余計な知識の要らない知識社会

 インターネット検索については、過大評価や過小評価が交錯し、なかなか正当な評価が見つからない。原因は単純で、誰が評価するかで評価が大きく違ってくるからだ。ユーザーの情報検索能力によって評価が高くなったり低くなったりする。情報検索能力は個人差がとても大きく、検索する人の能力が高ければインターネット検索は素晴らしい道具になり、能力が低ければ役に立たない道具になる。インターネット検索は、そういう道具だった。
 ところが、インターネット検索が AI やビッグデータに結びつくと、状況は大きく変わる。情報検索能力がなくても、素晴らしい検索ができるようになった。そして、知識というものについての考え方も大きく変わった。
「知識は共有できるのか?」とか「知識は管理できるのか?」というような疑問が、長いあいだ真剣に議論されてきた。知識の共有や知識の管理は、組織にとっては切実な問題で、組織の存続を左右する重要な問題だったのだ。
ところが、検索システムに AI が活用され、検索が進化した結果、そのような疑問はあまりなされなくなってきた。今では「知識の共有をどう行うか?」「知識の管理はどう行うか?」という疑問があたりまえになっている。これは大きな変化と言っていい。
知識は相変わらず不完全で、現実の問題の多くは不完全な理解の中で解決しなければならない。そのなかで、知識の共有ができ、知識の管理ができ、しかも問題の解決に有効な AI がある。知識についてのこの新しい状況を利用すれば、とても大きな力を持つことができる。知識と AI をうまく融合させれば、とんでもない量の質の高い知識を手に入れることができるのだ。
 AI と競争しても仕方のない分野は AI に任せてしまったほうがいいという考え方が浸透し、余計な知識は持たなくていいという共通認識が生まれてきた。AI には把握できない分野の知識や、AI と人間のインターフェイスがどうしてもうまくとれない分野の知識は、人間が持つしかないという考え方だ。
 AI をはじめとするテクノロジーは、データ・情報・知識を扱うのは得意だが、意見・思考・感想というようなものを扱うのはあまり得意ではないと言われてきた。意見・思考・感想などが外部からの情報に反応し、いとも容易く変化してしまうからだが、AI はそういうことも予測できるようになってきた。
 社会に同調するだけで、自分で考えなくなるのは、社会に隷属すること。そう考えてみても、AI と検索システムとに誘導されている自分が見えてきて、自分の考えだと信じていたことがすべて誘導された結果に思えてしまうと、果たして私は何を考えただろうという疑問でいっぱいになる。。
 実体の見えない知識社会で自分なりに考えてゆくというのは、思いのほか難しいようだ。

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