3 thoughts on “Haigerloch

  1. shinichi Post author


    第二次世界大戦の最後の数か月間、ハイガーロッホには、ドイツの核計画の一部であるカイザー ヴィルヘルム物理学研究所があった。研究所は、核分裂の実用化を目標としていた。 現在では、原子爆弾はこの研究所の直接の目的ではなく、教会の下のビールセラーに建設されたハイガーロック研究炉 (Forschungsreaktor Haigerloch) の建設のみだったと考えられている。 原子炉施設を残すための牧師の勇気ある交渉により、1945 年 4 月 24 日のアメリカ軍の命令による取り壊しを免れ、現在は原子炉のレプリカ(上の写真)を備えたアトムケラー博物館となっています。

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  2. shinichi Post author

    臨界寸前だったハイゼンベルク原子炉

    Science Portal

    https://youtu.be/7uuu9kGAd2U

    この原子炉は、ナチスの降伏直前に米国が送り込んだアルソス特殊部隊によって45年4月に、近くの畑に埋められていたのを接収され、徹底的に調べら れた。現在は、再現された炉心が現地の博物館で公開されている。その構造を基に計算したところ、「原子炉がほんの少しだけ大きければ、臨界に達していた」 とする計算結果を、高エネルギー加速器研究機構(KEK)の岩瀬広・助教がまとめた。科学史に造詣が深い政池明(まさいけ あきら)京都大学名誉教授(素粒子実験物理)と連名で、日本物理学会誌4月号に「ハイゼンベルク原子炉の謎」と題して報告している。

    それによると、ハイゼンベルク原子炉は直径、高さともに124センチの円筒形で、周りは厚さ40センチの黒鉛遮蔽体で覆われていた。天然ウランが燃 料体として使われ、1辺5センチの立方体が計664個、78本のアルミニウムの鎖で炉心の天井からぶらさげられて、中性子減速材の重水に浸される構造だっ た。岩瀬広さんがモンテカルロ法でこの原子炉の核分裂反応を計算した。天然ウランの量は、臨界に達するのに十分で、燃料切片のサイズや間隔もほぼ適切だっ たが、炉心が小さかったために、わずかに臨界に達しなかったことを確かめた。

    岩瀬さんの計算では、この原子炉はかなり臨界に近い状態で、炉心の円筒の高さと直径をそれぞれ8センチ伸ばして132センチにしておれば、臨界した ことになる。ハイゼンベルクらはかき集めたウランと重水を、連合国の猛爆撃をくぐり抜けてハイガーロッホまで運び込んだ。しかし、減速材の重水の量がわず かに不足して、余裕のない小さな炉心しか作れず、「最後まで臨界に至らなかった」と政池明さんらは指摘している。

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  3. shinichi Post author

    ヴェルナー・ハイゼンベルク

    https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴェルナー・ハイゼンベルク

    ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク(Werner Karl Heisenberg, 1901年12月5日 – 1976年2月1日)は、ドイツの理論物理学者。行列力学と不確定性原理によって量子力学に絶大な貢献をした。

    ドイツ帝国南部バイエルン王国(現在のバイエルン州)ヴュルツブルクに生まれる。ミュンヘン大学のアルノルト・ゾンマーフェルトに学び、マックス・ボルンの下で助手を務めた後、1924年にコペンハーゲンのニールス・ボーアの下に留学。ボルンとパスカル・ヨルダンの協力を得ながら、1925年に行列力学(マトリックス力学)を、1927年に不確定性原理を導いて、量子力学の確立に大きく寄与した。1932年に31歳の若さでノーベル物理学賞を受賞。

    母国ドイツではナチスの台頭で、同僚の多くがナチス体制下のドイツを去ったが、ハイゼンベルクは、プランクからの「今は生き残るために妥協を強いられるにしても、破局の後の新しい時代のドイツのために残るべきだ」という助言もあり、ドイツに残ることにし、場の量子論や原子核の理論の研究を進めた。

    ナチス政権下では、相対性理論及びユダヤ人物理学者を擁護する立場を取ったため、シュタルク、レーナルトらナチス党員の物理学者から、「白いユダヤ人」と呼ばれて強い攻撃に晒された。ナチス政府から召集され、第二次世界大戦中は原爆開発(通称「ウランクラブ」)に関わった。イギリスのベルリン空爆で、家を失ったが家族に犠牲はなかった。

    戦後は、1946年から1970年までマックス・プランク物理学研究所の所長を務めた。

    原爆開発

    ハイゼンベルクは、ドイツの原爆開発チーム「ウラン・クラブ」の一員だった。しかし後に、このことは精神的に苦痛だったと書いている。

    1941年、ハイゼンベルクはデンマークのボーアを訪ね、「理論上開発は可能だが、技術的にも財政的にも困難であり、原爆はこの戦争には間に合わない」と伝え、あるメモを手渡した。ボーアはそのメモをアメリカのハンス・ベーテに渡した。ベーテによると、それは原子炉の絵だった。ハイゼンベルクのシンクロトロンが、火災を起こし、懸命な消火活動によっても、1ヶ月間鎮火することはなかったため、世界中にニュースとして配信されたところ、その新聞記事を読んだアルバート・アインシュタインは、「ハイゼンベルクがとうとう、原子炉の開発に成功したので、原爆を作るのは時間の問題だ」と考えた。ボーアからベーテの手に渡ったハイゼンベルクのメモには重水炉のシェーマが記されており、これを見せられていたアインシュタインは、妄想にしか過ぎなかった原子爆弾開発競争を覚悟した。ハイゼンベルクは、ナチス高官による、電力不足の解決方法を重水炉でするという方法を打ち明けたが、自らは重水炉の開発をサボタージュした。それを知らなかったアメリカは、スパイを使っては、学会会場や、パーティー会場で何度もハイゼンベルクの暗殺を謀ったが、全て失敗に終わった。このようなことから、ハイゼンベルクは、ナチス原爆開発の意図的な遅延や、連合国側にドイツ側の情報を伝えることで原爆開発競争の抑止を図ろうとした、という見方がある[3]。

    終戦後は他の開発者と共にイギリス情報局秘密情報部の手でイギリスのファーム・ホールに軟禁され、広島・長崎の原爆投下のニュースもそこで聞いた。それを聞いたハイゼンベルクは、そんなことは不可能だと驚いたという。

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