい教室に何十人も押し込まれて少しでも他人と違うことをすると批判されるような「教育」を受け、人格形成ができないまま漫画やアニメに夢中になりゲームに没頭し大人になった男性が、インターネットポルノ中毒になるのは、自然の流れとしか言えない。頭に VR(ヴァーチャルリアリティ)ゴーグルを装着し、画面と連動したラブドールを抱きしめている姿は滑稽だし、そもそも美しくない。
     何が美しく何が美しくないかというのは個人的なことではあるけれど、インターネットポルノは麻薬に似て美しくない。脳を刺激し人間を劣化させるものが、美しいはずはない。
     ポルノだけではない。ロボットがどんなに外見を繕ってみても、生き物たちが持っている美しさを手に入れることはできない。テクノロジーの進化とともに、私たちの中から、人間が本来持っていたはずの謙虚さとか礼儀正しさといった美しさが消えてゆく。宇宙の静寂の美しさや、自然が醸し出す美しさも消えてしまう。
    もっと言えば、プロセスの美しさも消えつつある。ブロックチェーンも IoT も AI もビッグデータも、大事なのは結果だけ。プロセスはブラックボックスのなかにあって、誰もプロセスのことを気にかけない。テクノロジーのせいで、プロセスが消えてゆく。
    そして、美が消えてゆく。
     
     
    何でも展示してしまう社会
     北アメリカやヨーロッパ、アフリカなどでは Facebook や Twitter、Instagram といった SNS を使って、中国や東南アジアなどでは QQ空间 や 微信、TikTok といった SNS を使って、何億もの人たちが自分自身を進んで展示している。
     とはいっても、投稿される画像や映像は、投稿者の生活を反映してはいない。誰も、自分のありのままの写真やビデオを投稿したりしない。悲しいニュースや悪いニュースを他人と共有したりもしない。展示されている自分は、あくまで見せたい自分や見られたい自分であって、自分の実像ではない。
     展示されているものが実像でないとわかったからといって、見に行く人の数が減るわけではない。そもそも見る人にとっては、展示されているものが実像かどうかは問題ではない。楽しいから見るという、ただそれだけのことなのだ。
     SNS がメンタルヘルスに与える影響について数え切れないほどの研究がなされていて、悪影響ばかりが指摘されているというのに、SNSを使う人の数は減らない。自分が見せたことに対する評価とか、何人見に来たかとか、何人「いいね」を押してくれたかとか、どうでもいいことを気にするようになると、SNS の利用時間が増してゆく。SNS上の他人を見て(それが実際ではないとわかっていても)羨んでしまったり、自分に対するメッセージやリツイートを見て傷ついてしまったり、落ち込みが続いてうつ病になったりと、いいことは何もない。
     SNS をやめるのは、実社会で人付き合いをやめるのに似て、とても難しい。
     
     
    繋がりと共有の社会
     検索エンジンや SNS は使えば使うほど、自分と似通った興味を持った人たちや自分と同じような意見を持った人たちを引き寄せ、インターネットのなかに自分に近い人たちのコミュニティーを作り上げる。そのコミュニティーのなかでは自分に似た人にしか出会わない。異なった興味を持っている人や違う意見を持っている人は、外部の人として遮断され、出会うことはない。
     健全な社会では、いちばん適した答えを得るために、クリティカルシンキング(批判的思考)が欠かせない。批判がなく否定性が存在しない社会が、間違った方向に走り出すのは、歴史が証明している。
     検索エンジンや SNS が作り出しているのは、まさにこの間違った方向に走り出す社会だ。批判も否定性もない「大きな仲良しクラブ」のような社会は、危うい。
     ディジタルの「大きな仲良しクラブ」がメンバーに提供するのは、メンバーが好む社会の断面だ。好むものだけのインターネットは、好まざる人がひとりもいない快適な空間だ。地理的に遠い人もメンバー同士であればとても近い。そして親密だ。それに対して外部の人はとても遠い。
     親密さがすべての社会では、何をしたかよりも、どれだけ親しいかが重要だ。なにをしても「大好きな仲良しクラブ」のメンバーは無条件に賛成してくれる。何をしたかで評価されず、人柄やイメージで評価されるとなると、メンバーは自らを良く見せることに躍起になり、人気という実態のないものを得ようとして SNS にさらに没頭する。
     インターネットのコミュニティーのなかで、人は誰も自分の実態を見せたりはしない。装飾し、話を盛っている。その分、ひとりひとりは酷く孤独だ。検索エンジンや SNS が登場する前から孤独だったリーダーたちは、検索エンジンや SNS と共にさらに孤独の度を増している。孤独になればなるほど「大好きな仲良しクラブ」の必要性は増す。
     こうして嗜好の似た人たちの結びつきが強固になってゆく。
     
     
    ねじれた管理社会
     インターネット以前に、人は刑務所の延長のような管理社会が訪れることを危惧した。危惧は現実となり、工場は生産性向上のために管理され、学校は学力向上に向けて管理された。病院では病人が規則で管理され、介護施設では事故を防ぐという名目で管理が強化された。
     支配したものが権力を持ち、権力のある者が管理する。管理される者は自由を失い、まるで奴隷のようになってしまう。管理社会には「管理者」と「管理される弱者」という、極めてシンプルなモデルが存在していた。
     ところがインターネットが世界中を覆い、AI が身近なものになってみると、シンプルなモデルは最早なんの役にも立たないということがわかってきた。ブロックチェーンに代表されるように、AI を含めた最新のテクノロジーは、事実にしか意味を見つけようとしない。
     誰でもが「不正に改ざんされることのないブロックチェーン」を確認することができるということからわかるように、社会はどんどんトランスペアレントになってゆく。AI が論理的なことから、合理的な判断が広がってゆく。IoT端末が街中に溢れることで、街が安全になってゆく。
     テクノロジーによって生まれた管理社会は、誰にとってもいいものに見えた。テクノロジーによって誰もが自由を得られるはずだった。ところが実際の社会は残酷なくらいねじれた方向に向かっている。
     人がお互いを管理するだけでなく、テクノロジーも管理に加わる。軍事力、警察権力、税務権力といった権力や、会社組織や医療法人といった力のある組織は、毎日のように新しく生まれるテクノロジーを最大限に利用し、管理を強める。
     テクノロジーの進化によって管理能力が弱まると思われた権力や組織は、財力と法律とを最大限に使って管理能力を強め、管理の度合いを増す。
     疑心暗鬼になった人たちは、見られているのではないだろうかとか、わかられているはずだといった想像から、より強く管理されてしまう。
     トランスペアレントな社会になって、見張られるはずだった権力は秘密のなかに隠れ、すべての自由は根絶する。自分から進んで管理されようとする人たちは、ねじれた管理社会に安らぎを感じ、感謝さえする。
     情報とコミュニケーションのテクノロジーが進化して、情報とコミュニケーションが多くなり続けても、社会は良くならない。情報とコミュニケーションが社会に光を当てて明るい状態にするというのは、今となっては、ただの理想でしかない。
     インターネット上を駆け巡る情報とコミュニケーションは、想像や憶測を交えることで実際に起きたことよりもはるかに面白くなり、事実より存在感があり生き生きとしている。それと比較して、実際に起きたことは何の面白さも持ってはいない。
     多すぎる情報とコミュニケーションは、事実を歪めることはあっても、事実を伝えることはない。真理から遠ざかるばかりで、真理に近づくことはない。ゴタ混ぜの情報とコミュニケーションが暗闇に光をもたらすことはない。
     ねじれた管理社会は、自由がないという一点をもってしても、今までのどんな社会より暗い。
      
     
    コピー・ペーストの情報社会
     著作権の考え方は、インターネットの普及とともに大きく変わってきた。インターネット上では、CC(クリエイティブ・コモンズ)の考え方が、つまりコンテンツの2次利用が、当たり前になってきている。
     CC は CC という非営利組織とそのプロジェクトの総称で、CCライセンス(著作権ルール;コンテンツを提供する側が「この条件を守れば私の作品を自由に使って構わない」という意思表示をするためのツール)を提供している。
     CCライセンスを利用することで、作者は著作権を保持したまま作品を自由に流通させることができ、使用者はライセンス条件の範囲内で再配布やリミックスなどをすることができる。
     従来の著作権によって対価を得るという考え方では、情報が広がってゆかない。CCでコンテンツを公開し開放すれば、情報は世界に広がってゆく。
     実際にコンテンツを CCライセンスで公開してみると、コンテンツは許諾を求めてくることなく何か国語にも翻訳され、コピーされ、きちんとこちらへのリンクが張られている。結果として自分の記事や写真はいろいろなメディアにコピー・ペーストされ、名前や URL も載る。いいことばかりなのだ。
     そんなわけで、今日もコピー・ペーストの情報が世界中を駆け巡る。コピー・ペーストを侮ってはいけない。
     

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  4. shinichi Post author

    余計な知識の要らない知識社会
     インターネット検索については、過大評価や過小評価が交錯し、なかなか正当な評価が見つからない。原因は単純で、誰が評価するかで評価が大きく違ってくるからだ。ユーザーの情報検索能力によって評価が高くなったり低くなったりする。情報検索能力は個人差がとても大きく、検索する人の能力が高ければインターネット検索は素晴らしい道具になり、能力が低ければ役に立たない道具になる。インターネット検索は、そういう道具だった。
     ところが、インターネット検索が AI やビッグデータに結びつくと、状況は大きく変わる。情報検索能力がなくても、素晴らしい検索ができるようになった。そして、知識というものについての考え方も大きく変わった。
    「知識は共有できるのか?」とか「知識は管理できるのか?」というような疑問が、長いあいだ真剣に議論されてきた。知識の共有や知識の管理は、組織にとっては切実な問題で、組織の存続を左右する重要な問題だったのだ。
    ところが、検索システムに AI が活用され、検索が進化した結果、そのような疑問はあまりなされなくなってきた。今では「知識の共有をどう行うか?」「知識の管理はどう行うか?」という疑問があたりまえになっている。これは大きな変化と言っていい。
    知識は相変わらず不完全で、現実の問題の多くは不完全な理解の中で解決しなければならない。そのなかで、知識の共有ができ、知識の管理ができ、しかも問題の解決に有効な AI がある。知識についてのこの新しい状況を利用すれば、とても大きな力を持つことができる。知識と AI をうまく融合させれば、とんでもない量の質の高い知識を手に入れることができるのだ。
     AI と競争しても仕方のない分野は AI に任せてしまったほうがいいという考え方が浸透し、余計な知識は持たなくていいという共通認識が生まれてきた。AI には把握できない分野の知識や、AI と人間のインターフェイスがどうしてもうまくとれない分野の知識は、人間が持つしかないという考え方だ。
     AI をはじめとするテクノロジーは、データ・情報・知識を扱うのは得意だが、意見・思考・感想というようなものを扱うのはあまり得意ではないと言われてきた。意見・思考・感想などが外部からの情報に反応し、いとも容易く変化してしまうからだが、AI はそういうことも予測できるようになってきた。
     社会に同調するだけで、自分で考えなくなるのは、社会に隷属すること。そう考えてみても、AI と検索システムとに誘導されている自分が見えてきて、自分の考えだと信じていたことがすべて誘導された結果に思えてしまうと、果たして私は何を考えただろうという疑問でいっぱいになる。。
     実体の見えない知識社会で自分なりに考えてゆくというのは、思いのほか難しいようだ。
     
     
    疲れ果てた社会
    テクノロジーの進化についていけば、人間は楽しく生きることを忘れ、仕事の枠組みの中で能力を最大限に発揮する社会の機能になってしまい、過剰な疲労でいっぱいになってしまう。
     テクノロジーの進化に後れを取れば、進化した社会に後れを取り、進化した社会と同じようなアウトプットをテクノロジーなしに出さねばならなくなり、疲れ果ててしまう。
    テクノロジーの進化についていっても、ついていかなくても、いずれにしても疲れ果てる。どちらにしても社会は能力社会になってゆく。
     能力社会での疲労は孤独だ。孤独は、人と人を離れ離れにし、孤立させる。孤立した人たちはコミュニケートできずに、インターネット上のバーチャルな社会に存在を求める。その結果、孤立した人たちは疲れ果てる。
    SNS の「いいね」で安心をし、閲覧数に一喜一憂し、疲れ果てる。インターネット上で見せる自分と実際の自分との乖離で自己嫌悪に陥り、疲れ果てる。
    カネに魅せられた人たちが、1分1秒を惜しんでインターネット上で売り買いをし、疲れ果てる。
    テクノロジーの進化がビュロクラシーに合うわけもなく、官僚組織は時代に取り残され、テクノロジーを取り入れられずに衰退してゆく。テクノロジーの進化に合わない会社組織も衰退してゆく。テクノロジーの恩恵にあずかることができない官僚組織や会社組織のなかで、人は絶望し、疲れ果てる。
    テクノロジーの進化に触れて、人は疲れ果てる。そして、社会もまた、疲れ果てる。
     
       
    AI に影響された社会
     人間は見ることを学び、考えることを学び、話すことを学ぶ。AI も見ることを学び、考えることを学び、話すことを学ぶ。同じことをしているようだが、目指すところは違う。
     人間が見ることを学ぶというのは、「目に落ち着きを持ち、見られるものが自ら現れるのを待つ」ということに尽きる。見ることに集中し、深く考え、深く思い、長いまなざしで見ることができるようになればいい。
     それに対し、AI が見ることを学ぶ場合には、ディープラーニングという言葉とは裏腹に、浅い。インプットにすぐ反応し、最良と思われる方法で処理する。ためらうことも躊躇することもなく、手を休めたり佇んだりすることもない。疲れることもなく、否定することもない。ひたすらインプットを受け入れ続ける。
     人間には「何も考えない」とか「何もしない」という選択がある。サボることもできるし、出来ないと判断して止めることができる。ところが AI には「止めずに、し続ける」という選択しかない。ひたすら何かをし続けて、ひたすら肯定し続けるのだ。
     人間は答えがないという状況に慣れている。答えがあったとしてもその答えに自信が持てず、不安になる。ところが AI には、答えがないという状況は訪れない。いつも最良の答えが見つかり、揺らぎがない。
     AI を仕事にするなどして長いあいだ AI に触れていると、AI の影響を強く受けて、AI のような人間になってしまう。中断を嫌い、いつも忙しくしていて、どんなインプットにも反応してしまう。AI と同じことをしてしまうのだ。
     でも人間が AI と同じことをしても AI のようにはいかない。AI のように速く処理できないし、休みなしで処理し続けているうちに、判断は鈍り、疲れ果ててしまう。AI はインプットにすぐに反応し最良の方法で処理に向かうが、人間がインプットにすぐに反応すると必ずといっていいほどミスをする。
     人間には、能力を生かし続け、成果を生み出し続けることはできない。人間が AI のように否定しないで処理し続けていれば、疲れ果て、燃え尽きてしまう。新しいものに惹かれ、速さに惹かれ、見慣れないものに惹かれ、出来ないことに惹かれ、働き続けているうちに、壊れてしまう。
     人間は休みたくなるように出来ている。遊びたくなるように出来ている。逃げ出したくなるように出来ている。AI はどこまでも論理的で合理的だが、人間は非論理的で非合理的だ。人間が AI に影響され、AI のようになってゆけば、悲劇が待っている。
     
