ガダルカナル島へやられた兵士

やっぱりいまでも、いっぺんでいいから偉い人に聞いてみたいと思いますね。何のために私たちはあの島へやられたのか。

**

われわれは戦争に行ったんでないって。殺されに行ったんだって言うの。俺に言わせれば。戦争っていうのは、戦って初めてね、負け勝ちを決めるんだから。違うんだもん。われわれは戦ってないんだもの。とにかく悲惨だよね。

2 thoughts on “ガダルカナル島へやられた兵士

  1. shinichi Post author

    「日本人はね、1人も助からんよ。そういう戦いだもん」惨敗、マラリア、餓死…ガダルカナル島で散ったある精鋭部隊と“その後”

    幽霊部隊#2

    by 小池新

    https://bunshun.jp/articles/-/56599

     北海道旭川市を本拠とする歩兵第二八連隊から抽出された一木清直大佐率いる一木支隊は、1931年の満州事変や1939年のノモンハン事件などに出動し、歴戦の精鋭部隊として知られていた。しかし、1942年の8月21日、激戦となったガダルカナル島で916人中777人が戦死するという全滅状態に陥ってしまう。

     まさに、その8月21日の夜。部隊が出発した旭川第七師団では、無表情のどす黒い顔をした部隊が帰還する姿を見たという目撃談が相次いでいた――。

    ◆◆◆

    「伝統的戦法である白兵威力」に絶大な自信をもっていた一木支隊の“予想できなかった運命”
    「一木支隊全滅」によると、幽霊部隊の帰還を否定した留守部隊将校もいた。しかし、師団の兵士たち、宿営していた中学生、さらには兵士の家族たちまでと、怪異譚はかなり広範に広がっている。死者たちはそれほどまでに、この世に強い思いを残していたのだろうか。

     確かに、一木支隊の運命は誰もが予想できないものだった。古賀牧人編著「近代日本戦争史事典」によれば、ガダルカナルは、オーストラリア攻略のための航空基地として適していたことから、日本海軍が1942年6月上陸。海軍設営隊が飛行場建設を進めていた。

     ところが、それを察知したアメリカ軍は海兵師団などの約1万8000人を上陸させて飛行場を占拠した。日本陸軍は飛行場設営を海軍から知らされていなかったという。さらに、当時の大本営(戦時の陸海軍統帥機関)作戦課でガダルカナルという地名を知っている参謀が1人もいなかったといわれる。

     反攻のため選抜されたのが一木支隊だった。戦闘能力の高さが評価されていたのだろう。輸送船で帰国の途についていた一木支隊は8月9日、ラバウルの第一七軍の指揮下に入ってガダルカナルに向かうよう命令を受ける。

    「このとき一木大佐は『ミッドウエーを取るべく旭川を出陣してきたが、作戦が中止となり、このままおめおめ帰れぬと思っていたところだ』と腕を撫して決意を述べたといわれる」(「旭川第七師団」)

     同書は大佐について「その歩兵戦闘に対する思想は『伝統的戦法である白兵威力による夜襲』を重視していた」「ことに歩兵第二八連隊の精鋭に対する過度の自信と、米軍兵力についての過小評価がこの時、心の中にあったことは否定すべくもない」と書く。

    「戦意に乏しく、厳しい戦いになるとすぐ降参する」というアメリカ軍兵士のイメージ

     中継地トラック島での陸海軍作戦会議でも「上陸2日目の夜、銃剣突撃をもって一挙に飛行場に突入する」のを基本戦術とすることを力説したという。

     それは一木大佐だけの考えではなかったようだ。防衛庁防衛研修所戦史室編「中部太平洋陸軍作戦第1マリアナ玉砕まで」(1967年)によると、ガダルカナルに上陸した米軍は戦意は旺盛でなく、目的は単に飛行場の破壊にあるといわれていたという。そうした見方の根本にあったのはアメリカ軍兵士の資質に対する根強い蔑視だった。

