五木寛之

 ひょっとすると、少年時代にとんでもない価値大逆転の時代を通過した体験と、いまの私の暮らしぶりのいいかげんさとは、無関係ではないのかもしれません。自分ひとり何をどうがんばろうと、大きな社会の変動や時代のうねりの前には、ほとんど無力なのだ、と、体のどこか深いところで感じているようなのです。
 だめなものはだめ、できないことはできない。個人の努力も善意も、むくわれないときはむくわれない。いや、むしろそのほうが多いのが人間の世界である、と、心の底でひそかに思っているのです。
 正直者がばかをみる、という言葉を聞いて、十代のころ思わずびっくりしたものです。なんだって? これまで正直者がばかをみなかった時代なんて、一度でもあったんだろうか。いまごろ何を言っているのか、と素直に驚いたからです。
 それを、ただ、ひねくれた少年の歪んだ考え、と切り捨ててしまいたくない気持ちが、いまでも私の中にはあります。
 正直者がばかをみるのは当たり前だ、と信じこんでいればこそ、私はこれまでに何度も全身全霊で感動できる、めったにない出来事を体験することがあったのです。
 世の中には、正直者がばかをみないことも、ごくまれにはあるのです。それは事実です。私はこれまでに何度もそういう例を見てきました。そして本当に心の底から感動したものです。
 努力がむくわれることもまた、まれにあります。めったにないことだが、絶対にあります。努力がむなしいなどとは決して思いません。しかし、それはこの世の中で、ごくごくまれな、大げさに言えば奇跡のような事件としてあるのであって、それ以上ではないのです。
 露骨に言ってしまえば、正直者はおおむねばかをみます。努力はほとんどむくわれることはありません。

One thought on “五木寛之

  1. shinichi Post author

    他力

    by 五木寛之

    2 「できないものはできない」と思う

     私は努力型の人間ではありません。むしろ、その反対の、かなりいいかげんなタイプです。
     だが、努力をする、という姿勢にあこがれるところは昔からありました。中学生のころは机の前に「努力!」と大きく書いた半紙をはってしきりに努力をしようとむなしい努力を続けていたものです。高校にはいると、それは「克己」という字に変わったりもしました。
     しかし、いくら自分を激しく鞭うとうと、何をやってもなかなか長続きしないのが私の生来の性格です。しなければならないこと、したほうが絶対にいいことが自分でわかっていても、それに取りかかることができない。真向法も、ウォーキングも、三日と続きませんでした。生活のすべてに関して投げやりで、きちんと結末まで片づけることが生来苦手なのです。
     その性格の背後にあるものは、いったいなんでしょうか。遺伝子の問題でもなさそうです。私の両親は共に師範学校を出て教師として働いており、かなり几帳面な人たちだったのですから。
     ひょっとすると、少年時代にとんでもない価値大逆転の時代を通過した体験と、いまの私の暮らしぶりのいいかげんさとは、無関係ではないのかもしれません。自分ひとり何をどうがんばろうと、大きな社会の変動や時代のうねりの前には、ほとんど無力なのだ、と、体のどこか深いところで感じているようなのです。
     だめなものはだめ、できないことはできない。個人の努力も善意も、むくわれないときはむくわれない。いや、むしろそのほうが多いのが人間の世界である、と、心の底でひそかに思っているのです。
     正直者がばかをみる、という言葉を聞いて、十代のころ思わずびっくりしたものです。なんだって? これまで正直者がばかをみなかった時代なんて、一度でもあったんだろうか。いまごろ何を言っているのか、と素直に驚いたからです。
     それを、ただ、ひねくれた少年の歪んだ考え、と切り捨ててしまいたくない気持ちが、いまでも私の中にはあります。
     正直者がばかをみるのは当たり前だ、と信じこんでいればこそ、私はこれまでに何度も全身全霊で感動できる、めったにない出来事を体験することがあったのです。
     世の中には、正直者がばかをみないことも、ごくまれにはあるのです。それは事実です。私はこれまでに何度もそういう例を見てきました。そして本当に心の底から感動したものです。
     努力がむくわれることもまた、まれにあります。めったにないことだが、絶対にあります。努力がむなしいなどとは決して思いません。しかし、それはこの世の中で、ごくごくまれな、大げさに言えば奇跡のような事件としてあるのであって、それ以上ではないのです。
     露骨に言ってしまえば、正直者はおおむねばかをみます。努力はほとんどむくわれることはありません。
     そういう私のものの見方は、どこか歪んでいるように思います。決してノーマルではないでしょう。しかし、歪んだ鏡に正しい像は映りません。
    時代には〈常時〉と〈非常時〉があります。坂には登りと下りがあります。風にも順風と逆風があります。
     いま、私たちが時代のどこに立っているかが問題なのです。

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