愛国心(森嶋通夫)

 愛国心とは何であるか。・・・私の祖父や父や私自身、その枠組みの中で生活し、喜び、祝い、苦しみ、かつ悲しんだ日本という「民族国家」はやがて力を失い、他の国同様、広域共同体の中に吸収されてしまうであろう。そういう時がいつ来るか断言はできないが、ヨーロッパでは次の世紀の前半、東アジアでは後半に来ると考えるのが穏当である。いまは過渡期にあるのだ。
 だから愛国心も過渡期にあると考えてよい。・・・これからの若い人達は、共同体の中にいき、それを生かすために生きるという時代への入口をやがては経験しなければならない。そういう子供たちを教えるのだという気持ちを持てば、子供たちにはどこに行っても通用する真実を教えておかねばならないという気を教師たちは・・・もつ筈である。

3 thoughts on “愛国心(森嶋通夫)

  1. shinichi Post author

    なぜ日本は没落するか

     

    by 森嶋通夫

    このままだと日本は必ず没落する……。1999年に刊行された本書は、2050年を見据えて書かれているが、驚くほど現在の日本の現実を予見している。なぜそうなるのか、日本人の精神性と日本の金融、産業、教育の荒廃状況を舌鋒鋭く指摘し、その救済案「東北アジア共同体構想」を示し、救済案への障害となるものをも示す。
     
     
     

    第8章 救済策への障害

    独自の日本史はありうるか

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  2. shinichi Post author

    第2章 人口の分裂

    人口の長期予測

     中位推計でも人口は二割減るのだから、大過疎状態が発生する。日本人が過去に経験した過疎は田舎に起こり、都会では過密が生じた。田舎では閑古鳥が鳴いていたが、都会では渋谷がそうであるように人間が満ちあふれていたのである。
     しかし次世紀での人口減少は社会移動によるものでなく、主として出生率の減少によるものである。そしてそれは都市、田舎をかまわずに国全体に生じる。過疎が都市部で生じるならば空き家の住宅が生じるだけでなく、事務所や店舗が空になってしまうだろう。治安が悪くなり、浮浪者の溜り場になる。都会の建築物の資産価値が減り、すべてが不良資産化する。不良資産の問題は一時的な問題でなくなり、恒久的に定着するだろう。
     さらにその上に人口成長の不安定性の問題がある。・・・国民は「こんなに人口が減るのでは、生まれてくる子供は可哀想だ。彼らが背負わねばならない負担はあまりにも大きい」と考えるだろう。人々は一層産児制限をするようになり、予想人口曲線は下方にずれ落ちる。

    戦後の教育改革の影響

    日本の場合、死んで往く老人が、伝統的な日本文化を身につけており、生まれてきたものは欧米文化をより多く見に付けるとするならば、出生と死亡がもたらす文化交代は集団の質を激変させることになる。

    教育の役割 デュルケームの規定

     デュルケームによれば、教育は次のような役割を演じる。教育−−成人ないし社会人教育でなく、青少年に対する教育−−は青少年が大人の社会に参入するのを円滑にするという役割をもっている。このことは大人の社会がどういう社会であるかに応じて、青少年の教育のされ方が決まることを意味する。逆に言えば、青少年の教育のされ方を決めれば、大人の社会もそれに応じたものでなければならないことを意味する。

     それ故、日本のように学校教育が占領軍の命令によって、自由主義、個人主義を根幹とするように決められると、大人の社会も自由主義、個人主義を基軸とするものに改革されるべきだということを意味する。しかし大人の社会に関しては、占領軍はそのような命令を出さなかった。また占領が終了して、日本政府が教育の自主権を獲得した後も、政府は学校教育を再改革することはなかった*1。

     その上、戦後の日本人は大人の社会をできるだけ戦前のままに保つよう努力した。後の章で見るように、戦後の日本経済は戦争中の体制の平時版と見てよいほど、戦時体制に酷似していた。同時に日本の政治体制も政治勢力も、戦前回帰的であった。さらに重要なことには、このような組織を動かしていくイーソス(精神、ethos)は、極めて日本土着的であった。

     言うまでもなく、この事実は大人の社会(保守的、日本土着的)と、青少年の社会(進歩的、西欧的)の間に大きい断層があることを意味する。だから学校教育を終えた青年は、大人の社会の入り口で戸惑い、失望した。

     新入社員を受け入れた会社は、「社員教育」という名の道徳教育を行ない大人社会の掟を新人社員に強制した。それは彼らが学校教育で善とし是としたものを全く裏返しにした像を映し出した鏡の中の世界であり、鏡の中では現実の左右は、右左に、前後は後前に映し出されていた。学校で習った道徳律に、若者たちは一八〇度の変換をほどこして、行動しなければならなかった。変換の術に長けないものは、衝突し、衝突した者は、採用内定が取り消され正式社員となりえなかった。

