梶谷真司

学校のことを思い出してほしい。私たちが教わるのは、個々の場面で必要なルールを身につけ、その中で決められたことに適切な答えを出すことだけである。いろいろやってみるというより、決まったことを繰り返す。それは「考えること」とは違う。少なくともここで言う「問い、考え、語り、聞く」という、対話的な意味での「考えること」ではない。
そこに自己との対話はなく、まして他者との対話など望むべくもない。ただ出された指示に従うこと、教えられたことを教えられた通りに行うことが重視される。それに習熟することで、「よく考えなさい!」と言われた時に期待されている「正解」が出せるのだ。
それはむしろ「考えること」とは反対のこと、「考えないようにすること」ですらある。「考えること」が「共に考えること」であり、「共に生きること」だとすれば、どう考えればいいかを学ばず、ただ考えないようにさせられているということは、この世で生きるうえで必要な、何かとても大切なものを犠牲にしているか、失っていることにならないだろうか。
その大切なものとは「自由」である。私たちは考えることによってはじめて自由になれる。考えることは、自分を縛りつけるさまざまな制約から自らを解き放つことである。
世の中のルール、家庭や学校、会社での人間関係、常識や慣習、自分自身の思い込み、さまざまな怖れや怒り、こだわりから、ほんの少しであっても距離をとることができる。それが私たちの生に自由の余地を与える。私たちが考えるのは、考えなければならないのは、私たちにとってもっとも大切な自由を得るためである。
考えるなんて、いつもやっている、自分はじゅうぶん自由だという人もいるだろう。牢獄につながれていても、思考だけは自由だ。そんな考え方もある。あるいは哲学好きな人であれば、人間にはそもそも自由なんてないんだ、それは幻想なんだ、という人もいるだろう。しょせん理想にすぎないという人もいるだろう。
だが、私がここで言いたいのは、そういう当たり前のことでもなければ、幻想や理想に追いやってしまえるようなものでもない。きわめて具体的で身近な問題であって、まさしくすべての人に、子どもにも大人にも、人生の最初から人生の最後まで関わることである。
私が「考えること」を通して手に入れる自由を強調するのは、現実の生活の中では、そうした自由がほとんど許容されていないからであり、しかもそれは、まさに考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中のいたるところに働いているからである。

2 thoughts on “梶谷真司

  1. shinichi Post author

    考えるとはどういうことか
    第3回
    【考える時間】「考えること」はなぜ大切か? その本当の理由【再掲】

    by 梶谷真司

    https://www.gentosha.jp/article/11140/

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    考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門

    by 梶谷真司

    「はじめに」から

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    学校でも会社でも「考える方法」は教えてくれない

    「知識」ではない「体験」としての哲学とは、「考えること」そのものを指す。より厳密に言えば、第1章で詳しく述べるように、「問い、考え、語ること」である。そして一人で考える時、私たちは自分に問いかけては答え、それを繰り返す。つまり思考とは自分自身との「対話」なのだ。そして対話であれば、語る相手、つまり「聞く」人がいる。一人で考えている時、この聞き手は自分自身であるが、それは潜在的には他者である。

    したがって「考えること」は、他の人との対話、「共に問い、考え、語り、聞くこと」であると言える。哲学とは、このようにごくありふれた、きわめて人間的な営みである。それは簡潔に「共に生きること」と言い換えてもいいだろう。互いに「問い、考え、語り、聞く」こと――そのような共に考える営みとしての哲学は、人が生まれた直後から始まり、まさに人と人が共に生きていくことそのものなのである。

    なあんだ、そんな当たり前のことか。だったら、わざわざ「哲学」なんて呼んで、もったいぶることなんてないじゃないか、と思う人もいるだろう。しかし、生きるうえで必要なことなら何についてでも言えることだが、何もしなくてもただ自然に任せておけばできるようになるわけではない。「考えること」も、それなりの環境の中で身につけ、いろんな経験を経て上達していく。

    言葉だって、まずは親や周囲の人とのやり取りを通して学ぶ。人前で堂々と話すとか、面白い話をするとか、分かりやすく話すとか、誰でもはじめからできるわけではなく、それなりの訓練や経験が必要だ。そういう機会に恵まれなければ、大人になっても大してできなかったりする。「考えること」も同じである。

    「哲学」というと、普段の生活から切り離された、多くの人には縁遠いものに思われるが、「考えること」そのものとしての哲学は、ごく当たり前の身近なところから始まっている。

    ところが、この「考えること」は、一見当たり前のようでいて、実はそうではない。日常生活の中では、ほとんどできないと言っていいほど難しい。むしろそれができないこと、「考えないこと」が当たり前となっていて、そうだとは自覚されていないのだ。

    いやいや、「考える」なんていうことは、誰しもいろんなところで学び、身につけているのではないか。家庭で、学校で、職場で、私たちは「よく考えなさい!」と言われる。私たちはたえず考えているのではないか。

    しかしいざ「考えて!」と言われても、何をどうやって考えればいいのか。しばしば「頭を使って考えろ!」と言われるが、頭をどうやって使えば考えられるのか、どのように考えたらいいのか、その方法をいったい誰がいつ、教えてくれるのか。

    ところが驚くべきことに、私たちが「考える」ということを学ぶ機会は、人生においてほとんどない。家庭でも、学校でも、会社でも、「考える」という、人間にとってきわめて大切で、誰にでも必要なことを、私たちは学ばないのである。

    何事であれ、学ぶためには、「やり方」を知らなければいけない。さらに、「習うより慣れろ」と言われるように、とにかくたくさんやってみなければいけない。だが「考える」ことに関しては、いずれのチャンスも私たちには与えられていない。

    学校のことを思い出してほしい。私たちが教わるのは、個々の場面で必要なルールを身につけ、その中で決められたことに適切な答えを出すことだけである。いろいろやってみるというより、決まったことを繰り返す。それは「考えること」とは違う。少なくともここで言う「問い、考え、語り、聞く」という、対話的な意味での「考えること」ではない。

    そこに自己との対話はなく、まして他者との対話など望むべくもない。ただ出された指示に従うこと、教えられたことを教えられた通りに行うことが重視される。それに習熟することで、「よく考えなさい!」と言われた時に期待されている「正解」が出せるのだ。

    それはむしろ「考えること」とは反対のこと、「考えないようにすること」ですらある。「考えること」が「共に考えること」であり、「共に生きること」だとすれば、どう考えればいいかを学ばず、ただ考えないようにさせられているということは、この世で生きるうえで必要な、何かとても大切なものを犠牲にしているか、失っていることにならないだろうか。

    「自由」は考えることによってしか手に入らない

    その大切なものとは「自由」である。私たちは考えることによってはじめて自由になれる。考えることは、自分を縛りつけるさまざまな制約から自らを解き放つことである。

    世の中のルール、家庭や学校、会社での人間関係、常識や慣習、自分自身の思い込み、さまざまな怖れや怒り、こだわりから、ほんの少しであっても距離をとることができる。それが私たちの生に自由の余地を与える。私たちが考えるのは、考えなければならないのは、私たちにとってもっとも大切な自由を得るためである。

    考えるなんて、いつもやっている、自分はじゅうぶん自由だという人もいるだろう。牢獄につながれていても、思考だけは自由だ。そんな考え方もある。あるいは哲学好きな人であれば、人間にはそもそも自由なんてないんだ、それは幻想なんだ、という人もいるだろう。しょせん理想にすぎないという人もいるだろう。

    だが、私がここで言いたいのは、そういう当たり前のことでもなければ、幻想や理想に追いやってしまえるようなものでもない。きわめて具体的で身近な問題であって、まさしくすべての人に、子どもにも大人にも、人生の最初から人生の最後まで関わることである。

    私が「考えること」を通して手に入れる自由を強調するのは、現実の生活の中では、そうした自由がほとんど許容されていないからであり、しかもそれは、まさに考えることを許さない、考えないように仕向ける力が世の中のいたるところに働いているからである。だから、自由になるためには、「考えること」としての哲学が必要なのである。

    そんなことができるのかと思うかもしれない。たしかにただやみくもに考えればいいわけではない。一人だけで頑張っても、途中で力尽きるだけだろう。しかし、共に考える「対話」としての哲学には、それが可能なのである。しかもそこでは、一人で勝手に自由になるのではなく、他の人といっしょに自由になることができるのだ。

    これで本書のテーマ「生まれてから死ぬまで、いつでも誰にでも必要な哲学」を始める準備が整った。このあと第1章では、哲学対話で言われる哲学がどのようなものか、その特徴について述べ、対話のルールの意味を説明する。第2章では、このような哲学の存在意義として、先に述べた「自由」についてより詳しく説明し、「他者と共に自由と責任を取り戻す」という目的を提示しよう。続いて第3章では、哲学対話について、「問うことと考えること」「考えることと語ること」「語ることと聞くこと」に分けて述べていく。第4章では、哲学対話の場の作り方、ファシリテーションの仕方と注意点を具体的に説明するので、自分でも「哲学すること」を実践してみてほしい。

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