     
    実のない社会
     テクノロジーに導かれた社会では、誠実さが通じない。AI には、まごころがわからない。誠実さもまごころもない社会には、実がない。
     生きるのは良いこと、死ぬのは悪いことというあまりにも安易な価値観がまん延し、その結果、死を迎えた人が死なず、寝たきり老人が増える。
     そんな価値観で生きる人たちにバイオテクノロジーの進化は理由もなく受け入れられて、細胞や遺伝子を操作することまでが素晴らしい進歩とみなされる。細胞や遺伝子を弄ぶことがどんなに危険か。気づいたとしても何もできない。つくづく、無力であることを感じる。
     最近では、脳のエンハンスメントと言って、ドーピングまがいのこと(というか、ドーピングそのもの)を堂々とする人たちが現れた。エンハンスしないほうが無責任だという論理さえ生まれてしまった。外科の手術の前にエンハンスしたほうが(つまりドーピング剤を使ったほうが)手術がうまくいく。ミスが減り、より多くの患者を救えるというわけだ。
     問題なのは、エンハンスメントなどということを公然と口にする人たちが多くなったことだ。テクノロジーの発達によってメンタリティが変わってきたというしかない。スポーツのドーピングにしても、衣服にしても、器具にしても、「どこまでが良くて、どこからが悪い」という線がなかなか引けない。
     エンハンスメントがより進んで、人を作り変えるようになってもいいのだろうか? 先端医療によって生まれた人造人間のような存在を、私たちは仲間として受け入れてしまっていいのだろうか? 素晴らしい業績を上げれば、スポーツが上手ければ、強ければ、それでいいのだろうか?
     より長く生きたい、より健康に生きたいという願望に支えられ、バイオテクノロジーの進化もあって、命に関する先端医療は加速度的に進歩している。そして気がつけば、多くの研究者や医療従事者が「人の命を作り変える」という神の領域に立ち入っている。
     倫理的に許されるかどうか真剣に考えることなく、人々の願望だけを優先し、命の意味も考えず、臓器を作り、入れ替える人たちを見ると、怒りすらこみあげて来る。
     ゲノム編集のように人が持っている性質を変えたり、遺伝子組換えのように人が持っていない性質を加えたりすることが、自分たちに許されると考えていること自体が不思議だ。
     地球上の生き物を人間の都合のいいように変えてしまったり、人間に都合のいい生き物を作ったりすれば、いったいどうなるのか。考えただけでも恐ろしい。
     でも、もう、バイオテクノロジーの進化は誰にも止められない。バイオテクノロジーがこれ以上ダークなものになっていかないように、世界中に通用するような倫理の確立が望まれるが、その兆しはまったくと言っていいほどない。
     
     
    金儲けしにくい社会
     テクノロジーは儲かる。アメリカの Alphabet(Google)、Apple、Meta(Facebook)、Amazon、Microsoft などに目を向けてみれば、その意味は明らかだろう。IBM、インテル、シスコシステムズ、オラクルなどの古くからあるテクノロジー企業も安定した業績を残していて、テクノロジーがカネになるのは間違いない。
     そして中国のいわゆるチャイナテックを見てみると、カネになるという言葉の意味がもっとはっきりしてくる。IoT関連産業や AI関連産業は年20~30%、フィンテックは年60%の成長率を見せ、会社単位で見ても、字节跳动、百度、腾讯、阿里巴巴、华为技术、小米、京東などの業績はどれも右肩上がりが続いている。
     テクノロジー企業が資金を手にすると、会社の将来のために、資金を自社開発に投入したものだった。今の状況は少し違って、資金は他の有望なスタートアップへの投資に向けられる。成功した企業には最新のテクノロジーをキャッチアップすることは無理だから、スタートアップへの投資は理に適っていると言われている。
     もっともスタートアップの殆どは失敗に終わる。アメリカに限っても、テクノロジー企業の70%が失敗し、ハードウェア企業に限れば 97%が破綻に追い込まれている。中国の事情も、そうは違わない。なくなってしまう会社に投資しても儲かりはしない。それでも投資をするのは、成功した時の儲けが大きいからだ。
     テクノロジーはカネになると言われているが、テクノロジーだから金儲けにつながるというわけではない。テクノロジーと金儲けは分けて考えたほうがよいのだが、投資しなければ大きく儲けることもない。宝くじを買っている人が、買わなければ当たらないと言っているのと、何ら変わりがない。
     テクノロジーで金儲けをするのは難しい。金儲けができない理由のひとつは、パブリックセクターにある。税金のほかにもスタンダードだとかサーティフィケートだとかいっておカネを持ってゆく。それが重しになってしまう。もうひとつの理由は、金儲けが目的になってしまっていること。金儲けが目的になると、金儲けはできない。
     