     戦後大人の社会入りした純粋戦後派は、まずこの新人社員教育という踏絵の煉獄に耐えなければならなかった。子供たちをそういう戦後派に教育し、教育結果に責任を持つべき筈の文部省は、「社員教育」はやめろとの声を上げなかった。改めるべきは大人社会であるはずだのに、「新入社員教育」は、大人社会への通過儀礼として定着した。

     しかし初めのうちは二つの道徳−−日本式の大人道徳と西欧式の子供道徳−−の矛盾はそれほど大きいものではなかった。子供たちは学校で自由主義、個人主義について学ぶとともに、家庭では日本式の道徳(儒教道徳といってもよいであろう)を学んでいたから、戦後初期の若者たちは二刀流に行動することが可能であった。だから新入社員は大人の社会に順応し、日本は教育改革にもかかわらず、道徳面で極めて保守的であり得たのである。

     しかし一九八〇年代末になると、純粋戦後派の家に生まれた子供たちが学校教育を終えて、大人社会の門戸を叩くようになった。このような新青年は、二刀流を使えなかった。彼らの親は、二刀流であるとはいえ学校では欧米流の教育を受けていたのだから、そのような家庭で育った八〇年代末期の新青年には、二刀流を使うことは非常に難しかった。

     こうして漸く、日本の大人社会の下部(若年層)が動きだした。学校教育は大人社会にうまく接合していなければならないというデュルケームの主張に、日本が真剣に直面すべき時に達したのである。それは大人社会を固定して、それに適合するように子供教育をするという形ではなく、子供教育を固定して−−自由主義・個人主義教育は、戦後社会の至上命令である−−大人教育(原文ママ)がそれに適合するという形で遂に実現するようになったのである。ここに遂にと書いたのは、大人社会のあらゆる抵抗があったにもかかわらず、遂にという意味である。

     しかしこれは二つの社会の理想的な接合の仕方ではなく、致し方ない無理矢理の接合である。というのは大人の社会の側に、自分たちの社会の道徳や気風を変えようとする気がなかったからであり、もしそういう気があれば、大人社会をどう変えるべきかの議論が起こり、そのためには学校教育をどう変えればよいかの議論が起こった筈である。文部省に教育改革の意志が全くなかったとは言わない。しかし彼らの改革の試みは、すべて技術的な側面だけに限られていたようである。自由主義、個人主義は、学校教育の神聖不可侵な理念であり、他方大人社会は明治天皇の教育勅語そのままの社会であり続けさせたいというディレンマに文部省は陥っていた。

     その間、大人社会の理念と子供教育の理念は両立不可能なまでに乖離して、戦後に大人社会が、新人類によって押し切られたのが現実である。(最近には、子供教育の理念をもっと保守化、土着化せよという動きが一部に起こってきている。不況が続けば、こういう動きは強くなると考えられるが、その点については第八章を見られたい。)

    一九九〇年代初めが重要な理由

    一九六〇年代から一九七〇年代にかけて日本の政財界を支配していた戦前世代が、一九九〇年代になって力を失った。このことは容易にわかることである。一九八〇年代は、主役が戦前世代から戦中世代へと移っていく時期だった。そして、一九九〇年代半ばには、さらに戦後世代への移行が始まったと言えるかもしれない。GHQの教育改革は、米国流の理想を日本の子供たちに植えつけるという意図をもって進められた。それは「家」の大切さや国家への忠誠を強調する儒教を基礎にした戦前教育とは大きく異なっていた。作家の三島由紀夫が、自衛隊の将校や兵士に対し忠誠心や愛国心を重んじる戦前倫理の復興の必要を説き、彼らに一笑に付せられるとその場で自殺したのは一九七〇年である。その行為は唐突で、手法もヒステリックでマンガ的ですらある。しかし、それが戦前世代から戦後世代への実権の移行が始まった初期の出来事である点には注目すべきである。三島自身は、過渡期の教育を受けた最年長の世代に属している。

     少なくとも一九八〇年代初めまでの日本では、政治家、官僚、財界人が互いにうまく協力を進めてきたことは承認できる。だが、いわゆる「バブル」がはじけた一九九〇年以来、この三つの専門集団の間の強固な団結は崩れていった。官・財の贈収賄、インサイダー取引、不自然に高価な飲食店での「官官接待」など、数え切れない不祥事が新聞に暴露された。こうした職務規律の荒廃は、特に「バブル」期に生じたものについては、政治家・官僚・財界人の活躍する年齢が大きくずれているという事実と関連が深いように思われる。