     一木支隊が旭川を出発する直前の1942年5月10日付の北海タイムス(北海道の地元紙)に興味深い記事が載っている。

    「敗れて喜ぶ米比捕虜 俺は共和黨(党)、戰(戦)争は眞平(真っ平)」の見出しで、日本軍が直前に占領したフィリピン・コレヒドール島で、捕虜になったアメリカ兵が「俺は民主党じゃねえから、ルーズベルト(当時のアメリカ大統領)のために戦争するのは反対だよ」と語り、別のアメリカ兵が「これで俺たちはアメリカへ帰れるぞ」と真顔でうれしそうに言ったと書いている。

    「戦意に乏しく、厳しい戦いになるとすぐ降参する」というアメリカ軍兵士のイメージは国民の間にも刷り込まれていた。

     NHK取材班「太平洋戦争 日本の敗因2 ガダルカナル 学ばざる軍隊」(1995年)によれば、8月13日、第一七軍は一木支隊に「先遣隊を編成し、とりあえず駆逐艦6隻に分乗してガダルカナルに向かえ」との作戦命令を出した。支隊を2つに分け「約半分の900人で十分」という意味。軍全体が敵を“なめて”かかっていたということだろう。

    「とにかく戦争に負けるなんてことは考えてないんだから」「とにかくアメさんは、日本の軍隊と違って精神力がないから弱いと」

     NHK「戦争証言」プロジェクト「証言記録 兵士たちの戦争2」(2009年)の第3章で一木支隊の生き残りの1人は「ぱーっと行って、手柄を立ててから故郷に帰れるって簡単に考えていた。とにかく戦争に負けるなんてことは考えてないんだから」と証言。

     別の1人も「兵隊に入って、いろいろ日本軍が調査した範囲内のアメリカ兵はこうだっていう話を、概略を聞かされてね。それによると、とにかくアメさんは、日本の軍隊と違って精神力がないから弱いと。それから地上戦というのをやったことのない兵隊が多いから、とにかく大したことないんだと。いま考えてみるとね、調査不足っていうか、本当にただただ驚くだけですね。もう決めつけさ」と語っている。一木大佐が第一七軍の参謀に「(北方の)ツラギも取っていいか」と聞いたという話が残っている。

    「この軽装備はいかにも戦う相手を過小評価していたと言わざるを得ない」

     8月16日、一木支隊先遣隊はトラック島を出発。18日深夜、月明りの中をガダルカナル島中央部北岸に上陸した。後続の部隊を待たず、同島西部北岸の飛行場目指して行動を開始。20日午前、一木大佐は攻撃命令を下達したが、その要旨は「行軍即捜索即戦闘」主義だった。

     亀井宏「ドキュメント太平洋戦争全史 上」は一木支隊先遣隊の戦力について「いわば歩兵一個大隊(程度)であり、歩兵部隊の携行弾薬は各自250発、糧食は7日分に限定された」「この軽装備はいかにも戦う相手を過小評価していたと言わざるを得ない」と指摘。この段階で「大佐は米軍約2000と読んでいたともいわれている」と述べている。

     これに対しアメリカ軍は「中川(イル川の日本側の名称)左岸に一連の主戦闘陣地線を構築中で、その火力組織は濃密を極め、しかも多数の戦車が特火点となって配置されていた」(「旭川第七師団」)。

     8月20日午後10時半、支隊の尖兵が中川右岸から約10メートルに達すると、敵の照明弾が次々打ち上げられる中、敵の急激な自動小銃の射撃を受けた。一木大佐は河口付近に渡れる砂州を発見。21日未明、部隊主力は砂州に出て突撃を始めた。

    「日本人はね、ちょうど袋の中に入ったネズミと同じよ。1人も助からんよ。そういう戦いだもん」

     しかし、前方から猛烈な銃砲火が降り注ぎ、兵士の大部分は瞬時に砂州に折り重なって倒れた。「証言記録 兵士たちの戦争2」で生き残り兵士の1人は次のように振り返っている。

    「日本人はね、ちょうど袋の中に入ったネズミと同じよ。うん、逃げて行けないんだもん。逃げもしない、隠れもしないで、袋の中に入ってるとこを、アメリカは自由自在に鉄砲撃つんだもん。簡単に死んじゃうさ。そんなもん、1人も助からんよ。そういう戦いだもん」

     午前9時ごろにはアメリカ軍の戦車が登場。残存兵は砲撃と戦車の蹂躙でみるみる数を減らしていった。「一木大佐は既に打つべき手段もなくなったと感じて、午後3時ごろ、軍旗を奉焼して自決して果てた。部下の将兵の大部も、支隊長に従ってそこで壮烈な戦死を遂げた」と防衛庁防衛研修所戦史室編「南太平洋陸軍作戦 第1 ポートモレスビー・ガ島初期作戦」(1968年)は記述する。

     一方、関口高史「誰が一木支隊を全滅させたのか」(2018年)は、一木大佐が銃弾を頭に受けて戦死したとしている。「日本陸軍の反攻米軍との最初の戦闘は、このように不幸、悲惨のうちに終わり、ガ島奪回の夢は一朝にして破れた。それはあまりにもあっけない敗北であり……」と「南太平洋陸軍作戦 第1」は書く。幽霊部隊が旭川に帰還したのはその夜のことだった。

    ザァークザァークと砂浜を踏んでくる低い靴音がする。10人ばかりと思われる足音だった

     実は一木支隊の幽霊部隊はガダルカナルにも“現れて”いる。益田勝美・元法政大教授の「ガダルカナルの幽霊」=和島誠一ら編「日本歴史物語第8」(1955年)所収=はこんな話だ。

     一木支隊が全滅してから約半月後というから1942年9月上旬だろうか。新たに送り込まれた川口清健少将率いる川口支隊の駐屯地でのこと。2人の歩哨が警戒していると、ザァークザァークと砂浜を踏んでくる低い靴音がする。10人ばかりと思われる足音だった。

     歩哨の1人は「敵だ!」と思ったが、体中がゾーッとしてしびれたようになり、口も足も動かない。暗闇から現れたのは日本軍部隊だった。

     真ん中に軍旗を納めた袋を持った連隊旗手、周りに着剣した銃を担いだ護衛の兵士。それは軍旗護衛小隊だった。

     近づくと、旗手の少尉の頬から血が流れ落ちているのがよく見えた。みんな悲しそうな、このうえなく悲しそうな顔つきの、うなだれた護衛小隊は、誰も味方の歩哨に気も留めないでザァークザァークとゆっくりゆっくり闇の中に消えていった。

    「どこの部隊だろう」。歩哨は時間がたってからもう1人に聞いた。「どこだろうか。俺はどうもさっきから寒気がしてきたみたいだ」ともう1人は答えた。交代になってそのことを報告したが、上官は「うそをつけ」と真っ赤になって怒った。

     次の晩もまた次の晩も、うなだれた軍旗護衛小隊は同じ時刻に、同じ方向に向けてザァークザァークと歩いて行った。上官はもう「うそをつけ」と言わなくなった。全滅した一木支隊の幽霊が引き揚げてくるのだ。誰言うとなく第一線ではそういううわさが広がった――。

     旭川の幽霊部隊より戦争童話ふうで物悲しい。第二八連隊はその後、再編され軍旗も再び授与されるが、戦いに敗れたうえに軍旗まで失った悲しみがにじみ出ているようだ。出典は書かれていないが、たぶん人から人へ言い伝えられてきた話なのだろう。

    好転しない戦局、マラリアの蔓延、そして相次ぐ餓死…その後のガダルカナル島で待ち受けていたもの

     その後のガダルカナル戦はさらに悲惨だった。飛行場確保に固執する日本軍は、川口支隊、第二師団、第三八師団と次々戦力を投入するが、装備が圧倒的に劣っていたことなどから、年を越して1943年になっても、戦局は好転しなかった。

