柳田國男

こういう二通りの色の分かちが存する限り、たとえ技術はこれを許すとしても、人は容易に禁色を犯そうという気にはならなかった。興奮はたとえば平野の孤丘のごときもので、それがなかったならば人生はもちろん寂しい。しかもしばしばその上に登り立つことも、堪えがたき疲労でありまた前進の妨げであった。それゆえに我々ははなやかなる種々の色が、天地の間に存することを知りながらも、各自は樹の陰のようなやや曇ったる色を愛して、常の日の安息を期していたのであった。それが固有の染料の自らの制限だけでなかったことは、単なる白という色の用い方を見てもよくわかる。現在は台所の前掛けにまでも使われるようになったが、白は本来はゆゆしき色であった。日本では神祭の衣か喪の服以外には、以前はこれを身に着けることはなかったのである。つまりは目に立つ色の一つであり、清すぎまた明らかすぎたからである。こういうやや不自然なる制限の解除せられたことは、一つには異なる外国の風習の、利あって害なきことを知ったからでもあるが、それよりも強い理由は晴れとの混乱、すなわちまれに出現するところの興奮というものの意義を、段々に軽く見るようになったことである。実際現代人は少しずつ常に興奮している。そうしてやや疲れてくると、初めて以前の渋いという味わいを懐かしく思うのである。

3 thoughts on “柳田國男

  1. shinichi Post author

    明治大正史 世相篇

    by 柳田国男

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    天然の禁色

    砂時計

    https://kitajiraud.wordpress.com/2009/09/22/天然の禁色%E3%80%80柳田国男/

     色は多くの若人の装飾に利用せられる以前、まずそれ自身の大いなる関所を越えてきている。色彩にもまた一つの近代の解放があったのである。我々が久しく幻の中にばかり映し出していた数限りもない色合いが、今はことごとく現実のものとなったのみならず、さらにそれ以上に思いがけぬ多くの種類をもって、我々の空想を追い越すことになったのである。この変化は決して単純なる程度の進みではなかった。日本は元来甚だしく色の種類に貧しい国であったと言われている。天然の色彩のこのように豊かな島として、それはあり得ないことのようであるが、実際に色を言い表す言葉の数は乏しく、少し違ったものはことごとく外国の語を借りている。そうして明治の世に入って後まで、そういう借り物までを取り集めても、使っている数は四十にも足りなかった。しかも緑の山々の四時の移ろい、空と海との宵暁の色の変化に至っては、水と日の光に恵まれた島国だけに、また類もなく美しく細かくかつ鮮やかであったのである。この二つの事実の矛盾しないわけは、我我が目に見、心に映し取る色彩の数と、手で染め身に装うことのできたものとの間に、きわめて著しい段階があったということで説明し得る。難しい言葉ではあるが、私たちはこれを天然の禁色と言おうとしている。その禁色が近代の化学染料期になって、ことごとく四民に許されるようになったのである。
     禁色は一方にはまた国の制度でもあった。たとえば黄の一色だけは王者の服、紫は定まって上流の官人に許すというように、その位に列せぬ者が用いることを非法としたのは、古い国々の常の例であったが、その動機は今でもよくわかっている。つまりは中世以前の社会においても、その時代の文化能力の許す限り、できるだけ多くの天然の色彩を、取り下ろして人間の用い得るものとしようとした念慮は、今日と異なるところがなかったのである。染法は我々の祖先が最も熱心に、外国から学ぼうとした技術の一つであった。高価なる染料はその目的のために、辛苦して遠く求められ、これが金銀珠玉に次いでの主要なる貿易品であった。得がたく染めがたい新種の色彩が、尊貴の特徴となったのは自然の結果であって、これを常人の模倣することを禁じたというのは、むしろその工芸の幾分か民間に普及し始めたことを意味するのである。京都の富の独占が少しずつ緩んでから、いわゆる雑戸の分散が始まった。種々の職人は田舎を渡り歩いて、農民の間に生計の道を開くようになった。染物師はその中でも比較的新しい出現であって、近世ようやく店の数を増加した後まで、なお村々の手染めと対立して、その全部に取って代わることはできなかったが、それでも在来の禁色の制度を、ついに無効に帰せしむるには足りたのである。ある一つの色が庶民の常用に許されなくとも、彼らはその専門の知能をはたらかせて、別に第二の、それよりも珍しく、また上品なものを工夫することができたのである。この点が黄金や宝玉などとは事変わり、色彩の文化の長く一部の独占に属し得なかった理由であって、仮に他のいくつかの条件さえ備わっていたならば、必ずしも明治の新世紀に入るを待たずして、色はいくらでも通俗化していくことができるはずであった。これを制抑していた力は別にあった。あまり多くの人の心づかぬ間に、その制御が徐々として解けてきていたのである。
     いわゆる天然の禁色に至っては、この人間の作り設けた拘束に比べると、はるかに有力なものであった。今でもその力はまだ少しばかり残っている。我々が富と知力との欠乏のために、どうしても自分のものとすることのできなかった色というものは、つい近ごろまではその数が非常に多かったが、仮に技術が十分手軽にその模倣を許すとしても、なおはばかってこれを日常の用に供しようとしなかったものがいくらもある。とくに制度を立てて禁止するまでもなく、多くの鮮麗なる染色模様などは、初めから我々の生活の外であった。質素は必ずしも計算の結果ではなかった。江戸期の下半分には衣類倹約の告諭が何度か出ているが、これに背くような人たちは、村方には何ほどもいなかった。東北などのある藩では農民の衣類の制式を定めている。他の多くの土地にはそのような掟はないけれども、やっぱり農民はそれ以上のものは着なかった。これは貧乏のためなりと解するのも理由はあるが、彼らはまれに豊かなる場合においても、多くは飲み食いのほうへばかりその余力を向けている。好みを世間並みにして目に立つことを厭うたということもあろう。あるいはまた感情の安らかさを保つために、努めて年久しい慣習を受け継いでいたと見ることもできるが、その慣習の元にさかのぼってみると、何か今少し深いわけがありそうである。手染めの染草は大部分は山野に採り、もしくは園の片端に植えたものであったが、その品種はすでに豊かであり、またその処理の技術も驚くほど進んでいた。必ずしも澄んだ明るい色合いが出せぬというためでなく、わざわざ樹陰のようなくすみをかけ、縞や模様までもできるだけ小さくしていた。そうしてこれがまた衣裳以外の、種々なる身の回りの一様の好みであったことは、以前は町方も村と異なるところがなかった。
     つまり我々は色に貧しかったというよりも、強いて富もうとしなかった形跡があるのである。これが天然の色彩のこのとおり変化多き国に生まれ、それを微細に味わいまた記憶して、時節到来すればことごとく利用することのできた人民の、以前の気質であったということは不思議なようであるが、見方によってはこれも我々の祖先の色彩に対する感覚が、つとに非常に鋭敏であった結果とも考えられる。色の存在は最初一つとして天然から学び知らなかったものはないのであるが、その中には明らかに永くとどまって変わらぬものと、現滅の常なきものとの二種があった。地上に属するものとしては物の花、秋の紅葉も春夏の若緑も、美しいものはすべて移り動くことを法則としていた。蝶や小鳥の翼の色の中には、しばしば人間の企て及ばざるものがきらめいていたゆえに、古くはその来去をもって別世界の消息のごとくにも解していたのである。火の霊異の認められていた根本の要素には、もちろんあの模倣しがたい色と光があった。これに近いものはむしろ天上のほうに多かったのである。虹の架け橋は洋海の浜に居住する者の、ことに目を驚かし心をときめかすもので、中国でも虫偏をもってこの天象を表示する文字を作るように、日本ではこれを神蛇のすぐれて大いなるものと思っていた。その他おまんが紅などと名づけた夕焼けの空の色、またはある日のあけぼのの雲のあやのごとき、いずれも我々の手に触れ近づき見ることを許さぬということが、さらに一段とその感動を強めていたのである。いわゆる聖俗二つの差別は当然起こらなければならなかった。移してこれを日常の用途に、当てようとしなかったのも理由がある。
     だから我々は色彩の多種多様ということに、最初から決して無識であったのではなく、かえってこれを知ることがあまりに痛切なるために、忌みてその最も鮮明なるものを避けていた時代があったのである。人がこの点に最も多感であったのは、おそらく童子から若者になるまでの期間であろうが、だれしも一生涯には二度か三度、とうていぬぐい消すことのできぬような印象を受けていて、それがたいていは異常なる心理の激動と結びついていた。それが各自の体質の上に、いかなる痕跡を残すものであったか、はたまた遺伝によってどれだけの特徴を、種族の中に植えつけるものであるか、これはなお進歩すべき生理学の領分であるけれども、少なくとも日本の国民が古く蓄えていた夢と幻との資料は、すこぶる多彩のものであったらしい証拠がある。言葉にはこれを表す手段がいまだ備わらず、単に一個のアヤという語をもって、心から心に伝えてはいたが、人は往々にして失神恍惚の間において、いたって細緻なる五色の濃淡配合を見ていたのである。絵が始まり錦を織るの術が輸入せらるるや直ちにこれを凡俗の生活に編み込むことをあえてせず、一種崇敬の念をもって仰ぎ見ていたのも、必ずしも知力の等差なり貧富の隔絶なりではなかった。仏法がその宣教の主力を、堂塔の金碧荘厳に置いたのも、いわば一つの無意識なる巧みであった。天然に養われたるこの国民の宗教心は、常にこの類の異常色彩によって、目覚めまた必ず高く燃え立つようにできていたのである。
     こういう二通りの色の分かちが存する限り、たとえ技術はこれを許すとしても、人は容易に禁色を犯そうという気にはならなかった。興奮はたとえば平野の孤丘のごときもので、それがなかったならば人生はもちろん寂しい。しかもしばしばその上に登り立つことも、堪えがたき疲労でありまた前進の妨げであった。それゆえに我々ははなやかなる種々の色が、天地の間に存することを知りながらも、各自は樹の陰のようなやや曇ったる色を愛して、常の日の安息を期していたのであった。それが固有の染料の自らの制限だけでなかったことは、単なる白という色の用い方を見てもよくわかる。現在は台所の前掛けにまでも使われるようになったが、白は本来はゆゆしき色であった。日本では神祭の衣か喪の服以外には、以前はこれを身に着けることはなかったのである。つまりは目に立つ色の一つであり、清すぎまた明らかすぎたからである。こういうやや不自然なる制限の解除せられたことは、一つには異なる外国の風習の、利あって害なきことを知ったからでもあるが、それよりも強い理由は褻と晴れとの混乱、すなわちまれに出現するところの興奮というものの意義を、段々に軽く見るようになったことである。実際現代人は少しずつ常に興奮している。そうしてやや疲れてくると、初めて以前の渋いという味わいを懐かしく思うのである。

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  2. shinichi Post author

    「褻(ケ)」「晴れ(ハレ)」
    「現滅の常なきもの」「永くとどまって変わらぬもの」
    「移り動く地上の色」「変わることのない天上の色」
    「常の日の安息」「特別な時の興奮」
    「樹の陰のようなやや曇ったる色」「こころときめく ゆゆしき禁色」

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  3. shinichi Post author

    ハレとケ

    https://ja.wikipedia.org/wiki/ハレとケ

    ハレとは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつ。

    民俗学や文化人類学において「ハレ」という場合、ハレ(晴れ、霽れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、(褻)は普段の生活である「日常」を表している。

    ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、とは画然と区別した。

    もともとハレとは、折り目・節目を指す概念である。ハレの語源は「晴れ」であり、「晴れの舞台」(=生涯に一度ほどの大事な場面)、「晴れ着」(=折り目・節目の儀礼で着用する衣服)などの言い回しで使用されている。これに対し普段着を「ケ着」と言ったが明治以降から言葉として使用されなくなった。また、現代では単に天気が良いことを「晴れ」というが、江戸時代まで遡ると、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と記した記録がある。

    1603年にイエズス会が刊行した『日葡辞書』には、「ハレ」は「Fare」と表記され、「表立ったこと、または、人々がたくさん集まった所」と説明され、「ケ」は「Qe」と表記され、「普通の、または、日常の(もの)」と説明されている。

    ハレの日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されたが、これらはかつて日常的に飲食されたものではなかった(当時の庶民にとっては雑穀と汁物と漬物が日常食で、肉や魚などの動物性の食品はご馳走であった)。また、そのための器もハレの日用であり、日常的には用いられなかった。

    日本では、戦後から高度経済成長を経て、大衆消費社会になったことで、派手な物、美味しい物が手軽に消費出来るようになり、ハレとケの区別が曖昧になった(どちらかと言えばハレが続いている状態になった)と言われている。

    ハレ、ケ、ケガレ

    「ハレとケ」という概念関係の捉え方は、柳田國男が近代化による民俗の変容を指摘する一つの論拠として、ハレとケの区別の曖昧化が進行していること(例えば、ハレの儀礼時にのみ行っていた特別な飲食が日常的に行われる、など)を提示したのが始まりである。柳田は、何世代か前の人々の「ハレとケ」の区別の仕方と、柳田の同時代の人々の「ハレとケ」の区別の仕方を比較し、そこから未来への潮流を読みとろうとした。

    当初「ハレとケ」という捉え方はそれほど注目を集めなかったようであるが、和歌森太郎が着目してから後、広く学界内で知られるようになった。ただ民俗学においては、柳田が目指した過去・現在の比較から未来を読みとくという通時的分析を志向せず、長らく「ハレとケ」の二項図式を公理のようにみなした民俗構造の共時的な分析に傾斜し、もっぱら“「ハレ」の非日常=儀礼や祭り”に対して関心が寄せられていた。

    1970年代に入ると、多分に構造主義の影響を受けて、新たな議論が「ハレとケ」について巻き起こる。伊藤幹治を皮切りにした議論は、波平恵美子、桜井徳太郎、谷川健一、宮田登、坪井洋文らによるシンポジウムで一つのピークに達する。そこでは、「ハレとケ」の関係に新たにケガレという概念を加味するべきではないかということや、論者によって「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」(あるいは「ハレ」と「ケ」)に対する捉え方が多様であることが確認された。

    「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」のモデルには、日常生活を営むためのケのエネルギーが枯渇するのが「ケガレ(褻・枯れ)」であり、「ケガレ」は「ハレ」の祭事を通じて回復すると唱える桜井の循環モデル、従来の「聖=浄」への偏りに対して、「不浄」の観念とその「清め・祓い・贖い」の儀式の重要性を主張する波平のフォークモデル、ケは気=霊的生命力であり、ケガレ(気枯れ)にはもともと不浄観は伴っていなかったという宮田の説などがある。しかしながら、研究者間の「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」(「ハレとケ」)の議論の隔たりは現在も解消されておらず、統一的な定義を打ち出せずに今日に至っている。

    一方で、少なくとも中世までの資料の中でハレ・ケ・ケガレの3つの概念が関連づけられる例は見当たらないという指摘もある。

    葬式について

    さまざまな論争がある中に、たとえば、葬式をハレとするか、ケガレとするかというものがある。一般通念では葬式は不幸ごとであり、結婚式などのお祝いごとと区別したくなるところなので、この立場に立つ波平恵美子は葬式をケガレと明確に規定している。

    一方、瀬川清子をはじめとした民俗学者の多くは、死者に供える高盛の飯を花嫁に供える民俗事例や葬式に赤飯を炊いていたと思われる民俗事例、晴れ着を着て喪に服した民俗事例などを念頭に、「非日常」という点で葬式もハレだとしている。

    日本において葬祭として葬儀と祭事を分けてきたが、元々の漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことによって明確な区別が無くなったとの説もある。

    日本神道では、塩を穢れを祓い清める力を持つとみなす。そのため祭壇に塩を供えたり、神道行事で使う風習がある。また、日本においては死を穢れの一種とみなす土着信仰がある(神道に根源があるという)。そのため葬儀後、塩を使って身を清める風習がある。これは仏教式の葬儀でも広く行われるが、仏教での死は穢れではないとして、浄土真宗など葬儀後の清めの塩を使わない仏教宗派もある。

    聖俗二元論とのかかわり

    ハレとケは、「ハレ=殊」「ケ=常」の関係以外でも、社会学者デュルケムの聖俗二元論との類縁性、すなわち、「ハレ=聖」「ケ=俗」の関係で論じられることもある。とりわけ、聖なる時間 / 俗なる時間という区分けとハレ / ケという区分けは相互に共通する部分がある。しかしながら、聖と俗という概念もハレとケと同様に、論者によって定義が異なっており、概念相互の関係を論ずるには注意を払う必要がある。

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