     官僚の場合、その省庁のトップである事務次官が決まると、彼以上の古参者は辞める慣例になっている。だから官僚の殆ど全員は約五三歳以下と言ってよい。他方、企業の世界では、通常の社員は五八歳が定年である。幹部クラスになると、たとえば六三歳まで残る者もいる。さらに、社長・会長・相談役になると、だいたい七〇歳くらいまでは現役に留まれる。

     そして、政治家の場合には、企業トップよりもさらに高齢まで現役に居座り続けることも決してめずらしくない。一九九〇年代前半が大切な理由は、これで理解できよう。この時期は非常に複雑な時代である。官界は一貫して戦後教育を受けた人か小学校一、二年だけ戦前教育を受けた過渡期末期の人で占められており、次いで産業界のトップは過渡期前期の人で占められつつあり、さらに政界にはまだ時代遅れの考え方をする戦前派が残っていた。日本は政財官の三界の結束が固い社会と言われるが、一九九〇年代初めには、教育的背景の全く違う人が三界を占めていたのである。

     それまでの戦後史を通じて、一九四六年から一九八〇年にかけては、吉田茂、石橋湛山、池田勇人、佐藤栄作、三木武夫、福田赳夫、大平正芳など*2、日本的水準では優れていたといえる政治家が活躍した時代であったが、これらの人達は石橋・三木の二人を除けば、全員キャリア官僚の出身である。その後、こうした官僚出身者による政界支配が批判され、政党生え抜きの人間に重要な地位を任そうという気運が高まった。一九八八年から一九九七年にかけて(ママ*3)九人の首相が誕生したが、そのうち官僚出身者は宮沢喜一ただ一人。他は皆政党生え抜きの首相である。だがその業績は、それ以前の官僚出身の首相と比べると、明らかに大きく見劣りがする。

     これらの党人派の政治家は戦後教育を受けた若い人達であったにもかかわらず、選挙に勝ち抜かねばならぬという地位の不安定さの故に、選挙区の古老に牛耳られており、日本の政界の倫理は党人派の時代がくるとともに近代以前に逆戻りしてしまった。さらに政界には定年制がないから、古色蒼然とした時代はずれの思想の持主の大物が生き残っている。こうして日本の政界の倫理はついには、ムラ社会の感覚や哲学によって支配されるくらいにまで、地に堕ち堕落してしまったのである。

     さて、ここで忘れてはならないのは、企業社会の上層部ではその頃は戦前期ないし過渡期前半期の教育を受けたものが支配し続けていたということである。だから保守的な眼によって、新入社員が八〇年代半ばには「新人類」と見られたことは既に述べた。彼らの扱いに手を焼いた一九八〇年代後半には、社内の再訓練自体がうまくいかなくなってしまった。というのは、訓練する側でさえ、経営上層部から見れば理解しがたい存在、新人類の亜流でしかなかったからである。

    ・・・

     労働人口の構造という観点から見れば、日本は一九八〇年代に急速に変化した。一九八六年までは、政財界の主力はほぼ戦中。戦前世代に占められていた。ところが一九九〇年には、現役の幹部として活躍する戦前世代はまだ舞台に残ってはいるが、去りつつあった。既に指摘したように、一九九四年以降は、日本の社会は大きく三つの部門に分裂していた。つまり、新制教育を受けた官僚からなる行政部門、伝統的な行動様式でしか動かない政界、そして儒教的エートスを残している過渡期の教育を受けた経営上層部と戦後教育を一貫して受けた一般社員クラスが混在するビジネス社会がそれである。

    社会変動に不感症の悲劇

    戦後の日本の子供教育は大人の社会に適合していなかった。子供から大人への移行 を、子供にとって負担の小さいものにするためには、大人社会を変えるか、子供の教育を変え るかの、少なくとも何れか一つを実行するか、或いは両方を変えて両者を適合させねばならな かった。しかし大人たちは彼らの社会の在り方を変えようとはしなかったし、文部省は子供の教育を変えようとしなかった。そういう問題があることすら、文部省も大人の社会を代表する 人達(実業家や政治家)も知らないかのようであった。教育改革が問題になることがあっても、 そのような基本的な論点には触れず、入学試験をどのように変えるかというような技術的な問 題をいじるだけであった。理念を全く異にした二つの社会の調節の仕事は全て入社直後の「新 入社員教育」に押しつけられていた。
     その結果学校教育は、子供に大人の社会の将来の中心メンバーとなるのだという気概を植え つけなかった。戦後教育では子供は個人主義的、成績主義的、普遍主義的(縁故者を優遇した り裏で手を回したりしない)、平等主義的であるように教育されているが、日本の大人の社会 は頑強に集団主義、家柄主義、縁故主義、集団差別主義を固執している。敗戦によって極めて 非日本的な教育を押しつけられた結果、日本人はその教育を元に戻す保守的勇気も、大人の社 会を新教育に見合うようなものに改変する進歩的勇気も持っていなかった。こうして日本人は、 子供時代と大人時代を分裂したままに生きる生活を続けて来たのである。

