時間か出来事か

量子力学のミクロの世界は、人間中心に考えると奇妙に見える。宇宙というマクロの世界も、人間中心に考えると奇妙なことばかり。ところが「人間はそう特別なものではない」とか「地球は宇宙の中心なんかではない」というふうに当たり前に考えることができれば、人間中心の考え方から離れ、ミクロの世界もマクロの世界も奇妙に思えなくなる。

「変化は時間変数“t”の関数で表すもの」という常識が出来上がったのは、人間が「人間中心の時間的な視点」を持っているからではないか。人間中心に考えなければ、event のほうが“t”よりも重要ではないか。多様性が極端に少ないミクロの世界での常識が、多様性が溢れんばかりのマクロの世界の常識と同じとは思えないけれど、でも、どちらの世界にも人間の直感的な常識が通用しないのは間違いない。

ややこしいのは、人間という存在がミクロの世界を基に成り立っているということ、そして、人間の世界がマクロの世界のほんの一部だということだ。人間の世界に、ミクロの世界の常識やマクロの世界の常識が通用しないはずがない。ミクロの世界の常識やマクロの世界の常識で私たち自身のことをわかろうとするならば、一旦、人間の常識を忘れたほうがいいのではないか? ミクロの世界での常識やマクロの世界の常識で考えたら、人間のことがもっとよくわかるのではないか?

時間が、私たちの常識では連続したもので、ミクロの世界の常識では不連続なものだとしても、何の問題もない。人の数だけの常識があり、人の数だけの視点があり、人の数だけの世界があり、人の数だけの時間がある。目の後ろの20センチくらいのなかに、常識があり、視点があり、世界があり、時間がある。

明白に見える「確実性」の拒絶に基づく知識の探求をしてみたい。そんなことは、できるはずもないけれど。

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