除夜の鐘(笠龍桂)

大晦日は一年の最後の日で、古い年を除き去り、新年を迎える日という意味から「除日」といい、その夜は「除夜」といいます。この除夜に煩悩を祓うために打つ鐘を「除夜の鐘」といい、その打つ回数百八回は煩悩の数に由来しています。その百八煩悩をさらに突き詰めていくと、貪瞑痴の三毒、すなわち、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろかさ)に集約されます。この三毒こそが人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心の働きで、これを少しでも取り除き、捨て去ることが安楽の道なのです。
『法句経』の第二七九番に「すべての法は わがものにあらずと かくのごとく 智慧もて知らば 彼はそのくるしみを厭うべし これ清浄に入るの道なり」(友松圓諦訳)とあります。すべてのものは我がものではないと悟れば、だれでも苦しみのない、清らかな境地になれるという意味です。
「自分のもの」など何一つないと悟れば、執着や苦しみを打ち破ることができるのです。
除夜の鐘を聞きながら、一つでも煩悩を取り除き、安楽な境地で良い年を迎えたいものです。

One thought on “除夜の鐘(笠龍桂)

  1. shinichi Post author

    法話 除夜の鐘と三毒

    神奈川県 ・東学寺住職  笠 龍桂

    http://www.rinnou.net/cont_04/rengo/2012-12.html

    今年も早いもので師走となり、間もなく大晦日を迎えます。この大晦日は一年の最後の日で、古い年を除き去り、新年を迎える日という意味から「除日じょじつ」といい、その夜は「除夜」といいます。この除夜に煩悩を祓うために打つ鐘を「除夜の鐘」ということは誰でもご存じで、その打つ回数百八回が煩悩の数に由来していることも、多くの方が知っています。その百八煩悩をさらに突き詰めていくと、貪瞑痴(とんじんち)の三毒に集約されます。すなわち、「貪欲とんよく」(むさぼり)、「瞋恚しんい」(いかり)、「愚痴」(おろかさ)の三毒です。この三毒こそが人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心の働きで、これを少しでも取り除き、捨て去ることが安楽の道なのです。
     さて、私は在家からの出家で、元地方公務員の実父は現在八十四才になりますが、今から十九年前、六十五才の時に脳卒中で倒れ左半身不随となり、自宅介護となりました。この時の父はわがままで、「食事がまずい、もっと美味しいものが食べたい」とか、「あっちが痛い、これが気に入らない」とよく怒り、そして「左の手足が動かない、不便だ、もう死にたい」と愚痴ばかりこぼし、まさに三毒まみれの生活態度でした。
     そして四年前、母も病となり父の自宅での介護は難しくなり、老人介護施設に入居することになりました。父は八十年間住み慣れた家を離れる時、もうこの家には帰って来られないのだと覚ったのか、涙を流して自宅を後にしました。
     そして半年後、私が久し振りに見舞いに行くと、以前とは別人の様に、動く右手一本で、器用に車イスを操り、施設の廊下を行き来する、生き生きとした幸せそうな父がいました。
     私が「施設の食事はどう?」と尋ねると、「美味しい」と答える。昼間寝たきりにさせず、車イスで運動しているからお腹が空くのでしょう。「空腹こそ、一番のご馳走」とはよく言ったものだなと思いました。そして、「施設の生活はどう?」と尋ねると、「皆な親切で、ありがたい」と感謝の言葉を口にしました。さらに「寝たきりで全身麻痺の人もいるのに、自分は右手が動くのでありがたい」と、あれほど動かない左手に愚痴をこぼしていた父が、動く右手のありがたさに心の目が開いていたのです。驚きました。その時ハッと気がつきました。父は「自分の家、自分の妻、自分の動かない左半身」を捨て切っていたのです。自分のものという執着を捨てると苦しみがなくなり、心は安楽になるという仏教の真理に偽りはないと確信しました。
     『法句経』の第二七九番に、「すべての法は わがものにあらずと かくのごとく 智慧もて知らば 彼はそのくるしみを厭うべし これ清浄に入るの道なり」(友松圓諦訳)と、あります。これは、すべてのものは我がものではないと悟れば、だれでも苦しみのない、清らかな境地になれるという意味です。
     いくら財産をなしても、それは真の幸福や安楽ではありません。「自分のもの」など何一つないと悟れば、執着や苦しみを打ち破ることができ、これこそが真の安楽なのです。
     除夜の鐘を聞きながら、一つでも煩悩を取り除き、安楽な境地で良い年を迎えたいものです。

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