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  3. shinichi Post author

    はしがき

     日本はいま危険な状態にある。次の世紀で日本はどうなるかと誰もがいぶかっているのでなかろうか。私も本書で、照準を次の世紀の中央時点――2050年――に合わせて、そのときに没落しているかどうかを考えることにした。そのためには、まずなぜこんな国になったのかが明らかにされねばならない。それと予測が本書の問題である。
     通常没落とは、経済的に落ちぶれることを意味することが多いが、没落と貧困が一致して同時に起きるとは限らないことは、明治維新を見ればわかる。当時徳川体制は行き詰っていたが、経済的には国民全体が塗炭の苦しみにあえいでいたわけではない。危機感は政治の貧困に対して生じたのであり、経済に対してではない。
     没落は政治から起こることもあるし、経済から起こることもある。日本はかつて政治は三流、経済は一流と言われたが、経済が破綻した現在でも、海外が日本に期待しているのは依然として経済であって、政治ではない。経済と政治の結びつきは種々であり得る。日本が没落するのは、今度の場合も明治維新の時と同様、政治からである。それは日本の伝統なのだろうか。
     経済からであろうと、政治からであろうと、あるいは両方からであろうと、没落した国民は、発言力が弱くなり、世界史はその国民を無視ないし置き去りにして前進して行く。歴史への貢献度は非常に低くなってしまうから、そんな国民は、一流国民と見られることはない。今は日本はG7のメンバーであり、一流国の仲間入りをしているつもりでいるが、もはやその中の重要メンバーではない。政治が駄目だのに、いまのところ経済でもっているだけである。
     次の世紀の日本は、昭和時代の日本――悪役であったとしても世界をかき回した――とは違って、幕末の時のように国際政治的には無視しうる端役になっているだろう。もちろん20世紀での活躍の記憶があるから、幕末の時のように全くの無名国ではない。しかし残念ながら日本が発信源となってニューズが世界を走ることは殆どないだろう。
     けれどもこのことは必ずしも日本が経済的にも没落していることを意味しない。幕末の時も、ヨーロッパから見れば、日本は時代遅れの中世的な国であったのに、経済的には中進国とみなせる国であった。庶民の教育程度や、文化水準は驚くほど高かった。
     このように政府(幕府)に力がなく、国民が時勢に目覚めていなくても、国が経済的に貧困でないことは十分あり得る。こういう状況の場合には、一群の政治的アイディアを持った人々が現われて主導権を握れば、明治維新がそうであったように、社会の歯車が一転して勢いよく回転しだすことがあり得る。しかしそういう人が現れず、政治的停滞が続けば、その国はせいぜいよくて、人々が過分の物質的生活を享楽して時を潰すだけの国に終わってしまう。
     幸か不幸か、徳川時代は階級差が激しく、地方差も激しい時代であった。だから住民の大部分が危機意識を持っていなくても、一部に「世を憂える志士」が現れることがあり得たし、事実彼らの奮起が日本を支えた。しかし2050年の場合には、都会でも田舎でも人々は同じ教育を受け、しかも日本は階級差の少ない社会になっている。その上その時の日本の住民の資質は良くないと予想される。(この予想が本書の焦点である。)エリートも牽引車ももはや存在しない。だから人々は経済的に恵まれていればいるほど、安逸を打ち破ろうとはしないであろう。彼らはむしろ何もしないで安楽死を願望するとすら考えられる。
     それでは2050年の経済状態はどうであろうか。残念ながら今の経済学には50年後の経済予測をするほどの力はない。従って私は次のようなケースごとの答で満足しなければならない。(一)幸いにしてその時江戸時代末のように経済的に恵まれておれば、上に述べたように政治的没落に対して国民は「無為」という反応をするだろう。(二)もしその時の経済状態が悪ければ、事態はもちろん最悪で、失業者は巷にあふれている。
     古典的な景気観察によれば、不強は七年から十年に一回来るから、今の不況を含めて2050年までに六回から八回の不況が来る勘定になる。それらをうまく切り抜けると(一)の事態を期待しうる。しかしその時でも政治的沈滞は避けがたい。だから「政治的没落」の罠からどうして脱出するかが、日本の中心的問題でなければならない。私はそのためにはアジア共同体の形成以外に有効な案はないと考えている。しかし日本人はそのような案を好まないようである。現在の日本人ですらアジアの中でお高くとまりたがっているからである。
     私たちは二者択一を迫られている。アジア共同体案を拒否し没落を甘受するか。それとも案を受諾し前向きに進むのか。もし日本を除く他のアジア諸国が共同体を形成すれば、案を拒否した日本はアジアの中で孤立してしまうであろう。そうなれば事態は絶望的に深刻である。

    1999年1月6日

    著者

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