信田さよ子

日本は、いまだに被害者が告訴しなければ加害者を逮捕できません。結果的にDV加害者は野放し、被害者だけが逃げたり、シェルターに入ったりすることになります。本当に不公平な状態のままです。2001年にDV防止法ができてから、多くの被害者支援者たちが加害者への処罰を要求してきましたが、ピタリとも変わらない。
国の公的文書において、「DV加害者プログラム」もしくは「更生プログラム」という文言がない国って、世界で2つしかないんですよ。

  日本と…? …北朝鮮?

そう。

3 thoughts on “信田さよ子

  1. shinichi Post author

    DVから解放された新しい家族像を求めて~「加害者」とはなにか?

    by 古舘理沙

    https://www.elle.com/jp/culture/lovesex/a38286028/domestic-violence-dominating-nation-211126/

    誰だってDV加害者になる可能性を秘めている―――。コラムライターの古舘理沙さんが「家庭内の、そして国家による暴力を生まない家族のあり方」を、臨床心理士として被害者・加害者双方のカウンセリングに長年携わってきた信田さよ子さんに訊いた。

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    「アルコール依存症」「アダルト・チルドレン(以降、AC)」「ドメスティック・バイオレンス(以降、DV)」「PTSD」「共依存」「毒親」。これらの言葉が広く知られるようになり、自分の置かれてきた/いる状況を定義することができ、救われたという人は多いだろう。私も、そのひとりだ。
    長年カウンセリングに携わってこられた信田さよ子さんの著作を読むと、家族をはじめとする人間関係の親密圏内で起こる、これらさまざまな問題は、実は一連のことのように思えてくる。
    報道される凄惨なDV・児童虐待事件を目にすると、つい加害者と自分の間に線を引き、自分と被害者の間にも線を引いて、その暴力性から身を守りたくなってしまう。
    しかし、私は被害者にも、そして加害者にも決してならないだろうか。そもそも、加害者と被害者は、それほど完全に分けられるものだろうか。夫のDV被害者である妻が、我が子を虐待する加害者になるケースは多い。では、夫もまた、なにか/誰かの被害者である可能性はないだろうか。
    「加害者」について、知りたいと思った。加害者がいなければ、被害者はいないのだから。私は加害者になりたくないし、誰も加害者にしたくない。そんな思いから、加害者プログラムについて、信田さんに伺った。

     
    毒親を生んだ戦争

    古舘理沙(以降、古舘):ご著書『家族と国家は共謀する-サバイバルからレジスタンスへ』(角川新書)において、アメリカの事例ですが、1965〜75年のベトナム戦争帰還兵たちが、PTSDからアルコール依存症になり、それがDVに繋がっていると書かれています。日本の場合は第二次世界大戦に従軍した親を持つ団塊世代が、いわゆる「毒親」となって団塊ジュニア、ロスジェネ世代を抑圧するという世代連鎖があるように思えますが、いかがでしょうか?

    信田さよ子(以降、信田):虐待やDVは、たどっていくと戦争じゃないかな、と思います。もちろん、貧困が生み出した虐待はありますよ。だけど、決して貧しくはない家庭でも虐待が起こる。

    戦争という国家の暴力の、一番影響を受けるのは男じゃないですか。戦争に行かなければいけないから。そうすると、生きて還ってきた人たちが、家族になにをしたのか? というのが分かったのがベトナム戦争ですよね。

    1970年代に、フェミニストたちによって、家庭内の暴力や虐待が可視化され、’80年代にはアメリカの州の法律が変わりました。家族の中にも暴力があるということを認め、DVや虐待の場合は、被害者を保護して加害者を逮捕し処罰できるようになりました。これはアメリカが一番早くて、その次、カナダが’90年代、韓国は’93年には加害者逮捕ができるようになった。

    日本は、いまだに被害者が告訴しなければ加害者を逮捕できません。結果的にDV加害者は野放し、被害者だけが逃げたり、シェルターに入ったりすることになります。本当に不公平な状態のままです。2001年にDV防止法ができてから、多くの被害者支援者たちが加害者への処罰を要求してきましたが、ピタリとも変わらない。

    国の公的文書において、「DV加害者プログラム」もしくは「更生プログラム」という文言がない国って、世界で2つしかないんですよ。

    古舘:日本と…? …北朝鮮?