     
    ニューノーマルが普通になってゆく社会
     AI を使って何かをすることをズルいと感じる人がどれぐらいいるだろう。AI を使って将棋を研究し勝ち続ける棋士をズルいという人はいないだろう。AI を使って患者を診断する医者をズルいという人もきっといない。サッカーチームが AI を使って戦術を立てたりチームを強くしたりすれば賞賛される。でも、AI ‎に学位論文を書かせたら、人はズルいと言うのではないか?
     引用文献リストやインデックスをソフトウェアの論文作成支援機能を使って作成するのはズルいだろうか。いま論文を書く人が、ソフトウェアを使うことなしに、引用文献リストやインデックスを作っていたら、バカにされるのではないだろうか。
     でも AI が組み込まれたソフトウェアにいくつもの論文を読ませて、新しい論文を書かせるのはどうだろう。誰もがズルいと思うのではないか。実際にそのようなことをする若い人がたくさんいるなかで、年長者がそんな行為を見つけるのはほぼ不可能だ。論文を書かせるソフトウェアを作っている会社が、そのソフトウェアを使ったかどうかを判断するソフトウェアを売っているが、そんなものを買ってもその会社を潤わせるだけだ。
     一歩進んで、AI が組み込まれたソフトウェアにあるテーマを与え、関連した最新の論文を探させ、それらを読ませて、論文を書かせるというのはどうか? その場合、論文を作成する人は何もしない。出来上がりを読んで、手を入れるだけだ。そのまま提出する人だっている。それは明らかにおかしい。
     でも良く考えてみると、それほどおかしくもない。AI が組み込まれたソフトウェアが探してくるのと、グーグルが探してくるのと、どう違うというのか。ソフトウェアが読むのと自分が読むのと、何がちがうのか。書くことも、そうは違わないだろう。違いといえば、「ソフトウェアのほうが、間違いが少ない」ことと、「費やす時間が、はるかに短い」ことくらい。出来上がりは、そうは変わらない。
     論文作成の方法が変化すれば、学位授与に際しての論文の位置づけは変わってくるだろうし、学問自体も淘汰されるものが増えるに違いない。知識とか教育とかの基本が揺らぐのは自然の成り行きだ。
     大学入学共通テストの問題をスマートフォンで撮影し外部に送信した受験生のことが報道されたが、スマートフォンを袖に隠すという稚拙な方法だったから見つかったものの、もっとスマートな方法を用いていれば誰も見つけることはできなかったはずだ。不正をした受験生は悪いけれど、試験会場にシールドをかけて携帯電話の周波数帯をブロックするなどの対策を何も考えていなかった大学入試センターの側が悪いとは言えないか。
     カメラとディスプレイ、それにBluetoothなどの通信機能を搭載したスマートグラスと呼ばれているメガネ型ウェアラブル端末のなかには、ただの眼鏡と何の変わりもないものもある。試験会場にその眼鏡を付けて入り、試験用紙が配られたら、眼鏡についているカメラを指の動きで操作して試験問題を撮影し、通信機能を使って外部に送信、外部の協力者が送り返した回答を眼鏡のディスプレイに表示すれば、あとは解答用紙に答えを書き込むだけ。試験監督に気付かれることは絶対にないし、証拠が残ることもない。
     大学入試センターが会場に必要なシールドをかけたとしても、受験生はその上を行くテクノロジーを手にしている。実力を測るのに、ペーパーテストなどという前世紀的なことを続けているのがいけないのではないか。
     前世紀的なことといえば、軍事のことが挙げられる。いくつかの国が電子戦に的を絞り、多くの予算を電子戦のために振り分けているのに、多くの国は相も変わらず前世紀的な兵器を軸に戦略を立て、そのために予算を費やしている。
     中東で敵を爆撃する飛行機のパイロットは、中東にはいない。アメリカのビルのなかで、まるでゲームをするかのようにして爆撃を行っている。地雷を探知するロボットも、いつの間にか遠隔操縦になっている。でも、ほんとうに重要なのは、インフラに対する攻撃だ。
     電気と電波を使えなくすれば、指揮命令系統は機能しなくなり、電気や電波を使った武器は使えなくなり、情報とコミュニケーションのシステムやレーダー網は働かなくなり、すべての人員がパニックに陥る。と、ここまでは軍に限った話だが、話を社会にまで広げれば、違った未来が見えてくる。
     電気と電波を使えなくすれば、インターネットが使えなくなり、テレビやラジオの放送は止まり、新聞やチラシの印刷はできず、電話連絡はつかなくなる。コミュニケーションの手段を失った社会は、機能不全に陥る。水の供給が止まり、経済活動も止まり、食糧調達もままならなくなる。一言で言えば、パニックに陥る。
     電子攻撃にさらされた社会は、攻撃してきたのが誰だかわからず、疑心暗鬼に包まれる。その時点で負けである。そんな危機が目の前にあるのに、何もしない。ニューノーマルが普通になるなかで、テクノロジーを強化することなく生き延びてゆくのは、思っているよりずっと難しい。
     
