本居宣長

人のおもきうれへにあひて、いたくかなしむを見聞て、さこそかなしからめとをしはかるは、かなしかるべき事を知るゆへ也。是事の心をしる也。そのかなしかるべき事々の心をしりて、さこそかなしからむと、わが心にもをしはかりて感ずるが物の哀れ也。

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  1. shinichi Post author

    道徳教育にむけての基礎的考察
    ―本居宣長の共感の倫理の可能性―

    by 榎本恵理

    2.「もののあはれ」と和歌

     「もののあはれ」は宣長思想のキーワードであるが、それは宣長の独創ではない。日野龍夫は、同時代の浄瑠璃に「もののあはれ」の語が多用されていたことを指摘し、当代の通俗文化に「もののあはれを知る」ことが人間の大切な価値と考えられていた事実を指摘した。浄瑠璃において武士は、「公的立場と私情の相克に苦悩することを期待されている存在であり、「物のあはれを知る」とは、たとえ公的立場と矛盾しようとも、私人としての情の発動を抑えないということであった」という。浄瑠璃や歌舞伎等にも通底しているとすれば、「もののあはれ」はむしろ庶民の人情、生活する者の「まことの情」の意味での「真情」に即した主情主義的人間観に通じると見ることができる。宣長は、都市民の日常感覚とその人間観を、王朝文化の系譜に位置づけ、儒教的人間観とは対抗的に提示した。宣長は「もののあはれ」について次のように述べている。

    人のおもきうれへにあひて、いたくかなしむを見聞て、さこそかなしからめとをしはかるは、かなしかるべき事を知るゆへ也。是事の心をしる也。そのかなしかるべき事事の心をしりて、さこそかなしからむと、わが心にもをしはかりて感ずるが物の哀れ也。

     人の心をわが心に置き換えて慮る、それが「物の哀れ」であった。それはその気持ちを知るがゆえに可能なのであった。さらに、次のようにもいう。

    古今序に、やまと歌は、ひとつ心をたねとして。万のことの葉とぞなれりけるとある。此こゝろといふがすなはち物のあはれをしる心也。次に、世中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふ事を、見る物聞く物につけて、いひいだせる也、此心に思ふ事といふも、又すなはち、物のあはれをしる心也。(中略)すべて世中にいきとしいける物はみな情あり。情あれば、物にふれて必ずおもふ事あり。このゆへにいきとしいけるものみな歌ある也。(中略)人は歌なくてかなはぬことはり也。

     生きとし生けるものには情があるなか、人の心はとりわけ思いも深く「物のあはれ」を知る存在である。だからすべての人に「歌なくてはかなはぬ」ものだという。「事にふれて、そのうれしくかなしき事の心をわきまへしるを、物のあはれをしるといふ」と述べ、「その心に思ふ事がなければ、歌はいでこぬ也」という。歌は事に触れ湧き上がる情としての「物のあはれ」の発露であった。

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