     そこにマラリアが蔓延。さらに制空権をアメリカ軍に奪われて物資は細々とした“ネズミ輸送”に頼らざるを得なくなり、兵士はすさまじい飢餓に苦しんだ。「証言記録 兵士たちの戦争2」には生き残り兵士の声が載っている。

    「ただご飯を食べたかったね。『もう銀飯(白米)腹いっぱい食べたら死んでもいい』って、そう言いながら死んだのもいましたよ、ずいぶん」「私も死のうと思ったこと何回もあるもの。もう、こんなつらい思いをするなら、いっそのこと、死んだ方がなんぼか楽だなと思ってね」……。

     読んでいると、そうした飢餓地獄を味わうことがなかった点では死者の方が幸せだったようにも思える。ガダルカナルはいつしか“飢島”と呼ばれるようになった。

    「その目的を達成せるにより、同島を撤し、他に転進せしめられたり」

     結局、大本営は同島の放棄を決定。1943年2月7日まで3回にわたって駆逐艦による兵員の撤収が行われ、陸海軍将兵計1万3600人が救出された(「近代日本戦争史事典」)。

     2月9日、大本営は次のように発表した。「掩護部隊としてソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、昨年8月以降引き続き、上陸せる優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し、激戦敢闘よく敵戦力を破砕しつつありしが、その目的を達成せるにより、2月上旬、同島を撤し、他に転進せしめられたり」(原文のまま現代仮名遣いに)。これを機に「撤退」を言い換えた「転進」が流行語になった。

     発表では「敵に与えたる損害 人員2万5000以上」「わが方の損害 人員1万6374名」とされた。しかし、これは悪名高い「大本営発表」。

     実際には諸説あるが、「ガダルカナル 学ばざる軍隊」によれば、上陸した日本軍の総人員3万1358人のうち戦死・行方不明は2万1138人。そのうち戦闘で死亡した兵士は約5000人と推定され、残りの1万5000人以上が飢えと病に倒れたとみられる。

    限界をむかえた日本兵たち…兵士たちの間で流行した“生命判断”の基準

     一時はガダルカナル現地にも入るなどして強気の作戦指導を行い、強い批判も浴びた大本営作戦課作戦班長の辻政信中佐(当時)は、戦後「ガダルカナル」を出版。その中で1942年12月中旬、第一七軍参謀長から来た電報の内容を記している。

    1.全軍、糧秣全く尽きて既に2週間。木の葉、草の根もまた尽き、川底の水ゴケまで食い尽くしたり
    2.弾薬もまたなし。各部隊将兵中、動き得る者はほとんどなく、ただ全員各自の壕に座ったまま、敵来襲に際しては、銃剣と軍刀により最後の戦いを準備しあり
    3.なし得れば、空中補給をお願いいたしたし

     同書は、山岳地帯にこもった日本兵の間で流行した生命判断も紹介している。

    ▽立つことのできる人間は…………寿命は30日間
    ▽体を起こして座れる人間は………3週間
    ▽寝たきり起きられない人間は……1週間
    ▽寝たまま小便をする者は…………3日間
    ▽ものを言わなくなった者は…………2日間
    ▽まばたきしなくなった者は…………明日

     この生命判断は決して外れることがなかったという。

     林三郎「太平洋戦争陸戦概史」(1951年)は「『ガ』島の日本軍は極めて多数の餓死者を出した。この一事によっても、この作戦が日本軍の力に余るものであったことが分かる。従って、作戦失敗の責任は、こんな作戦をしゃにむにやらせた大本営がその大部を負うべきであろう」と言い切っている。

     確かにその通りだろうが、問題は「作戦失敗」という4文字の背後に膨大な兵士の生命の喪失があることだ。

    「われわれは戦争に行ったんでないって。殺されに行ったんだって」

     それにしても、太平洋戦争の数多い戦場の中でも、ガダルカナル戦でこうした稀有な怪異譚が生まれたのはなぜなのだろう。

     考えられるのは、戦死した一木支隊の兵士のほぼ全員が、なぜ自分が死なねばならないのか、全く分からないまま命を落としたということだ。死の覚悟どころか、故郷や家族や友人らに思いを寄せる余裕もなく砲火の中でみじめに死ななければならなかった。

    「証言記録『兵士たちの戦争』2」によれば、支隊生き残り兵士の一人は「やっぱりいまでも、いっぺんでいいから偉い人に聞いてみたいと思いますね。何のために私たちはあの島へやられたのか」と語る。

     別の一人はこう言い切る。

    「われわれは戦争に行ったんでないって。殺されに行ったんだって言うの。俺に言わせれば。戦争っていうのは、戦って初めてね、負け勝ちを決めるんだから。違うんだもん。われわれは戦ってないんだもの。とにかく悲惨だよね」

     その怒りをどこにぶつけていいか分からない。そんなこの世に残した無念の思いが怪異譚を生むことにつながったのではないか。

     もう1つあるとすれば、ガダルカナルが、あの戦争の性格を如実に表した戦いだったからかもしれない。

     太平洋戦争の「分水嶺」と呼ばれ、それまでの日本軍の連戦連勝からアメリカ軍の反攻の前に敗戦と撤退の連続に移る転換点。日本の勝利を信じて疑わなかった国民が「何かおかしい」と思うようになった。

     さらに生き残った兵士も飢餓と病苦のどん底に落ちて行く悲惨。数多くの太平洋戦争の戦場の中でも、ガダルカナルが、1944年3月に始まったインパール作戦に次いで愚かな戦いだったといわれる。

     全体状況を正確に捉えようとせず、自軍の能力を過大評価し、敵をなめてかかって強気一辺倒で押す。兵力を小出しにして撤退を考えない。補給や通信・連絡を軽視する。陸軍と海軍の連携が皆無……。そして、その根底にあったのが軍人勅諭で「死は鴻毛よりも軽し」とされた根本思想。

     ガダルカナルから旭川に帰還した幽霊部隊は、そうした人命を軽視した愚かな戦争に対する無言の怨嗟の表れであり、80年後のいまも、あの戦争の本質について考える重要な素材なのではないか。

    「実はこういう話は全国どこにでもみられる。まさに『戦時民話』なのである」

     ノンフィクション作家、保阪正康氏は2017年2月11日付毎日朝刊で「戦時民話」と題して一木支隊の幽霊部隊を取り上げ、「実はこういう話は全国どこにでもみられる。まさに『戦時民話』なのである」と述べた。

     確かに、「日本民話の会」編集の「民話の手帖」などには、さまざまな「戦時民話」が集められている。1943年5月のアッツ島玉砕の時は、守備隊の母体である旭川第七師団に向かって行進ラッパが繰り返し鳴ったとされ、同月の山本元帥戦死の際は、日本全国で火の玉が飛んだといわれた。

     同年8月のキスカ島撤退では、アッツ島の方向から大勢の人間の歓声が聞こえたという証言がある。保阪氏は「昭和の戦争と独立 二十一世紀の視点で振り返る」(2013年)では「これまでいろいろな戦場体験を聞いてきて、いまだに心の隅に引っかかっていることがあります。それは幽霊の話なんです」と書いている。

    「いままでこのたぐいの話はまともに扱われてきませんでした」

    「われわれが見過ごしてきたこういう話も、心理学的に分析する必要があるんじゃないかと思うのです。そこには、兵士たちがあの戦争で抱えていた不満や追悼の念、生き残ってしまった負い目など、さまざまな深層心理が影響しているはずです。そのことを私たちはもっと思いやるべきではないでしょうか」

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *