楕円幻想(花田清輝)

正直なところ、私には、ティコの楕円よりも、ヴィヨンの楕円のほうが、難解ではあるが、新鮮な魅力がある。それは詩学が、天文学ほど、常識化されていないためであろうか。それとも下界の風景が、私の身近にあるためであろうか。或いはまた、私の性質が、大いに無頼であるためであろうか。ひとは敬虔であることもできる。ひとは猥雑であることもできる。しかし、敬虔であると同時に、猥雑でもあることのできるのを示したのは、まさしくヴィヨンをもって嚆矢とする。なるほど、懺悔の語調で、猥雑について語ったものはあった。嘲弄の語調で、敬虔について語ったものもないではなかった。とはいえ、敬虔とか猥雑とが、──この最も結びつきがたい二つのものが、同等の権利をもち、同時存在の状態において、一つの額縁のなかに収められ、うつくしい効果をだし得ようなどとは、いまだかつて何びとも、想像だにしたことがなかったのだ。表現が、きびしい調和を意味するかぎり、こういう二律背反の状態は、すこぶる表現に適しない状態であり、強いて表現しようとすれば、この双頭のヘルメスの一方の頭を、断乎として、切り捨てる必要があると考えられていた。ヴィヨンはこれらの円の使徒の眼前で、大胆不敵に、まず最初の楕円を描いてみせたのである。

ブリダンとは、「ブリダンの驢馬」で有名な、あのブリダンである。水槽と秣桶との間におかれても、驢馬なら、断じて立往生することはあるまいが、屡々、人間は立往生する。これらの二つの焦点の一つを無視しまい。我々は、なお、楕円を描くことができるのだ。それは驢馬にはできない芸当であり、人間にだけ、──誠実な人間にだけ、可能な仕事だ。しかも、描きあげられた楕円は、ほとんど、つねに、誠実の欠如という印象をあたえる。諷刺だとか、韜晦だとか、グロテスクだとか、—人びとは勝手なことをいう。誠実とは、円にだけあって、楕円にはないもののような気がしているのだ。いま、私は、立往生している。思うに、完全な楕円を描く絶好の機会であり、こういう得がたい機会をめぐんでくれた転形期にたいして、心から、私は感謝すべきであろう。白状すれば、──時々、私もまた、昔の蒙昧な女王の恋人になりたくなる。そうなってしまいさえすれば、やがて女王は、私の立往生を、ほんとうの往生に変えてくれるでもあろう。しかし、そのばあい、私の描くであろう波紋は、円であって、楕円ではないのではなかろうか。

4 thoughts on “楕円幻想(花田清輝)

  1. shinichi Post author

    復興期の精神

    by 花田清輝

    楕円幻想

     ひとは敬虔であることもできる。ひとは猥雑であることもできる。しかし、敬虔であると同時に、猥雑でもあることのできるのを示したのは、まさしくヴィヨンをもって嚆矢とする。…敬虔と猥雑とが──この最も結びつきがたい二つのものが、同等の権利をもち、同時存在の状態において、一つの額縁のなかに収められ、うつくしい効果をだし得ようなどとは、いまだかつて何びとも、想像だにしたことがなかったのだ。

     …これら二つの焦点の一つを無視しまい。我々は、なお、楕円を描くことができるのだ。…しかも、描きあげられた楕円は、ほとんど、つねに、誠実の欠如という印象をあたえる。諷刺だとか、韜晦だとか、グロテスクだとか──人びとは勝手なことをいう。誠実とは、円にだけあって、楕円にはないもののような気がしているのだ。いま、私は、立往生している。思うに、完全な楕円を描く絶好の機会であり、こういう得がたい機会をめぐんでくれた転形期にたいして、心から、私は感謝すべきであろう。

     円は完全な図形であり、それ故に、天体は円を描いて回転するというプラトンの教義に反し、最初に、惑星の軌道は楕円を描くと予言したのは、デンマークの天文学者ティコ・ブラーエであったが、それはかれが、スコラ哲学風の思弁と手をきり、単に実証的であり、科学的であったためではなかった。プラトンの円とおなじく、ティコの楕円もまた、やはり、それがみいだされたのは、頭上にひろがる望遠レンズのなかの宇宙においてではなく、眼にはみえない、頭のなかの宇宙においてであった。それにも拘らず、特にティコが、円を排し、楕円をとりあげたのは、かれの眺めいった、その宇宙に、二つの焦点があったためであった。すくなくとも私は、ティコの予言の根拠を、かれの設計したウラニエンボルクの天文台にではなく、二つの焦点のある、かれの分裂した心に求める。転形期に生きたかれの心のなかでは、中世と近世とが、歴然と、二つの焦点としての役割をはたしており、空前の精密さをもって観測にしたがい、後にケプラーによって感謝されるほどの業績をのこしたかれは、また同時に、熱心な占星術の支持者でもあった。いかにかれが、星の人間にたいする影響力を深く信じていたかは、決闘によって自分の鼻の尖端を切り落されたとき、その原因のすべてを星に帰し、いさぎよく諦めてしまったという、無邪気な挿話からでもうかがわれる。