    信田:そう。中東諸国もそれなりに加害者対応はしていますし。ヨルダンとか、すごいですよ。

    私は刑務所の性犯罪者処遇プログラム作成にもかかわって、カナダへ何度も視察に行っているんですけど、死刑のない国って、もう意地でも社会復帰させなきゃいけないわけです。そしたら再犯させないためにはどうしたらいいかということを必死で考えるわけですね。そのために性犯罪者のプログラムは’90年代からリニューアルを続けています。性犯罪とDV加害者更生プログラムは、内容が半分くらい共通なんですよ。

    最新の潮流はいくつかあるんですが、効果的な方法は、彼らによりよき人生をイメージさせて、どうやったらよい人生を送れるか、とモチベーションを起こすのを中心にしています。もちろん、自分がどういうときに再犯する危険性があるのか、再犯を防ぐには、どのリスクを防いだらよいのか、ということをエビデンスにもとづいて、プログラムが組まれています。

    あとは、同じ立場のひと同士のつながりです。共同体的で自助グループ的なつながりという、アルコール依存症の臨床でずっとやってきたことが、実は犯罪の現場にも同じことが言える。

    日本では、坂上香さんのドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』(’19)の舞台である島根あさひ社会復帰促進センター(※1)が取り入れています。アメリカのアミティ(※2)という団体のプログラムで、犯罪を犯した人たちが、共同生活を送りながら、ミーティングを通じて自分の責任を自覚して更生するのをめざしています。

    彼らの生きる意欲を駆り立て、どういうのがよりよい人生か考えさせ、自助グループ的なつながりを持つ-これが更生の大きな柱なんだということが実証されてきている。日本の刑務所のシステムは、はっきり言って明治のままですからね。座って足に石でも乗せて、「おまえ、反省したか?」っていう、あの懲罰の精神がいまも刑務所を支配している。そういう「反省」は、ほとんど再犯防止には意味を持たないということが最先端の司法の論文を読むとよく分かります。

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    2000年代後半に開設された民間事業者によって運営される刑事施設の一つで、犯罪傾向の進んでいない男子受刑者2000名を対象としている。(以下、HP引用)施設環境全体を回復、更生への手段とみなし、生活全体を学びの場とする「回復(治療)共同体」、犯罪行為につながる思考や感情、その背景にある価値観や構えをターゲットとして、効果的に変化を促進する「認知行動療法」、社会の一員であることを意識し、加害行為の責任を引き受ける力を養う「修復的司法」の考え方を教育の3つの柱にすえ、受刑者の犯罪行動の変化や社会的態度の変化を目指している。
    http://www.shimaneasahi-rpc.go.jp/torikumi/index.html

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    ※2 1981年にアメリカ・アリゾナ州に創設されたTC(セラピューティック・コミュニティ)。刑務所内外に拠点を持ち、独自のカリキュラムによって問題行動に頼らなくても生きていける方法を学ぶ。2018年からは出所後の終身刑受刑者の社会復帰施設も運営している。

     
    更生しない加害者に手を差し伸べる理由

    古舘:信田さんも、近年「加害者プログラム」に関わっていらっしゃいます

    信田:私はずっと、被害女性たちとお会いしてきました。カウンセラーとして、「DV被害者」という言葉ができる前から、アルコール依存症の夫をもつ妻たちが、どんなにひどい目に遭ってきたか……。ひどい目に遭っているのに、「彼女たちのせいで夫が酒を飲むんだ」みたいな「共依存」という言葉の悪用が起きて……。私はそれにすごく憤りを感じて、アメリカの「共依存」の使われ方に反発を持っていたところに、「DV」や「AC」という言葉が入ってきました。21世紀になってDVや虐待の防止法ができて、家族のなかの弱者である女性と子どもがどんな暴力にさらされてきたかが、国も世間も認識するようになりました。

    一方で、私はアルコール依存症の男性たちにも数多く会ってきて、その人たちが生きるのに必要で酒を飲んできた、ということも分かっているわけですよ。そうすると、「この人たち、”加害者”って言われちゃうんだ」っていう気持ちもある。だから、単線的に「加害者ひどい」っていうところにも行けずに、でもやっぱり被害者はこんなにいるとも思う。

    「DV被害者」という言葉が意味するのは、「被害を受けたひとには責任がない」ということです。だって、加害がなければ被害はないわけだから、これは加害者やんなきゃダメだな、と。それで21世紀になってから加害者プログラムをやるようになったら、こんどは被害者支援団体から批判されるわけですよ。

    「あんなどうしようもない人たちに、なんでエネルギーを使うのか。絶対に更生しない男たちを相手にしても無駄でしょ」って言われて。

    古舘:絶対に更生しないですか?

    信田:更生するかどうかじゃなくて、更生をめざすシステムをつくらないと。それすらもないんだから。でもなかなか変わるのはむずかしい。一昨日も加害者プログラムを実施しました。18回1クールなので、2回目かな? 今回も、いろいろ話を聞いてたんですけど、もう、辟易する……。

    古舘:

    信田:だって彼らは、どの人もそうなんだけど、「僕はこうせざるを得なかったから、こうしただけなのに」って言う。つまり、自分としては、ここだけは突かれたくないところを妻がグサッといった。「だから、僕の暴力は、”反応”でしかない」って言うんですよ。

    私、名言だな、と思って。「反応としての暴力ですか?」と訊いたら、「そうですよ。僕の暴力は反応でしかありません」って言われたときに、褒めるわけじゃないけど「なるほど!」って言ったんですね。

    古舘:スイッチを押された、という

    信田:そういうことです。スイッチ押されなければ、暴力振るわないんです。だから、(彼らにとっては)押した人が悪いんですよ。ただ、「怒る」ということと、「怒鳴る」とか「殴る」という行動は、分けるというのが原則なんです。同じ怒りでも、怒りがどういう行動に結びつくかっていうことを、認知行動療法でアプローチします。

    まず、「自分はスイッチを押されなければ怒らない」という、その考え方に問題はないのか、ということですよね。スイッチを押されたときに、自分のなかにある認知の歪み-たとえば、「妻は自分を馬鹿にしている」とか、「俺はいつも人から認められない」というのがあると、ある行為がスイッチになっちゃう。

    だけど、妻は対等な存在だ、まあまあ人生がうまくいっているという認知を持ってれば、同じ言葉でもスイッチにならないんです。だから、自分の認知の部分と、怒りという感情をどう結び付けるのか、そしてどう行動を選ぶのかという「認知」と「行動」の両面から迫っていくというのが、いま世界中の性犯罪やDV加害者プログラムのメインの潮流になっています。

     
    人類があまりにも知らなかった「被害」の痕跡

    古舘:具体的には、どのような内容なのでしょうか?

    信田:約半年、全18回、毎週2時間実施します。加害者プログラムは「学習」の場ですから、テーマとそれに基づくワーク、そして宿題があります。チェックインがあって、宿題発表があって、今日のテーマがあって、今日のワークがあって、チェックアウト、というのがだいたい決まっている。それを18回やることで、彼らなりに学んでもらいます。

    テーマは毎回違うんですが、たとえば「自分の暴力の影響を知る」こと。彼らは、反応で怒ったので、自分には正義がある、と思ってる。だけど、PTSDとかトラウマについて勉強すると、彼らはびっくりするんですよ。え、そんなに影響があるのか、と。たとえ1年前のことであっても、自分が与えた影響は、妻にとっては今後3年は続くだろう、時には10年続くかもしれない、と。そういう被害の痕跡を勉強するのは、すごく意味があることです。

    知識は、加害者にとって本当にすごく必要だし、もちろん、DV被害者にとってもです。ということは、私たち人類は、あまりにも「被害」について知らなかった、ということですよね。

    古舘:被害者側にも、「これは被害だ」と認識するために知識が必要、ということですね。モラハラや経済DVなど、身体的な暴力だけがDVではありません

    信田:身体的な暴力は、減少しつつあります。社会的な貧困層や地方都市に比べると、大都市圏ではわかりやすい身体的DVは減りつつあるという実感を、各地の相談員の人たちが持っているようです。いまは「モラハラ」「ガスライティング(※)」という言葉が出てきているように、(加害者が)言葉によって相手を追い詰めていく、というのが増えてるんじゃないかな。

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    ※ 心理的虐待の一種で、些細な嫌がらせや、わざと誤った情報を示すなどして、被害者が自身の記憶や正気を疑うように仕向ける手法

     
    男性たちをいたずらに追い詰めていいことはない

    古舘:それは社会通念として、DVは犯罪だ、ということが広まったからでしょうか?

    信田:そう。特に東京都はDVの通報があった場合、積極的に逮捕に踏み切りますからね。だから、もう男性たちは、「殴ったらアウト」だと分かってる。法律で規制する、というのはほんとうに意味があると思いますよ。

    古舘:DVをする男性かどうか、見分ける方法はあるのでしょうか?

    信田:犯罪心理を専門とする女性の大学教授に、「DVのリスク要因ってなんでしょうね?」って言ったら、彼女は笑って「”男”ってことですよ。犯罪のリスク要因も”男”ってことです」って……。「男ってだけで、そんなにリスキーなんですね」と言ったら「そうよ、本当にもう!」なんて言って、面白かったですよ。

    犯罪学者の間では常識かもしれませんね。では、なぜ男性がそうなるのか、ということについては諸説あるんじゃないですか? 多くの国で、北欧だってやっぱり、脈々と男性中心的な価値観というのが残っていて、制度による「男性」というアイデンティティの形成というか、社会的なものが大きいんじゃないかと思いますけどね。男の子の育てられ方、みたいな。ジェンダー意識ですね。

    私はカウンセラーとして、社会的要因の大きさを痛感していて、この社会的不平等を変えないと、「男性の方が損している」みたいに主観的に捉えられちゃう。自分はこんなに頑張って妻と対等にやろうとしているのに、まだこうやって「加害者」と言われるのか、ってやりきれない思いになっちゃうとまずい、というか……。男性たちをいたずらに追い詰めてよいことはないから、それをやめたいな、と思っているだけです。

    こういう仕事をしていると、いままで何人か、「こういうすばらしい男性(夫や父)がほんとうにいるんだ」って感動することがあったんですが、彼らはそろって早死にする。それはやっぱり、大変だからなんじゃないですか。家族のなかで、彼らは背負うんですよ。妻がなにか言うと「そうだね」と、ちゃんと聞いて、ワンダウンの位置をとれる。男はワンダウンの位置をとらなければいけないんですよ。もともとワンアップなんだから。

    でもずっとワンダウンやると、周りからは「あんた情けない男だね」と言われ、妻からはそれが当たり前だと思われ、でも子どもからは慕われる、会社ではちょっとうだつが上がらない、みたいななかで、ずっと溜め込んでガンになって死んでいく……つらいです。

     
    DVを再生産させないためにできるロールプレイング

    古舘:DVか早死にか、の2択なんですか……。「男性に求められるのは経済力、家庭内のケア労働はすべて女性が担うもの」という性別役割分業が、男性にとっても抑圧になっているのですね。この男女不平等社会において、DVは生き延びるための手段になってしまっているのでしょうか。幸せに長生きして暮らすためにはどうしたらよいのでしょう……

    信田:家族は父と母、つまり一対の男女が仲良くやっているという演技によって成り立つと思うんですね。仲の良い男女はどういうものか、ということを、日々演技すればいいんじゃないですか? すごい冷たい言い方になっちゃいましたけど。

    古舘:それは、いわゆる「アメリカのファミリードラマ」的な?

    信田:そうそう。ものすごくアーキテクチュアル、というか、人工的ですよ。私は、本当にクールなので、そういう家族だけが生き延びられると思っている。

    古舘:「おはよう、ハニー」から始まって

    信田:そう。なぜなら、夫婦が密着して、心底すべてをわかり合えるようにしようとすると、それは暴力につながってしまうと思っているんですよ。親密性は危ない、と思っているので……。男女の不平等性は、今後10年経っても、日本のジェンダー平等指数120位という不名誉な順位はそんなに上がらないと思っている。でもそれが達成されなくちゃ男女平等が実現しないなんて、間に合わないじゃない? だからそういうなかでも、「私たちは、とりあえず仲の良い父と母なのよ」ということを演技する。

    家族って、技術と意志によって維持されないと、もたないと思っているんです。愛情がなんとか、って言っていたら、もう絶対に無理ですよ。コロナになって表面化した、日本の底の抜けた家族のなかで、次々と誰かが死んだり殺されたりして、事件になってきているんですね。これからまだ出てくると思うんです。そうなったときに、これは本当に「家族愛が足りない」ということで済まされる問題なのか。それはやっぱり、技術と意志を、ある程度教え込まなきゃいけない。

    「良い親」より「良い夫婦」であるほうがマシ

    古舘:それは「夫婦関係は破綻しているけど、子どものために別れない」、いわゆる「仮面夫婦」とは違うのでしょうか?

    信田:それは、「〜より、マシ」なのよ。どんなに言葉を尽くして演技しようが、夫婦間の権力とか、それは子どもに察知されるものなんですよ。だけど、自分の親が夫婦の間の、食うか食われるかの状況を子どもに伝えないようにしている努力を、やっぱり子どもは分かるんだと思いますよ。だから、結果じゃなくて「敢闘賞」ですよね。

    子どもにとって「良い親」であるよりも、夫と妻が、父と母がそこそこいい関係である方が、それでネグレクトされたとしても、私はそのほうが「より、マシ」だと思ってる。極端なことを言えば、ね。私がなぜそう言うかというと、「子どものために」と言うことの弊害をあまりにも見てきたので。

    「自分の母は(父とは)別に好きな人ができて出ていきました」という捨てられた子の傷と、夫婦関係で満たされないものを子で満たそうと、母がいくつになってもずっと子にべったり、みたいな母子関係の、どっちがマシかって言ったら、私はちゃんと説明がつく方が、はるかに子どもは楽だと思う。

    古舘:ご著書『アダルト・チルドレン〜自己責任の罠を抜けだし、私の人生を取り戻す』(2021年・学芸みらい社)にも書かれていた、「世代間の分離」ですね。「子どものために」ではなく、父と母の関係性を優先して、そこを良好に保つために演技する

    信田:それが親の責任の果たし方じゃないかと思います。DV加害者プログラムもそうですけれど、あれはなんのためにやるのかというと、被害者に責任を取るためにやるんですよね。更生するかどうか、よりも。責任というのは、もちろん謝罪とか償いもあるけど、一番は説明責任です。「なぜこういうことをしたのか」って分からないと、被害者というのは本当に困るんですよ。だから、「僕は、こうこうこう、で、あなたに暴力を振るって、いまはとても申し訳ないと思っている」というのが説明責任。だからさっきの例でいうと、「私は他に好きな男ができて、あんたを捨てた」というのは、説明責任を果たしているわけですよ。

    ところが、べた〜っていう親って、訳が分からないんですよ。なにかを言うと「あんたのためなんだから」って言われるし、この訳の分からなさというのは、メンタル的に最悪だと思っていて。私は、親は子どもに対して、絶えず「私がこうしたのは、こうだからなのよ」と言えるように、それは弁解と受け止められるかもしれないけど、そういう用意をしなきゃいけないと思います。

     
    解決するのは「言葉」

    古舘:それは己の内面を検証し続ける強さが必要ですね。なにより、精神的経済的余裕がないと、なかなか難しいことです。先ほどの「スイッチ」のお話に戻ると、あまり働かずに潤沢なお金がもらえて、嫌な上司もいないし、ストレスが溜まらず、家族に余裕を持って接することができる状態と、長時間労働なのに低賃金で、家族を養わなきゃ、という状態とでは、妻がちょっとイラッとすることを言ったとしても、スイッチが入るかどうか、分かれると思います

    信田:そうですよね。DV加害者プログラムでも、圧倒的に子どもが生まれてからのDVが多いですね。やっぱり、お金もかかる、家に帰ってもワーッと騒ぐ子どもがいるというなかで、夫婦二人でなんとかできていたのと、明らかに状況が変わってくることは、驚くくらい多いです。子どもの存在というのは、やっぱり“リスク”なんですよね。

    子どもが生まれるというのは、子育てに向き合おうとすればするほど、特に男性は大変じゃないですか。それこそ、モデルがいないから。子育てする母のモデルはいっぱいいるけど、ケアする父、ケアする男性のモデル不在。これは深刻です。

    古舘:父親がアルコール依存症の男性は、高確率でアルコール依存症になる、というのは、それしか「父のモデル」がいないからですよね。DVする父を嫌っていたのに、自分が家庭を持って父になったら、「あのときのオヤジの気持ち、分かるぜ」とDVをするようになる

    信田:家族って、本当に教科書がないんだな、って思いますよね。私は、「毒親」という言葉は好きじゃないけど、「毒親」とか「AC」という言葉ができることで、これはまずいぞ、という教科書がいっぱい生まれてきて、「じゃあ、どうすればいいの?」と議論できるところまできたのは、すごい進歩ですよ。

    「こうしちゃいけない」というのが出てきたのは、プロセスから言ったら進歩。リスク要因が分かれば、それを避ける、ということもできる。そこまで、来たわけですね。

    私たち団塊の世代から見たら、すっごい変化ですよ。私たちの世代は、男女間で言葉で話すということが、ある種、恥という感覚があって、話さないですよ。話さないで、態度で脅したり、暴力を振るう。それが、言語化できるようになって、女性と話し合うようになった。もちろん、それ自体の問題もあって、モラハラやガスライティングとか……。あとは、育児参加というのも、理念だとしても現実のものになっているじゃないですか。それは比べものにならないですよ。

    古舘:まとめると、家庭内では、男性がワンダウンの位置をとり、夫婦は強い意志をもって、「対等で仲の良い関係」の演技をする技術を磨き、子どもに対しては、常に説明責任を果たすべし! ということですね。「異性愛・セックス・結婚」をセットにしたロマンチックラブイデオロギーや、家父長制的な「母性愛」の暴力性から解放された、新しい家族像ともいえます。ありがとうございました!

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  2. shinichi Post author

    私は信田さよ子を知らなかった『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』

    by 東畑開人

    https://kadobun.jp/reviews/ctydzjjke08o.html

    はじめに断っておく。広い読者に向けられた本でもあるけれど、ひとりの心理士として書きたい。この書評の題は、そういう思いからつけたものだ。

     私は信田さよ子を知らなかった。不明を恥じる。だけど、私だけじゃない、と言い訳したくなる。誰も信田さよ子を知らなかったのではないか。
     もちろん、みんなが信田さよ子を知っている。それもわかっている。彼女はおそらく、日本で最も有名な心理士だ。アディクションとDVの第一人者であり、数えきれないほどの本を書き、多くの良き読者がいる。
     それでも思う。信田さよ子は孤独ではなかったか。この25年間、彼女はたった一人で体系を編み上げ、オルタナティブな臨床心理学を構築してきたのではなかったか。

     私が信田さよ子を知ったのは、この5、6年だ。ああ、なんたる不明。もちろん、名前は知っていたし、本にも目を通したことはあった。だけど、私は信田さよ子を知らなかった。彼女のことを自分とは縁遠い領域で、縁遠いアプローチをしている人だと思っていた。いわば、辺境の民だと思っていた。不明を通り越して、無明である。辺境の民はこっちだったのだから。
     そんな私にいくばくかの明かりをもたらしたのが、『依存症』(文春新書)だった。この本は依存症を近代社会という文脈から読み解いた不朽の名作なのだが、私にとって重要だったのは、彼女が従来の臨床心理学とは全く異なる視座から心を見ていることだった。信田さよ子は心の内側を覗き込むのではなく、心の外側を見渡している。しかも、巨大な社会を視野に収め、睨みながら、その上で極小の心に焦点を当て続けている。繊細に、そして精密に。

     ここには革命がある。信田さよ子はもはや心理学を基礎理論としていない。彼女は女性学をはじめとする社会理論をインストールして、全く新しい認識論を作り上げている。これを単なる社会理論の応用と思ってはいけない。なぜなら、彼女が成し遂げたのは、きわめて個別の、具体的な現実を読み解き、そして介入できるほどの精度を持った新しい臨床理論であったからだ。
     本書『家族と国家は共謀する』はその精華であり、到達点だ。タイトルがその達成を示している。心という極小のものに、政治的権力という極大なものを読み込むこと、臨床という極小の営みに、社会という極大な営みを写し見ること。同時にそれらを逆方向からも見抜くこと。そして、そこに力強く介入すること。信田さよ子の認識論によってしか見えなかった世界がここにある。

     この革命は1995年に始まった、と信田さよ子は記す。阪神大震災があり、オウム事件があり、スクールカウンセラー制度が始まり、「DV」という言葉が日本で流通するようになり、そして原宿カウンセリングセンターが開設された年。この年、内面的な心の問題とされていたものが、実は外的な暴力の問題であったと見抜かれた。
     重要なことは、革命が信田さよ子の心の中で起こったのではなく、まずは現実の社会で起こったことだ。そこから25年、彼女は現実で生じたことを精緻に言語化してきた。臨床現場で言葉を編み上げてきた。そうやって革命は進んできた。社会が言葉を生み出し、言葉が社会を生み出す。言葉は政治である。彼女の仕事の核心にある信念だと思う。
     それを最も象徴していて、おそらく本書の白眉と言えるのが「レジリエンスからレジスタンスへ」と「心に砦を築きなおす」という二つの章だ。ここで信田さよ子は暴力を可視化するための言葉が新しい暴力を生み出すことに警鐘を鳴らし、言葉を鋳直す。たとえば、「被害-加害」という言葉を正義のための二分法ではなく、抵抗のための二分法として再定式化する。私のつたない要約では示しきれないから、ぜひ実際に読んでほしい。心が政治的であるとするのであれば、それは不断に調整され続けなくてはならないのだ。

     というようなことは、信田さよ子の良き読者たちはおそらく知っていたことだと思う。だけど、それでも私は思う。彼女は孤独だったのではないかと。
     彼女が成し遂げ、積み重ねてきた仕事の社会的価値は誰もが知っている。だけど、それが臨床心理学という学問に改革を挑み、そしてまだ途上にあることを、誰が知っているだろうか。この戦いの孤独を誰が知っているだろうか。
     心は内面的で心理学的である以前に、社会的で政治的なものである。政治的な安全が確保されて初めて、心理学的な作業に意味が宿る。だから、臨床心理学が心の内側を見る理論だけで構成されるならば、それそのものが暴力になってしまう。
     ここに彼女は戦いを挑んでいた。古いものを破壊するためではない。癒すためだ。信田さよ子のオルタナティブな臨床心理学は、オーソドックスな臨床心理学にひそむ暴力に回復をもたらそうとしてきたのだ。彼女は遥か昔から、私たちに向かって語りかけていたのだ。

     それなのに、私は信田さよ子を知らなかった。不明を恥じる。いや、私は今もまだ、信田さよ子を知らないのかもしれない。
     それでも、本書には彼女の達成がしかと刻み込まれている。心の外側の暗闇に、つまり私たちの無明に、明かりは確かに灯されている。
     だから、私たちは繰り返し、ここに立ち戻ることができる。

     これからだ。これから、信田さよ子を知ることができる。

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