     
    あっという間に消えてゆく社会
     テクノロジーの進化によって消えてゆくものがある。新聞が消え、テレビやラジオが消え、インターネット上のニュースもあっという間に消えてゆくのだろう。
     新聞を定期購読し新聞というメディアを信じている世代が、新聞など見向きもしない世代に置き換わった時、多くの新聞社は存在していない。
     インターネットでドラマやスポーツに慣れてしまった人には、止めたり戻ったりができないテレビを見ることは苦痛でしかない。
     インターネット上のメディアも、通信速度が速くなりデバイスが進化することで変容が加速していて、よりダイナミックでインタラクティブなメディアが出てくるのは時間の問題だ。
     社会が未成熟だった頃には、「知識人が多く集まったメディアが、無知蒙昧な大衆を教え導き、世論を形成する」というモデルが成り立っていた。社会の木鐸などと言われ、ジャーナリストたちにはそれなりの自負があった。
     インターネットのおかげで、社会の担い手たちにも、それぞれに、それなりの集合知が出来上がっていて、専門に関してはジャーナリストたちの集合知をはるかに上回っている。
     事実を伝えるのはネガティブな影響が多いからといって、事実ではなく真実を伝えようとか、正義を伝えようなどと思い上がってしまったジャーナリストたちを、社会はもう必要としていない。専門のことについては、ジャーナリストではなく専門家の言っていることを聞きたいと思うのはごく自然のことだろう。
     インターネット上には情報が溢れかえっている。ニュースひとつとっても、その量は人の手には負えない。次から次へと置き換わるニュースの信頼性をチェックすることは、もう誰にもできない。世界中のニュースをカバーしている人は、ひとりもいない。
     どんなことに興味を持ったとしても、次々に押し寄せて来る情報のせいで、興味は持続しない。せっかく地球温暖化に興味を持った若者がいても、次の瞬間にはセルティックの古橋亨梧選手のことに興味が移ってしまう。
     テクノロジーの進化もあって、製品のモデル番号は毎年のように変わり、古いモデル番号の製品は安くしても売れない。
     なにもかもがアッという間に変わる社会では、コンセンサスはとれない。みんなが饒舌なのに、議論が収束しない。何が重要で何が重要でないかというような基本的なことすら、コンセンサスはとれない。どんな社会が望まれるのか、社会はどのような方向に向かえばいいのか。誰にもわからない。
     地球温暖化とか、海洋汚染、水質汚染、大気汚染、森林破壊などといった人間にとって最重要の地球環境についてでさえ、コンセンサスは生まれない。地球温暖化の科学的なデータを前にしても、地球温暖化はでっち上げだという人は多い。汚染や環境破壊についても、事実が意見によってねじ曲げられる。
     テクノロジーが進化しビッグデータが大きな影響を与える社会では、人は真実を必要としていない。誰もが信じたいことを信じる。
    信じさせたいデータをビッグデータのなかに充満させておけば、やがてそれが社会の民意になる。まっとうな意見とくだらない意見の違いがわからないテクノロジーが選び取るデータは、大勢を占めるくだらない意見ばかり。まっとうな意見の出る幕はない。
     コンセンサスのない社会で生きてゆくのは、そして、すべてのことがあっという間に消えてゆく社会に適応していくのは、そう容易いことではない。
     
     
    安定のない社会
     弁護士事務所が多くの時間を費やしてきた「判例の調査や関連法律・条文の洗い出し」は AI の得意分野であり、契約書や裁判所への提出書類のドラフトの作成が IT システムの得意分野であることがわかってくると、弁護士事務所へのテクノロジーの浸透が急激に進み、先進国では法曹分野でブロックチェーンを使う動きまで多く出てくるようになった。
     医療分野での AI の利用は他の分野より進んでいて、外科手術のなかには多くの AI の利用が見られ、よく知られている画像システムや診断システムのなかには AI が内蔵され、薬の情報や病院経営のデータベースはブロックチェーンに置き換えられ始めている。
    大学も変化の外に留まることはできない。世界的に興味が集まる最新の講義をオンラインで聴くことができるというのに、なぜ自分の大学の授業だというだけの理由で興味を持てない講義を聴かなければならないのかという土木な疑問に大学関係者は誰も答えられないでいる。
     テクノロジーによる社会の変化が、弁護士や医者、大学教授といった職業にさえ影響を及ぼしかねない。特定の職業に就けば身分が安定する、あるいはいい大学を出て大企業や官僚になれば地位が守られるという緩やかな身分社会が、根底から覆され始めているのだ。
     新聞・放送・出版のような分野では「安定した」という言葉はもう過去のものになっているし、自動車産業の明日を信じる人は、自動車産業のなかにはもういない。製造も販売も大きく形を変え、安定を好む人たちには、とても嫌な社会が到来している。
     別の言い方をすれば「不安定でも構わないという人たちには、いい社会が到来した」ということなのだが、なかなかそうは言いきれない。不安定な社会で酷い目にあうのは、弱者だからだ。
     安定のない社会では、弱者をどう救済していくかが問われる。弱者をどうするかということが、政治や行政の一番の課題になってゆくのではないか。
     安定のない社会では、個人はどうしたらいいのか? 好きなことに的を絞ればいいのだろうか? 興味のあることにのめり込めばいいのか?
     これからの社会に安定はないと感じている若者たちは、ステータスを競い合うこともなければ、高級車に憧れることもない。いい時がやってきてもその後に悪い時がやってくるかもしてないし、悪い時がやってきてもその後にいい時がやってくるかもしてない。そう思えば、他人と比べることに意味はなくなる。
     あるテクノロジーの進化によって生まれた職業が、何年かすると別のテクノロジーの進化によって消えてゆく。その繰り返しを眺めていると、ひとつの職業で一生を終えることができる時代へのノスタルジーが湧いてくる。「経験がどうの」「知識がどうの」といって偉そうにしていた人は、もうどこにもいない。
     新しい知識を吸収し、経験値を高めていくことは、年齢を重ねるにつれて難しくなってゆく。スポーツ選手が若い人に追い抜かれて引退していくように、芸術家が若い人に追いやられて仕事を減らしていくように、みんなが若い人に席を譲る時代がきているのかもしれない。
     席を譲ったあと、どう生きてゆくのか。それは個人の課題であって、社会の課題ではない。
     
     
    壊れてゆく社会
    外国人に暴力を振るう日本の入管収容施設の職員たち、黒人に暴力を振るうアメリカの警官たち、女性に暴力を振るうアフガニスタンの男たち、自国民に暴力を振るうミャンマーの軍人たち。そういう人たちのことをおかしな人だと言う人は少ない。ところが、見た目や行動が違うというだけで、おかしな人だと言われれてしまう。
    人間には「普通」とか「標準」というものがあって、そこから外れている人たちを長いあいだにわたって「異常」とか「障害」という枠に閉じ込めて来た。
    テクノロジーの進化が「普通」を変えてしまうと、今までの「異常」が「普通」になり、今までの「普通」が「異常」になるというようなことが起きてしまう。
     実際、学校のなかでは「普通」と「異常」の逆転が起きていて、先生にとっての「異常」が生徒にとっての「普通」であり、先生にとっての「普通」が生徒にとっての「異常」だというようなことが、日常的に見られている。
     長い時間、下を向いて、画面を眺め続けているというのは、スマートフォンが登場する以前には間違いなく「異常」だったのだが、今ではそれが「普通」になってしまい、そうしない生徒は「異常」だと言われる。
     メッセージにすぐに反応して返信する生徒は、今までならば「異常」だったのだが、今ではそれが「普通」になっていて、30秒以内に返事をしない生徒は「異常」だと言われてしまう。
     生徒はあっという間に大人になる。学校で起きていることは、やがて社会で起きる。まず、学校のなかで生徒たちが壊れ、次に、社会のなかで大人たちが壊れてゆく。
     引きこもりの多くがコンピュータと共に引きこもったということに象徴されるように、多くの「異常」はテクノロジーの進化に起因している。
     バーチャルとリアルのあいだの壁が壊れつつある今、社会もまた壊れつつある。証拠は捏造され、画像を見ても映像を見ても、もうそれがほんとうに起きたかどうかは誰にもわからない。バーチャルがリアルのなかに入り込んでしまうと、バーチャルとリアルの切り分けさえ無意味になる。
     テクノロジーで進化したラブドールを相手にセックスする若い男は、間違いなく壊れている。テクノロジーで進化した外見を手に入れてラブドールのようになってしまった若い女も、間違いなく壊れている。そう感じるのは「異常」なのだろうか?
     「異常」が多数になり「普通」が少数になった時、それまで「普通」だった人たちは「異常」と呼ばれ、それまで「異常」だった人たちは「普通」と呼ばれる。そんな変化のなかで、多くの人たちが適応できず、壊れてゆく。
     テクノロジーが人間を壊してゆくのか、人間がテクノロジーを壊してゆくのか、それすらもわかりはしない。
     
     
    暴走を止められない社会
     テクノロジーの進化が進んだ結果、テクノロジーを利用している人たちが、自分たちが使っているテクノロジーを止められないという困った状況があちらこちらに生まれている。人間の浅薄さが生んだテクノロジーの悲劇である。
     経済原理を優先させた人たちがテクノロジーを持つと、地球環境をあっという間に破壊してしまう。どんなものも乱獲し、そしてとり尽くし、ただでさえ少なくなってきている魚の漁獲量はゼロになり、希少動物は絶滅する。石や木や水といった「とり尽くしてはいけないもの」までもとり尽くした時、人間は終わる。
     人間のすることだから、今までの「普通」であれば、とり尽くす前にやめる。石炭がなくなる前に石炭の採掘をやめ、石油がなくなる前に石油の採掘をやめる。ところが AI に代表されるテクノロジーは、とり尽くすのをやめない。ニューノーマルのなかで、限度を知ることなく、とって、とって、とり尽くす。テクノロジーはまた、さまざまなものをあっという間に劣化させる。土を劣化させ、水を劣化させ、空気を劣化させる。
    人間が作り出したテクノロジーの悲劇は、休むことができないことと、何も元に戻すことができないことだ。休みなくとり尽くしたものも、休みなく劣化させたものも、何ひとつ、とり戻すことができない。
    この国が悪いとかあの国が悪いとか言っているうちに、そしてまた、あの会社が悪いとかこの会社が悪いとか言っているうちに、テクノロジーの進化は加速度的に進んでしまい、もう誰にも「進化するようにプログラムされたテクノロジー」を止めることはできない。
     最後の希望は地球の力だ。地球のエコシステムのほうが、人間のテクノロジーよりも強いと思いたい。地球のエコシステムが牙を剥き、人間のテクノロジーを破壊するのを夢見る。ただ、そんなことが起きた時には、人間は終わっている。
    人間が終わらないためにも、地球環境の破壊を防ぐためにも、まずテクノロジーを人間の手に取り戻さなければと思う。そして、テクノロジーを使って何をしようとしているのか、もう一度深く考えなければと思う。
     
     
    グローバルでない社会の断面
     テクノロジーの進化がグローバルであるため、テクノロジーによる変化もグローバルになる。そういう考えから、テクノロジーによる変化の影響を、いろいろな社会の断面として捉えて書いてきた。ただよく観察していると、「いくらテクノロジーが進化しようと、社会の変化はグローバルではない」というケースが、思いのほかたくさん見えてきた。そんな広がりが限定的なケースのことを、少しだけ書いておきたい。
     日本ではパチンコ屋が栄えていたが、平成7年の18,244店をピークに減少の一途をたどり、平成から令和になるころには 10,000店を割り込み、今では 9.000店を割り込んでしまった。最盛期には 500万台近くあったパチンコ台の数も、今では 250万台を割り込み、減少傾向は止まらない。それでも、平日の開店時に合わせてパチンコ屋の前に並ぶ人の列は相変わらず長く、パチンコ台の前に座る人の数は一向に減らないように見える。でもよく見ると、若い人がいない。若い人たちはネットカフェなどに入り、高性能な PC を前にして座り心地のよい椅子に座り、ゲームを楽しんでいる。コミックを読んだり、アニメを見たり、VR(バーチャルリアリティ;仮想現実)を楽しんでいたりもする。テクノロジーの進化によって、パチンコ屋はネットカフェに置き換わり、日本固有のパチンコの遺伝子はゲームの遺伝子に変異して受け継がれた。確かに見た目の感じは変わったけれど、日本の社会の本質は何も変わっていない。
     パチンコがゲームに置き変わったというのは日本という国固有のことだが、国という枠を離れても、同じグループに属する人は、同じアプリに興味を示す。たとえばイスラム教徒は、イスラム教徒の多い国にいようと少ない国にいようと、イスラム教のアプリを使ってメッカの方角や礼拝の時間を知る。でも、そういったアプリがどう進化しようがどんな機能が追加されようが、イスラム教徒以外の人たちは何の興味も示さない。テクノロジーが進化し、宗教のプラクティスはずいぶん便利になった。でも、宗教の本質は何も変わらない。
     本質が変わらなければ、社会に変化は起きない。グローバルではないことを寄せ集めても、何も見えてこない。

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  5. Pingback: めぐりあう書物たちもどき | kushima.org

  6. Society

    自恋的平台

    互联网的平台关联
    虚拟中的真实联系
    真实中的虚拟模糊

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  7. Society

    Understand of many people, including myself are angry at our current society. But I wish more to put our frustration aside and ride the wave of change and change our traditional education had lost purpose.
    All our society problems show us how much the current education system worked.
    Especially at the core base of elementary and secondary level.

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