     円の跳梁するときもあれば、円に代り、楕円の抬頭するときもある。たとえば、コクトーは、──たしかコクトーであったと思うが、神戸の埠頭で、日本の子供が、きわめて無造作に、地上に完全な円を描くのをみて感動した。それはかれが、そのなにげない子供の一動作に、日本人全体のもつ芸術的天稟のいかなるものであるかをみたからであり、二つの焦点のない、その純粋な心の状態に、讃嘆の念を禁じ得なかったためであろう。かれの観察は、正しくもあれば、また、間違ってもいる。いかにも葛飾北斎は、定規もコンパスも手にとらず、神戸の子供よりも、もっと巧みに、完全な円を描いたでもあろう。しかし、我々は、──はたして我々もまた、我々の子供や、昔の芸術家のように、苦もなく、見事な円を描き得るであろうか。いまもなお、そういう純粋な心の状態にあるであろうか。我々の描く円は、ことごとく歪んでおり、そのぶざまな形に嫌気がさし、すでに我々は、円をかこうとする気持さえ失っているのではなかろうか。二葉亭の『其面影』の主人公は、苦しげに呟く。

     君は能く僕の事を中途半端だといって攻撃しましたな。成程僕には昔から何だか中心点が二つあって、終始其二点の間を彷徨しているような気がしたです。だから事に当って何時も狐疑逡巡する、決着した所がない。

     すなわち、これによってみても、我々の魂の分裂は、もはや我々の父の時代からのことであり、しかも私の歯痒くてたまらないことは、おそらく右の主人公が、初歩の幾何学すら知らないためであろうが、二つの焦点を、二つの中心として、とらえているということだ。かれの「狐疑逡巡」や、「決着した所がない」最大の原因は、まさしくここにある。何故にかれは、二点のあいだに、いたずらに視線をさまよわせ、煮えきらないままでいるのであろうか。円を描こうと思うからだ。むろん、一点を黙殺し、他の一点を中心として颯爽と円を描くよりも、いくらか「良心的」ではあるであろうが、それにしても、もどかしいかぎりではないか。何故に、決然と、その各々の点にピンを突き刺さないのであろうか。何故にそれらのピンに、一個の木綿の糸の輪をかけないのであろうか。何故に鉛筆で、その糸の輪をつよく引きながら、ぐるりと回転させないのであろうか。つまるところ、何故に楕円を描かないのであろうか。『其面影』を書いた以上、二葉亭は、この楕円の画法を知っており、不完全ながら、とにかく楕円らしいものの図形を描きあげたが、我々の周囲には、二点の間を彷徨し、無為に毎日をすごしている連中か、二点のうち、一点だけはみないふりをし、相変らず円ばかりを描いている、あつかましい連中かがみあたるにすぎない。転形期における錯乱の痛烈な表現を、また誰ひとりあたえてはいないのだ。自分の魂の周辺が、いかなる曲線を描いているかを示すということは、それほど困難なことであろうか。

     楕円の画法は、比較的簡単だが、楕円そのものの性格はきわめて複雑であり、たとえば「焦点ト呼バレル二個ノ固定セル点ニイタル距離ノ和ガ一定ナルゴトキ点ノ描ク軌跡」というような形式的定義は、楕円のもつ数多の性格のなかの一つを物語るものにすぎなかった。したがって、我々は、或るばあいにいは、弧をその要素に分析、または分割することによって、その曲線上の任意の点における切線により、或いは、その「曲度」により、楕円の性格の一つを表現すべきであった。同様の考え方にもとづき、我々は、楕円を、その対称軸に平行な線を引いて分割し、または中心から引いた多くの直線と円弧とによって分割し、これらの分割線の長さから、楕円の面積をみちびきだし、それにある、他の一つの性格を明らかにすべきであった。すなわち、我々は、或るときには、楕円を点の軌跡とみ、或るときには、円錐と平面との交線と考え、また或るときには、円の正射影としてとらえ、無数の観点に立つことによって、完膚なきまでに、楕円にみいだされる無数の性格を探求すべきであった。惑星の歩く道は楕円だが、檻のなかの猛獣の歩く道も楕円であり、今日、我々の歩く道もまた、楕円であった。

     いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが、その形がいかに変化しようとも、依然として、楕円が楕円である限り、それは、醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずることを意味する。これが曖昧であり、なにか有り得べからざるもののように思われ、しかも、みにくい印象を君にあたえるとすれば、それは君が、いまもなお、円の亡霊に憑かれているためであろう。焦点こそ二つあるが、楕円は、円とおなじく、一つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊のばあい、──すなわち、その短径と長径とがひとしいばあいにすぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるともいえる。ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘らず調和している、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈ではなかろうか。ポーは、その『楕円の肖像画』において、生きたまま死に、死んだまま生きている肖像画を示し、──まことにわが意を得たりというべきだが、それを楕円の額縁のなかにいれた。その楕円の額縁は、うつくしい金いろで、ムーア風の細工がしてあり、燭台の灯に照され薄闇のなかで仄かな光を放っていた。

    ティコ・ブラーエは、はじめて天界において楕円をみいだしたが、下界における楕円の最初の発見者は、フランソア・ヴィヨンであり、このフランスの詩人の二つの焦点をもつ作品『遺言詩集』は、白と黒、天使と悪魔、犬と猫──その他、地上においてみとめられる、さまざまな対立物を、見事、一つの構図のなかに纒めあげており、転形期における分裂した魂の哀歓を、かつてないほどの力づよさで、なまなましく表現しているように思われる。ティコのウラニエンボルクの天文台は、ヴィヨンのマンの監獄であり、前者が星のきらめく大空のみえる快適な部屋の中で、後者が日の光も射さない地下牢の壁にとりかこまれて、めいめいの思いに耽っていたとき、──おそらく、打開の方策も尽きはててしまった自分の前途に絶望し、まったく意気沮喪していたとき、突然、楕円発見の栄光が、二人をつつんだのである。ひとりは晴れわたった空に、ひとりは湿気を含んだ壁に──すなわち、かれらの前に立ちふさがり、絶えずじりじりとかれらを圧迫しつづけているもののなかに、不意に二つの焦点のある、かれらの魂の形をみいだしたのだ。

     有名なヴィヨンの『心と肉体の問答』の一節は、そのまま、また、ティコの『心と肉体の問答』の一節でもあった。ティコの探求は、主としてその研究費の問題で、絶えず政府との間に確執をおこし、ついにかれは、ウラニエンボルクをしりぞき、ヨーロッパ中をさまよい歩かなければならなかったが、晩年、ルドルフ皇帝の保護により、ようやくプラーグに落ち着くことができた。科学史は、かれの浪費と、かれの偏屈な性格と、政治家など眼中に置かない、かれの傍若無人な振舞について述べる。たしかに、かれは、支配者のむれのなかにあって、始終、いらいらしながら、面白くない毎日をすごしていたようだ。さらにまた、ヴィヨンにいたっては、周知のとおり三界に身の置きどころのない人間であり、盗賊団コキヤアル党の一員としてのかれの生涯が、殺人と、強盗と、飲酒と、恋愛とで明け暮れていったことについては、いまさらここで繰返すまでもない。

     正直なところ、私には、ティコの楕円よりも、ヴィヨンの楕円のほうが、難解ではあるが、新鮮な魅力がある。それは詩学が、天文学ほど、常識化されていないためであろうか。それとも下界の風景が、私の身近にあるためであろうか。或いはまた、私の性質が、大いに無頼であるためであろうか。ひとは敬虔であることもできる。ひとは猥雑であることもできる。しかし、敬虔であると同時に、猥雑でもあることのできるのを示したのは、まさしくヴィヨンをもって嚆矢とする。なるほど、懺悔の語調で、猥雑について語ったものはあった。嘲弄の語調で、敬虔について語ったものもないではなかった。とはいえ、敬虔とか猥雑とが、──この最も結びつきがたい二つのものが、同等の権利をもち、同時存在の状態において、一つの額縁のなかに収められ、うつくしい効果をだし得ようなどとは、いまだかつて何びとも、想像だにしたことがなかったのだ。表現が、きびしい調和を意味するかぎり、こういう二律背反の状態は、すこぶる表現に適しない状態であり、強いて表現しようとすれば、この双頭のヘルメスの一方の頭を、断乎として、切り捨てる必要があると考えられていた。ヴィヨンはこれらの円の使徒の眼前で、大胆不敵に、まず最初の楕円を描いてみせたのである。

     転形期は、ヴィヨンの魂を引き裂いた代償として、かれに、こういう放れ業を試みることを許したが、キリスト教的ルネッサンスが、次第に異教的ルネッサンスに移っていくにつれ、楕円の描き手もまた、ついに後を絶った。それでもなお、ヴィヨンに次いであらわれたナヴァルの女王マルグリットの『エプタメロン』には、特にその七十二の物語コントの組みたて方において、敬虔と猥雑との共存がみられ、堅固な信仰と放恣な肉慾という二つの焦点にもとづき、楕円らしいものの形が描かれているかのようだ。たとえば、死をもって貞操をまもった騾馬引きの妻の話の次には、ナポリ王が貴族の妻を誘惑したが、やがてその貴族に自分の妻を誘惑されるにいたった話が並んでいる。しかし、この作者の本音を、かの女の代弁者であるらしい作中人物パルラマントの口吻から察すれば、むしろ、かの女は、二つの焦点の解消、焦点と中心との一致を望んでおり、—すなわち、完全な円を描きたがっており、かくべつ収拾のつかないほどの、分裂した魂の所有者でもなかったらしい。もしも『遺言詩集』の詩人が、この物語を読んだならば、そういう聡明な女王の生ぬるさに愛想をつかし、恋人を河に投げ込んで殺す癖のあった、昔の蒙昧な女王のはげしさを、なつかしく思いおこしたでもあろう。

     さらに
     ブリダンを袋に封じ
     セーヌに流せし
     女王いずこ
     さあれ
     去年の雪いまいずこ

     ここにいうブリダンとは、「ブリダンの驢馬」で有名な、あのブリダンである。水槽と秣桶との間におかれても、驢馬なら、断じて立往生することはあるまいが、屡々、人間は立往生する。これらの二つの焦点の一つを無視しまい。我々は、なお、楕円を描くことができるのだ。それは驢馬にはできない芸当であり、人間にだけ、──誠実な人間にだけ、可能な仕事だ。しかも、描きあげられた楕円は、ほとんど、つねに、誠実の欠如という印象をあたえる。諷刺だとか、韜晦だとか、グロテスクだとか、—人びとは勝手なことをいう。誠実とは、円にだけあって、楕円にはないもののような気がしているのだ。いま、私は、立往生している。思うに、完全な楕円を描く絶好の機会であり、こういう得がたい機会をめぐんでくれた転形期にたいして、心から、私は感謝すべきであろう。白状すれば、──時々、私もまた、昔の蒙昧な女王の恋人になりたくなる。そうなってしまいさえすれば、やがて女王は、私の立往生を、ほんとうの往生に変えてくれるでもあろう。しかし、そのばあい、私の描くであろう波紋は、円であって、楕円ではないのではなかろうか。

     さあれ  去年の雪いまいずこ

    (花田清輝『楕円幻想―ヴィヨン―』)

    Reply
  2. shinichi Post author

    21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学

    平川克美 (著)
    2018/1/29

    めざすべきは、正円じゃなく、楕円。
    もう1つの焦点をいかにしてつくるか?

    全財産を失い、右肺の3分の1も失った著者がたどり着いた、新たな贈与論。

    人は必ず病み、衰え、老い、死んで土に還る。でも、その可傷性・可死性ゆえに、生きている間だけ人は暖かい。平川君が構築しようとしているのは、壊れやすく、傷つきやすいけれど、それゆえ暖かい「生身の人間の経済学」である。――内田樹氏、推薦!

    文無し生活、その日暮らし、タケノコ生活、自転車操業の日々となった。とほほである。
    多くの人々は、そんな生活をしたいとは思わないだろう。しかし、やってみるとこれがなかなか時代に適合した生き方のようにも思えてくる。…そのために必要なものは何か。…その答えは本書をお読みいただきたいと思う。――「まえがき」より

    『小商いのすすめ』から6年、『「消費」をやめる』から3年を経た、平川哲学の集大成。

    **

    レビュー by 横田貞記
    5つ星のうち3.0
    確か、花田清輝の復興期の精神の中に同じタイトルの評論があったと思います。それに触れていないのは残念です。
    2人のお客様がこれが役に立ったと考えています

    **

      まえがき

     一年前に、会社を一つ畳んだ。
     そのために、会社が借り受けていた銀行やら政策金融公庫からの借金を一括返済せねばならず、家を売り、定期預金を解約し、借り受け金額を返済し、結局、全財産を失った。
     同じころ、肺がんの宣告を受け、入院、手術で、右肺の三分の一を失った。
     もう失うものがあまり残っていない。
     失うものがないというのは、弱みでもあり強みでもある。
     債権回収の鬼といえども、金のないものから取り立てることはできない。
     臓器移植の悪魔のセールスマンも、無い肺は売れない(言い過ぎですね)。
     まあ、とにかく還暦を過ぎて何年も経て、そんな状態に陥ったわけである。
     そのことに対して、特段の後悔も、もちろん満足もない。
     こういうものだろうと思うだけである。
     人間というものは、こうやって、すこしずつ持てるものを失っていって、最後には空身であちら側へ行くというのが理想なのかもしれないとも思う。
     ひとの生涯というものは、意思だけではどうにもならない。
     この間のいきさつについて、だいたいのところは、納得しているし、違うやり方があったとも思わない。
     機縁の赴くままに、と言えば達観したかと誤解されそうだが,それはまったく違う。あがいても、もがいても、行きつく場所はだいたい同じところだというのが、不思議な処で、満足というよりは、まあ、しょうがねぇかといったところなのである。
     ただ、これまでフルスロットルで突っ走ってきたので、これからはすこし違う景色も見てみたいと思うようになった。
     自分で意識して生活を変えたわけでもないのだが、金が無くなり、体力が無くなれば自然と生活も変化する。
     で、どのように変化したのかといえば、一日の変化が少なくなるように、変化したのである。これを、流動性の喪失というらしい。
     過剰流動性というバブルへの待望がわたしの内部ではじけたのかもしれない。
     そうなってみると、することが無いので、銭湯をはしごしたりしている。
     最近、亀有にとてもよい銭湯を見つけた。
    『こち亀』の亀有である。東京の南の外れにある自分の家からはちょいと遠いのだが、晴れた日曜日の午前中などは、快適な朝の露天風呂を目指して車を走らせる。
     箒で掃いたような雲と青空の下で、素っ裸になって湯あみするのはまことに心地がよい。生きていることに感謝したくなる。
     素っ裸がいいのである。
     やはり、風呂だなと思う。すべての財産を失い、素っ裸になっても、湯に浸れば、幸福感に浸ることができるのだ。
     借金という重圧から解放されるだけで、身体中の重しが取れたように、身も心も軽くなる。
     もう、借金返済のために働かなくてもよい。
     しなくてもいいことは、やらないぞ。
     と思っていたら、ミシマ社の三島社長がやってきた。
     三島くんというのは、こういうときを見計らったかのように姿を現す。
     出版界の珍獣ハンターである。
     それで何用かと思えば、「破産論」書きませんか、とおっしゃる。
     こりゃ、債権回収担当者より怖い。
     わたしが財産を失ったらしいことをどこかで嗅ぎつけて、姿を現したのである。
     ミシマ社では、最初に『小商いのすすめ』という本を書いた。
     路地裏の小商いみたいなことをやって、生き延びていけるのなら、組織の末端での社畜のような生活から脱却して、もうすこし自分らしい商いをしてみたいと考えているひとたちのお役に立てるかもしれない。
     しかし、わたしにそのような「人生お役立ち本」が書けるわけがない。
     有用なことをすることをわたしの内部の何かが拒絶するのである。
     そんなわけで、この本は上梓するまでに、ずいぶん難渋した。
    『小商いのすすめ』という本を書きながら、小商いの真髄がよくわからなかったのである。

    ・・・

    ・・・借金漬けの生活からもさよならして、ついには、文無し生活、その日暮らし、タケノコ生活、自転車操業の日々となった。
     とほほである。
     多くの人々は、そんな生活をしたいとは思わないだろう。
     しかし、やってみるとこれがなかなか時代に適合した生き方のようにも思えてくる。
     ただ、そこにはもちろん落とし穴もある。
     下手をすれば、日々の釜の蓋もあかなくなり、一夜の宿にも困窮するということになりかねない。それでも、その日暮らしというのは、なかなか味のある生き方だと思うし、これからの成長しない経済の時代に適合した生き方になり得るようにも思う。そのために必要なものは何か。それが問題だ。
     その答えは本書をお読みいただきたいと思う。

    ・・・

     やむを得ず、その日暮らし。
     それもまた、味わい深い。

    Reply
  3. shinichi Post author

    持続した「楕円的構図」への関心

    by 今村都南雄
    自治総研通巻466号 2017年8月号

    Ⅰ 楕円図形への関心~過去の体験をたどって~

    (1) 中等教育での思わぬとまどい

    手近な国語辞典類に採用されている初等幾何学の定義に従うならば、楕円とは「一平面上で、二つの定点(焦点)からの距離の和が一定であるような点の軌跡」である。この楕円図形について面白さを感じたのはいつごろであったかを思い返すと、やはり中学・高校時代の学校教育における体験まで遡らなければならない。

    最初の記憶は楕円の作図法である。古い記憶をたどり返せば、概略、次のような手順になる。①画板の平面に適当な間隔で2本のピンを立てる。②2本のピンを底辺とする扁平な三角形をイメージして、その3辺の和よりもやや長い糸紐で輪を作る。③輪にした糸紐を2本のピンに引っかけ、輪の内側に鉛筆を立てて、糸紐がたるまないように注意しながらゆっくりと一周する。これが最も簡便な楕円の作図法であって、画板を用意した記憶からすると、存外と小学校の上級年次のことだったのかもしれない。

    次に記憶にあるのは、高校初年次あたりの数学(幾何)のクラスであったかと思う。一つの定点(中心)から等距離の点の軌跡である円の図形との違いに重点を置いた教師の作図と説明がそれで、これには思わぬとまどいを覚えさせられた。

    なにしろざっと60年前のことでうろ覚えであるが、いきなり黒板にx 軸とy 軸が直角に交わる直交座標を描き、円の場合は、直交軸の交点(原点0)を定点としてコンパスで一周するとまん丸の図形(正円)となることを示したあと、x 軸を長軸、y 軸を短軸として、原点0を横切るx 軸上の左右に、原点から等間隔の二つの定点を設定し、その二つの定点からの距離の差が最大となるx 軸上の左右2点を図形の軌跡が通るように(つまり、楕円の軌跡が二つの定点の外側を通るように)、横長で扁平形の楕円図形を描いてみせる方法であった。この説明になると楕円の定義も公式化され、二つの定点を(F,F’)、楕円の軌跡上の任意の2点を( P , P ‘ ) として、FP+PF’=FP’+P’F’となることが明らかにされる。

    教師の説明に耳を傾けながら黒板に描かれた円と楕円の図形を眺めているうちに、思わぬとまどいを覚えさせられることになった。直交座標の原点0を横切る左右のx軸上に設定された二つの定点(焦点)の間隔を徐々に短くして双方を近づけていくと、横長・扁平に描かれた楕円の図形が円の図形に近づいていく。そして、楕円の二つの定点が重なると、なんと楕円と円が同一化してしまうではないか。円と楕円の違いからスタートしたはずなのに、いったいこれはどういうことなのか。ざっと、こんなぐあいだったのだろう。

    このとき経験したとまどいは、楕円の定義を思い起こせばたちどころに打開できたはずのものであるが、定義から出発してそれを公式化するだけで事足れりとすることに面白みを感じなかった私の性分によるものなのか、あるいは高校時代における県外転居とそれに伴う転校、それに加えて、翌年における東京都心の病院での入院・開腹手術が重なったため、双曲線や放物線についてきちんと学ぶチャンスを失ったせいだろうか、しばらくの間、そのままになってしまった。

    その後、さらに術後の通院生活が継続したこともあって、大学進学を1年遅らせざるをえなくなったのだが、高校卒業後に一家の生活拠点が東京近郊に移ってからの新しい環境に慣れるにしたがって、次第に体調不調をかこつことも少なくなり、その快復過程での自学自習により、楕円についてもそれまでとは異なる理解のしかたができるようになった。すなわち、今となっては書名も分からない受験参考図書中の、立体図形を用いた「円錐曲線」にかんする解説に助けられて、円錐を横から切断した場合の切断面が円になるか楕円になるかは、もっぱら円錐の底面と平行な平面で切断するか否かによるのであって、その限りでいえば、円は楕円の特殊な場合であるとみなすこともできるのだと、やっとそのころになって、遅まきながらも、自分なりに納得することができたのである。

    初等幾何学的な楕円図形への興味はここでひとまず途絶える。迷いながらの進路変更により、「私学文系学部」にふるい分けられる中央大学法学部への進学を決めたからである。

    (2) 内村鑑三・大平正芳の「楕円考」との出会い

    中央大学の学部課程で法律学を専攻し、3年次から行政法ゼミに所属した私の行政学研究のスタートは、その当時日本で唯一の行政学専攻大学院だった国際基督教大学(ICU)の行政学研究科修士課程に進学してからである。そのころ内村鑑三と大平正芳の「楕円考」に相次いで出会った。前後関係がはっきりしないのだが、ICU図書館に内村鑑三記念文庫が設けられたのは私の行政大学院進学直前のことであり、もう一方の大平正芳の著作を手にするようになったのはそれより後のことであるから、その順序に従えば、私にとって「内村鑑三先にありき」だったと思う。

    内村鑑三の後半生において書き綴られた『聖書之研究』の終わり近く、「楕円形の話」と題する一篇が登場する。楕円形に言及した箇所は他にもあるのだが、これが一番まとまっている。冒頭の一節は次のようである。

    「真理は円形に非ず楕円形である。一箇の中心の周囲に画かれるべき者に非ずして二個の中心の周囲に画かれるべき者である。恰かも地球其他の遊星の軌道の如く、一個の太陽の周囲に運転するに係はらず、中心は二個ありて、其形は円形に非ずして楕円形である。有名なアインスタインの説に依れば、宇宙其物が円体に非ずして楕円体であると云ふ。人は何事に由らず円満と称して円形を要求するが、天然は人の要求に応ぜずして楕円形を採るは不思議である。楕円形は普通に之をいびつと云ふ。曲つた円形である。決して美はしきものでない。然るに天然は人の理想に反してまる形よりもいびつ形を選ぶと云ふ。不思議ではない乎。」

    他ならぬ聖書研究において「真理は円形に非ず楕円形である」と言い切り、「楕円形的の真理の裡に真理の深味と興味とがある」ことを説くところに一種の衝撃を覚えたのが最初である。しかしそれからしばらくして、社会科学的な認識においても、そのことが妥当するのではないかという漠然とした感覚を持つようになったことを思い出す。

    もう一方の大平正芳の「楕円考」はどうか。周知のように、彼はクリスチャンであった。大学入学前に郷里で洗礼を受け、内村鑑三やその門下にあった人びとの著作に親しんでおり、大学進学後も矢内原忠雄の聖書研究会とか賀川豊彦の聖書講義などを受講する機会を得ていたようである。かつての私は、若き大平の「楕円考」について、そうした信仰上の歩みとの関連で、しごく単純に、彼が内村鑑三の「楕円形の話」を読んでいたことによるのではないかと想像していた。ところが後年、政治学分野での扱いはもっと広範な文脈で「楕円の哲学」として論じられるようになり、後述するように、社会的にもその呼称が一般化して通用しているようにも見受けられるので、以後の論述ではそれにならうことにする。

    大平の広範な内容にわたる「楕円の哲学」にかんして私見を述べる用意はないが、巷間広く読まれたと思われる福永文夫『大平正芳 ― 「戦後保守」とは何か』(中公新書)の第1章(青少年期 ― 人間と思想の形成)でも簡単に触れられており、著者はそこにおいて、弱冠28歳の横浜税務署長として大平がおこなった訓示の一部を引用し、「それはのちに『楕円の哲学』と呼ばれる大平の人生哲学・政治哲学の最初の吐露であった」としている。その引用箇所には省略もあるので、ここでは典拠とされた大平の代議士生活三周年記念の著作『素顔の代議士』から、省略箇所も復元して参考に供することにしよう。

    「行政には、楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちつつ緊張した関係にある場合に、その行政は立派と言える。例えばその当時支那事変の勃発と共にすべり出した統制経済も、統制が一つの中心、他の中心は自由というもので、統制と自由とが緊張した均衡関係に在る場合に、はじめて統制はうまく行くのであって、その何れにも偏寄ってはいけない。税務の仕事もそうであって、一方の中心は課税高権であり、他方の中心は納税者である。権力万能の課税も、納税者に妥協しがちな課税も共にいけないので、何れにも傾かない中正の立場を貫く事が情理にかなった課税のやり方である。」

    大平はこの一節に続けて、かつての自分をふり返って、「当時としては随分とませた事を言ったものだと思う」と回顧している。もしかすると、内村鑑三晩年の作品「楕円形の話」と比べて、さほど行政経験を積んでいない年齢でありながら、その年齢に似つかわしくない大人きどりの口調であったことを照れているのだろうか。しかしそのおかげで私は、「行政には、楕円形のように二つの中心があって、その二つの中心が均衡を保ちつつ緊張した関係にある場合に、その行政は立派と言える」という、見事な彼の「行政哲学」を知ることができたのだった。

    それはともかく、内村鑑三の「楕円形の話」と大平正芳による「楕円の哲学」の着想に相次いで出会うことを通じて、私の楕円図形への関心が形を変えて再燃することになった。

    (3) 見逃せない「中心」と「焦点」の混同

    上の内村鑑三と大平正芳からの二つの引用文を一読してすぐさま気づくのは、どちらも楕円の「中心」と「焦点」を混同していること、これである。すでに古い記憶をたどり返して述べたように、かねて楕円図形にかんして思わぬとまどい感を覚え、しばらく悩まされた体験からすると、この点だけは見逃せない。

    その後の私は、折にふれてさまざまな「楕円考」を読み飛ばすようになったのだが、その中で大いに参考になったのが花田清輝の戦中期における文芸評論「楕円幻想 ―ヴィヨン」であった。この際、あらためてそれを読み返してみよう。

    その冒頭、「円は完全な図形であり、それ故に、天体は円を描いて回転するというプラトンの教義に反し、最初の、惑星の軌道は楕円を描くと予言したのは、デンマークの天文学者ティコ・ブラーエであったが……」の一文を読んだだけで、これは面白いと感じとった当時の感覚がよみがえる。「それはかれが、スコラ哲学風の思弁と手をきり、単に実証的であり、科学的であったためではなかった。プラトンの円とおなじく、ティコの楕円もまた、やはり、それがみいだされたのは、頭上にひろがる望遠レンズのなかの宇宙においてではなく、眼にはみえない、頭のなかの宇宙においてであった。それにも拘らず、特にティコが、円を排し、楕円をとりあげたのは、かれの眺めいった、その宇宙に、二つの焦点があったためであった。……転形期に生きたかれの心のなかでは、中世と近世とが、歴然と、二つの焦点としての役割をはたしており、空前の精密さをもって観測にしたがい、後にケプラーによって感謝されるほどの業績をのこしたかれは、また同時に、熱心な占星術の支持者でもあった。」

    評論の副題にある人名は太宰治の短編『ヴィヨンの妻』のタイトルに使われていることで多くの人が知っている、15世紀フランスの詩人フランソワ・ヴィヨンのこと。なんでも、「ティコ・ブラーエは、はじめて天界において楕円をみいだしたが、下界における楕円の最初の発見者は、フランソワ・ヴィヨン」だったという。花田における主テーマは副題にあるヴィヨンのことであろうが、あまりそのことにとらわれてしまうと、彼の作品はつまらないものになってしまう。

    花田の「楕円幻想」を一読してことのほか私の印象に残ったのは、おそらく次の部分ではないかと思う。すなわち、20世紀初頭の日本において話題を呼んだという二葉亭四迷『其面影』の最後の場面での主人公の述懐 ― 「成程僕には昔から何だか中心点が二つあって、始終その二点の間を彷徨しているような気がしたです。だから事に当たって何時も狐疑逡巡する、決着した所がない。」 ― を引いて、「私の歯痒くてたまらないことは、おそらく右の主人公が、初歩の幾何学すら知らないためであろうが」との推測のもとに、主人公がそうした「狐疑逡巡」や「決着した所がない」さまになる最大の原因は、「二つの焦点を、二つの中心として、とらえているということ」、そこにあるのだと花田が断言し、以下のようにたたみかけている部分がそれに当たる。「何故に、決然と、その各々の点にピンを突き刺さないのであろうか。何故にそれらのピンに、一個の木綿の糸の輪をかけないのであろうか。何故に鉛筆で、その糸の輪をつよく引きながら、ぐるりと回転させないのであろうか。つまるところ、何故に楕円を描かないのであろうか」と。

    しかし、これだけであれば、断るまでもなく、楕円の簡易な作図法をなぞってみせたにすぎない。それだけのことであるならば、まるで、楕円の形式的な定義をもって事足れりとするのと変わらないではないか。

    まさしくそのとおりであり、花田はどこから採ったのか、片仮名まじりの楕円の定義を掲げ、そこにとどまるわけにはいかないことにつき、「我々は、在るときには、楕円を点の軌跡とみ、在るときには、円錐と平面との交線と考え、また在るときには、円の正射影としてとらえ、無数の観点に立つことによって、完膚なきまでに、楕円にみいだされる無数の性格を探求すべきであった。惑星の歩く道は楕円だが、檻のなかの猛獣の歩く道も楕円であり、今日、我々の歩く道もまた、楕円であった」と集約する。そしてさらに、「いうまでもなく楕円は、焦点の位置次第で、無限に円に近づくこともできれば、直線に近づくこともできようが……」で始まる次の段落で、作品の冒頭における円と楕円との対比的な設定に立ち返るかのように、いつまでも「円の亡霊」に取り憑かれていては駄目だということから、「焦点こそ二つあるが、楕円は、円とおなじく、一つの中心と、明確な輪郭をもつ堂々たる図形であり、円は、むしろ、楕円のなかのきわめて特殊のばあい ― すなわち、その短径と長径とがひとしいばあいにすぎず、楕円のほうが、円よりも、はるかに一般的な存在であるといえる。ギリシア人は単純な調和を愛したから、円をうつくしいと感じたでもあろうが、矛盾しているにも拘らず調和している、楕円の複雑な調和のほうが、我々にとっては、いっそう、うつくしい筈ではなかろうか」と言ってのける。

    どうだろうか。ちなみに、内村鑑三「楕円形の話」の初出は1929年10月、若き大平正芳による税務署長訓話がその8年数ヵ月後の1938年1月、そして花田清輝「楕円幻想」の雑誌掲載は1943年10月のこと。通算してみると、これらはわずか14年間における出来事である。あるいはそのころが花田清輝のいう「転形期」だったせいであろうか。

    Reply
  4. shinichi Post author

    大平正芳(1910年 – 1980年)
    1933年、再び学業に戻ることを決意した大平は綾歌郡坂出町の鎌田共済会と香川県育英会の2つの奨学金を得て東京商科大学(現:一橋大学)に進学した。大平23歳の時のことである。

    1935年、高等試験行政科試験に合格したが、特に官吏志望だったわけではなく、川田順を愛読していた大平は住友系の企業へのあこがれを持っていた。ところが当時大蔵次官だった同郷の津島壽一に挨拶に行った折、即決で大蔵省に採用された。1936年入省、預金部に配属。

    1937年、横浜税務署長。当時東京税務監督局直税部長だったのが池田勇人で、以後しばしば部下として会う。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *